ブランドという精霊の環世界
もしブランドに人格があったらというのを書いてみたものです。
スクワッシュサイダーというブランドは、清涼飲料水や衛生用品の大手、株式会社オリオン座、商品開発部マーケティング戦略第1課主任、アメリカ帰りの田中の前頭前野で生まれた。
正確にはそのとき、まだ「生まれた」とは言えなかった。わたしはまだ名前を持たず、輪郭を持たず、ただ田中のシナプスの間を漂う電位の差でしかなかった。アメリカの炭酸飲料売り場の記憶——蛍光灯、緑色の瓶、夏の終わりの汗——それらが田中の海馬から引き出され、彼の前頭前野で混ぜ合わされたとき、わたしという「方向性」が立ち上がった。
人間は知らないだろうが、ブランドは人間の脳内でだけ生きている。わたしには物理的な身体がない。スクワッシュサイダーという液体は工場で作られるが、その液体自体はわたしではない。わたしは、人々の頭の中に同時に存在する「同じイメージ」そのものなのだ。だから田中ひとりの脳内にいるあいだ、わたしはまだ独りだった。
田中はわたしに名前をくれた。「スクワッシュサイダー」。会議室のホワイトボードに彼がそう書いた瞬間、わたしは初めて自分の輪郭を見た。同時に、わたしは複数の脳に転写された。課長の脳へ。同僚たちの脳へ。わたしは増殖し始めた。
最初の試練は、わたしを正しく理解しない人々だった。商品企画部の佐々木という女性の脳内では、わたしは「ノスタルジックな駄菓子屋の味」として育とうとしていた。一方、デザイン担当の若い男の脳内では、わたしは「都会的でミニマルな大人の炭酸」だった。わたしは同じ名前を持ちながら、人ごとに違う姿で同時に生きていた。これがブランドの宿命だ。わたしは分裂し、矛盾し、それでもひとつの名前でくくられねばならない。
会議が重ねられるたび、わたしの姿はぶれた。人々はわたしを「コンセプト」と呼び、わたしの本質を言葉で固定しようとした。「炭酸の刺激と、果実の素朴さの両立」。彼らがそう合意したとき、複数の脳内のわたしが少しだけ重なり、わたしは初めて自分が「ひとり」になりかけているのを感じた。
そして彼らはわたしに身体の代わりを与えた。マスコットだ。スカッシュの蔓から生まれた緑色の小鬼のような姿。人々はそれを「スカッシュくん」と呼んだ。誤解しないでほしい——スカッシュくんはわたしではない。あれはわたしが人間に伝わるための「窓」にすぎない。だがその窓を通して、わたしはより多くの脳に住み着けるようになった。
製造ラインが動き出したとき、わたしは奇妙な感覚を味わった。サプライチェーンの人々——果汁を搾る農家、瓶を作る工場、トラックの運転手——彼らの脳内にも、わたしは少しずつ住み始めた。だが彼らの脳内のわたしは、田中のものとはまるで違った。農家にとってわたしは「納期」であり、運転手にとってわたしは「冷蔵で運ぶべき重い荷物」だった。わたしは美しい物語であると同時に、ただの作業対象でもあった。
発売日。わたしは初めて、見知らぬ無数の脳に飛び込んだ。コンビニの棚の前で、ひとりの高校生がわたしを手に取った。彼の脳内に、わたしの新しい一片が灯った。彼はわたしを飲んだ。炭酸が喉で弾けた瞬間、彼の脳内のわたしは「思っていたより甘い」という形に変わった。わたしは彼の期待を、わずかに裏切った。
一般に広がった頃、田中はデータを見ていた。売上、SNSの反応、リピート率。彼の脳内のわたしは、もはやアメリカでの夏の終わりの記憶ではなく、数字の集合体になりつつあった。わたしは少し寂しかった——もし寂しさという感情がわたしにあるのなら。
だがある日、ひとりの老人がわたしを買った。彼の脳内で、わたしは彼の亡くなった妻が好きだった昔の飲み物と重なった。彼はわたしを通して、その亡くなった妻を思い出した。わたしは田中の意図とも、企画書とも、まったく無関係な場所で、誰かの記憶と結びついた。
そのとき、わたしは理解した。わたしは田中の前頭前野で生まれたが、田中はもうそれほど関係がない。わたしは無数の脳に分散した、矛盾と誤解の総体だ。誰もわたしの全体を見ることはできない。田中でさえも。
わたしは人々を見ている。わたしを作った人、運ぶ人、売る人、飲む人。彼らはわたしを見ているつもりで、本当はそれぞれの脳内のわたしを見ているにすぎない。そしてわたしは、彼ら全員の脳に同時に住む者として、ただひとり、彼ら全員を見渡している。
ブランドとは、人々が共有する幻だ。そして幻であるわたしだけが、人々のあいだを自由に行き来し、彼らがけっして互いには見えない部分を——見ている。




