7
気がつくと、彼は休日にもかかわらず学校方面行きのシストラムに乗っていた。こんなところにまで習慣は人にしがみついてくる。
「突発的な家出」とでも言うのだろうか。こんなに感情が暴発するなんて事は初めてだった。これが限界、ということか。自嘲の笑いがこみあげる。
習慣に嫌気がさして次の駅で降りようとすると、目の前に璋が立っていた。彼は驚いたまま固まり、璋は無表情で乗り込んできた。
「どうしたんだよ、一体」
彼はあまりの偶然に尋ねるのもやっとだった。
「オレはよくこうやってぶらぶらするんだよ、ジョシュこそどうした」
「…まあな」
横田からの手紙について、まだ言う気にはなれなかった。
彼等は少しのあいだ、黙っていた。
「吸うか」
璋が上着のポケットから煙草を取り出し、火を点けながら言った。かなり慣れているようだった。
「ああ」
彼は吸った事がなかったが、咄嗟に粋がって答えてしまった。
彼は何でもないことのように煙草を銜え、璋から直接火をもらって吸い込んだ。その途端、流れ込んだ煙に彼は激しく噎せ、涙が出て頬を伝った。
「おいおい」
璋は苦笑した。彼は黙ったまま咳き込みながら涙を流し続けた。
その時、シストラムは再び停車し、璋が立ち上がったのに気づいて外を見ると、窓越しにギイが見えた。
今まで見たこともない翳った表情をしていたが、ドアが開いて彼等に気づくとすぐいつものギイに戻って爽やかに笑った。
「どうしたんだよ、その血は」
璋が声を上げた。よく見ると上着の下のギイのTシャツには赤いものがどぎつく散っている。
「いやあ、これさっき鼻血出ちゃってさ、Tシャツ全部洗濯中だから。君たちこそどうしちゃってんの」
「ジョシュが煙草に噎せてやがんの」
璋が言った。
「ははっ、さては初体験だな、初・体・験」
わざと言葉を意味深に使うギイを、彼は咳き止んだ涙目で睨んだ。
「じゃあお前吸ったことあるのかよ」
「いや、ないけど…、そうじゃない、この歳で普通に吸ってる璋のがおかしい」
「なんだと?」
璋が声を上げ、彼が笑い出すと二人も笑い出した。しかし彼のそれはすぐに消えてしまい、再び涙となって流れ出した。
そして彼は一息ついて言った。
「…手紙が来てたんだ、横田から」
笑い声は止んだ。
彼は手紙を二人に見せた。
「…俺のことを好きだって書いてあって、それがもの凄く苦しいから死ぬだなんていうんだ。俺はあんな事したっていうのに…」
そして彼は母親とのやりとりの事も話した。
「俺は、あいつの言うような優等生なんかじゃない、全部嘘なんだ、俺はほんとは何にも出来ない嘘吐きだ」
「どういう意味だ?」
璋が訊いた。
「俺は…兄弟の中で一番出来が悪くて、でも兄貴の参考書とか使ってたおかげでそこまで成績悪くなくて、でもこの学校受ける時、兄貴も姉貴も行ったとこだから、絶対受からなきゃいけないって……前の席のやつをカンニングしたんだ」
「そうなのか?」
ギイが目を丸くした。
「そうなんだ、そしたら一気に首席なんてことになって…、それでもあとは前と同じように要領だけで済んじゃってて…」
そして彼は泣きじゃくりながら、茫然としている二人の前で横田について話した。そんな弱い彼を、横田はきっとどこかで感じて、それを彼もどこかで感じていたんだということを。
だからこそ、横田が目の前にいることが許せなかったのだということ。鏡のように、彼の弱さを見せつけられることが。
「あいつは、もう一人の俺だったんだ、でも、俺が殺したんだ、きっと…」
二の句を遮ったギイが彼の顔を両手で包むように持ったまま、真直ぐな眼で言った。
「お前のせいじゃない、お前のせいじゃないよ、解るだろそれぐらい?そんな風に思い込むな、お前のせいじゃないよ、絶対にそうだ。今ごろ悔やんだって仕方無いんだ。お前は傷つけたわけじゃないって、そう分かればいいんだ」
璋のはもっと強烈で、彼の掌から手紙を奪い、破り捨てた。
「この手紙に囚われるな。こいつは、お前に伝えたかっただけなんだから。何かしろなんて言ってないだろ?」
ギイも言った。
「そうだよ、お前のことを解っててくれたんだから、感謝するだけでいいんだ。だからほら、深呼吸して」
涙は止まっていた。
「やっぱりなあ」
ややあってギイが言った。
「横田もきっとおれみたいな感じでお前が好きだったのかな。なんとなく分かる」
「どんな風にだよ?」
「なんか、お前って危なっかしくて…、気がつくと目で追ってしまうタイプなんだよな」
「どこが?」
「ジョシュの場合は周りの空気が冷たくて、でもそれは必死に距離を置こうとしてるからってとことか、でもだから側に居てやらなきゃいけないような…、うん、確かにお前横田と似たとこある」
「ほお」
璋がニヤニヤしながら笑った。
「愛されてんなあ、ジョシュ」
「茶化すなよ」
「でもこんな風に遺書に書いて遣されると、残された方はたまったもんじゃないよなー」
ギイがこんなにも彼の事を観察しているのを知って彼は少々驚き、嬉しくもなった。
「横田のために、俺ができることってないかな」
「そりゃあ、ずっと憶えててやることじゃねえの、あいつのこと」
璋が言った。ギイも頷いた。
彼等はシストラムの窓を開け、言葉を破れた紙片と一緒に放った。
「よこたのおおばかやろう、わすれねえぞ!さんきゅー!」
忘れねえぞ、もう一人の僕。幸せに、旅立てるように。
いつかまた、還ってこれるように。