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彼の両親は、これまた双方とも裕福な家庭出身のエリートで、子供もそんな風にならないと気がすまなかったらしい。
彼はさっきも言ったように末っ子なので、それほどプレッシャーは感じていない…なんて訳がない。彼は兄弟の仲で一番出来が悪いのだ。
彼は勉強に大した興味は持っていなかった。いや、別に興味があるものもなかったわけじゃない。でも彼の母はこう言う、『学校で勉強する事は将来役に立つ基本的な事よ。ジョシュは大丈夫よね』。そうやって実にさっくりと彼は追い立てられるのだ。
なにが基本だ。役に立つなんて、社会の歯車の一つになる為のものでしかないんじゃないのか?そして、いつか老い朽ち果てて捨てられてしまうんだ…。
彼の呟きは、誰にも届かないままいつも中空を彷徨う。
おかえりの声を確認もせず『ただいま』も言わず、玄関から上がった自室に鍵をかけて、自分の行為に没頭することにした。
璋のキスの感触、そのリピート再生だけで彼の妄想は白い炎を上げて燃える。
声を殺して、彼は宇宙までの小旅行を終えた。
気づくと学校の復習時間を告げるアラームはとっくに鳴っていた。慌ててデスクパソコンに向かう。三十分遅刻してしまった。
二十一世紀の勉強は、ノートもペンも要らない。学校でインプットされた情報を家に帰ってネットから引き出し、その日の復習や翌日の予習に使うのだ。それはやはりネットを通して復習担当の教師のコンピュータに繋がり、成績に反映される。
この制度のために、近代の重要な産業の一つにもなっていた塾という機関はすべて学校に吸収されてしまった。子供達が夜の街を徘徊しないようになり、とても健全な体制として大人たちにはすこぶる評判がよい。
もっとも、授業料は義務教育からも有料になり、経済事情から学校に行けない子供たちというのも出てきて、二極化が進行してしまっている、というのが現状だった。
彼はこのシステムを非常に嫌っていた。一日中机の前に立って監視されているのと、なんら変わりがない。だから彼は、殆どの授業を受けていなかった。いや、受けなかった。
その気になれば、家に優秀な兄姉の使った参考書ディスクが五万とある。退屈な授業以上にたくさんの事柄がインプットされていて効率が良かった。大体、成績のための勉強なんて効率よくやらずにできるわけがない。ひたすら要領よく、それだけだ。実力なんてものはない。
だが、そこまでしてなんの意味があるのだろう。
彼は段々自分を見失い始めていた。
それに、彼はニセモノの優等生だ、なぜなら――……。
メールが届いていた。チャットルームへの呼び出し。
液晶つきのゴーグルとイヤホンをパソコンにつなぎ、ネットの海を潜って仮想のスペースに行く。放課後会うことを許されない彼等の唯一の“溜まり場”だ。ギイも璋もとっくに来ていた。
「よお」
仮想空間特有の、少しくぐもったふわふわした声でギイが手を上げた。映像はカメラが写した本人で、背景だけがバーチャルなのだ。
とはいえゴーグルをかけた者同士で話すのは未だになんだか笑えてしまう。
話題は次の悪事についてだった。どうやってあの体育教師に仕返しするか。こういう話は時間が経つのも忘れてしまうほど楽しい。
一段落して、璋が突然言った。
「なあなあ、ところで、サンピーってなに」
「は?何言ってるんだよいきなり」
ギイが笑い出した。
「3Pってのはあれだろ、な、ジョシュ」
こちらに向けた眼だけが困っている。
彼も困ってしまった。なんというか、そういう話題について璋と話すのはどこか微妙な気がして避けていたのだ。
多分ギイは既に彼と同じように思春期に特有な下半身の悩みを抱えているだろうが、男とも女とも決まっていない璋にはそんなことはわからなかっただろう。
「3Pってのは、あれだ、スリーパーソンズ、つまり三人ってことだよ」
ようやく言った。
「へー、よく知ってんなあ。でも三人って何の…」
彼は追及を避けるために先を続けた。
「で、なんでそんなこと聞くんだよ」
「いや別に、雑誌に書いてあっただけ」
「どういう雑誌だよ、コドモがそんなの読んじゃだめなんだぞ」
ギイが茶化した。
「誰がコドモだ、ああ?」
璋が睨み返す。
そのまま二人の喧嘩となり、璋は不貞腐れてチャットルームを出て行った。
「璋、なんとなくだけどそういう、男とか女とか意識し始めたんじゃないかな」
二人っきりになって、ギイが言った。
「さっきも言ってたんだ、多分自分は女になるんじゃないかって。『時々自分の中に女の部分がある気がして、それが邪魔になる』って。女は好きにならないだろうって言うから、じゃあお前もゲイだなって言ったらオレはノーマルだ、って言われちゃったよ」
ギイは肩をすくめた。
「どっちでも、俺はかまわないよ。男でも女でも。お前が女だったら、璋より先に惚れてた確率は高いけど」
「じゃあおれ、今から女になるよ。ジュヌビエーヴって呼んで~」
ギイが裏返った声を出し、彼も笑った。しばらく馬鹿話をした後彼は現実に戻った。
どっちが現実だったんだか。
彼は一息ついてパソコンをシャットダウンした、と同時に電話が鳴った。彼の部屋にある子機は親機が通話中であることを示した。母さん、今日は家に居たんだな。
でも、この時間に鳴る電話なんて珍しい。父はいつも十時に帰宅するし、兄も姉も大学の近くに下宿しているからだ。
なんとなく気にかかったので、親機のランプが消えると彼は階下に降りてみることにした。
「今の電話、何」
背を見せて突っ立っていた母親は振り向いて、それから慌てて笑顔を作った。
「あらジョシュア、もう帰ってたの、ただいまは言った?」
「言ったよ」
勿論嘘だ。ただでさえ彼は会話をしない子供なのだ。
「そう?聞こえなかったわよ」
本当はただいまをちゃんと言うことの方が基本的なことじゃないのか?言わない自分は棚に上げているけど。
「電話、」
もう一度彼は言った。
「あっ、別に大した事じゃないのよ、もうじき夕飯出来るから降りてらっしゃい」
「…そう」
彼は母の眼に動揺を見たが、何も言う気はなかった。もしそれが母の不倫相手からだとしても、彼に関することでない限り、どうということはない。それはまさに、彼が家族に対する情を無くした証拠だった。
彼は冷蔵庫から牛乳を出し、コップに注いで飲み干した。
彼が同級生の誰かの死を知ったのは、翌日だった。




