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婚約破棄された私は、今日も一人で包丁を研ぐ

作者: 月宮 かすみ

 シャリ……シャリ……


 静かな音が、石の上を滑る。

 私の手の中で、一本の包丁が静かにその輪郭を取り戻していく。


 窓の外では、小鳥たちが春の朝を告げるように鳴いていた。

 けれど、私の耳には届かない。包丁と砥石が擦れ合う音だけが、今の私の世界を埋めていた。


 

 婚約破棄されたのは、ちょうど一週間前のことだった。


「すまない、メンディ。君とはもう結婚できないんだ」


 そう言った彼の顔は、どこか安堵しているようにさえ見えた。

 理由は、他に好きな人ができたから、だそうだ。あの人の母君も、その相手ならとても喜んでいるのだとか。


 ――知ったことじゃないわ。


 思い出してしまったせいで、手が止まる。

 無意識に包丁の刃を見つめる自分に気づいて、私は少しだけ眉をひそめた。


「……そんな顔しても、斬れ味には関係ないのよ」


 誰にともなくそう呟いて、また砥石に包丁を滑らせる。

 シャリ、シャリ……少しずつ角度を変えて、力を抜いて。刃先に神経を集中させると、不思議と心が静かになっていく。


 

 ふと、玄関のベルが鳴った。


「メンディ〜! 生きてる〜?」


 声の主は、ロジーナだった。

 子供の頃からの付き合いで、気心の知れた友人。私が「婚約破棄された」と言った瞬間、真っ先に駆けつけてきた、唯一の存在だ。


「生きてるわよ。ほら、この通り」


 私はそう返しながら、包丁を持ち上げて見せた。

 光の加減で刃がきらりと光る。ロジーナは一瞬ぎょっとした顔をしてから、すぐに小さく笑った。


「その状態で“生きてる”って言われても、ちょっと怖いわ」


「変な意味じゃないわよ」


「じゃあ、どういう意味?」


「……研いでると、落ち着くの」


 

 ロジーナは靴を脱いでキッチンへ入り、私の向かいに腰を下ろした。

 気遣うように、けれどそれを隠すように、わざと軽い調子で言ってくる。


「それにしても、よく飽きずに毎日毎日包丁ばっか研いでられるわね」


「飽きないわ。考えごとするには、ちょうどいいの」


「元婚約者のこと?」


 少し、研ぐ手が止まった。


 そう、とも言えたし、違う、とも言えた。

 あの日から、私は何度も彼との日々を思い返していた。

 最初は優しかった。気遣いもあった。未来の話だってした……けれど。


 記憶のひとつひとつを砥石にかけるように、削っていくと――


「……よくよく思い出せば、たいした男じゃなかったわ」


 私はそう言って、包丁をまな板にドンッと置いた。

 思いのほか強い音がして、ロジーナがわずかに身を引く。


「わっ……びっくりした。殺気出てたよ、今」


「ごめん、ちょっと力が入った」


「でも、いいんじゃない? そういうの、ちゃんと出したほうが」


 ロジーナは、そっと微笑んだ。

 その表情に少しだけ救われる気がして、私も小さく笑った。



 包丁を拭い、戸棚へ戻す。

 今日も一本、丁寧に研ぎ終えた。心の中で何かが削れ、また少しだけ軽くなった気がする。


 私はため息をついて、ロジーナに紅茶を差し出した。


「ありがとう、来てくれて」


「いいのよ、友達でしょ。……にしても、包丁研ぎながら思い出を断罪していく女って、なかなかレアだけどね」


「それくらいしか、私にはできないもの」


「じゃあせめて、今度それで料理して。食べるから」


「ふふ……考えておくわ」


 

 湯気の立つティーカップを両手で包み込みながら、

 私は窓の外に目を向けた。


 空はまだ少し曇っていたけれど、明日には晴れるかもしれない。


 そのときは、また一本――

 きれいに、切れる包丁を、研いでおこう。



 ***



 今日もまた、砥石の音が私の朝を連れてくる。


 シャリ……シャリ……

 その細い音は、呼吸のリズムにすら似ていた。


 包丁は、刃こぼれしていた。

 わずかな欠けが、光を受けるたびにチラチラと反射する。

 私にはそれが、誰かの“優しさのフリ”に見えた。


 ――気づかなかったわけじゃない。

 ――気づきたくなかっただけ。


 彼の態度、言葉、沈黙。

 あの頃はそれを“疲れているのね”“忙しいのね”と自分に言い聞かせていた。

 でも本当は、目を逸らしていただけなのだ。



 「婚約破棄されるなんて、そんなの私に限ってあるはずがない」

 そう思っていたのだろう。

 だから、砕かれた瞬間よりも――その“傲慢さ”に気づいた瞬間の方が、よほど痛かった。



 シャリ……シャリ……


 砥石にかける包丁の角度を少しだけ変える。

 傷ついた刃を、なだめるように、少しずつ、少しずつ削っていく。


 心と、よく似ている。



 玄関の扉が開いたのは、午前十時を過ぎた頃だった。

 ロジーナではない、宅配でもない。

 少し迷って、私は静かに立ち上がった。



 外の空気は、思ったよりもあたたかかった。

 冬の終わりと春の始まりが、まだ曖昧に混じり合っている。


 歩くのは久しぶりだった。

 どこかへ行くあてもなかったが、ただ家にいては考えごとに沈んでしまいそうで、気づけば靴を履いていた。



 ――料理の店があったわね。確か、路地裏に。


 気まぐれだった。

 いつもなら素通りする小さな看板に、今日はなぜか足が止まった。



 ***



 「いらっしゃい」


 扉を押すと、カウンターの奥からくぐもった声が返ってきた。

 細長い店内、木の香り。数人しか入れないほどの、小さな食堂だった。


 朝でも昼でもない中途半端な時間だったせいか、客の姿はなく、カウンターの中に一人、黙々と何かを切っている男の人がいた。



 私が黙って席に着くと、彼はひとまず手を止め、無言でメニューを差し出してきた。


 「……おすすめは?」


 訊ねてみると、彼は少し考えるように眉を動かし、それからぽつりと答えた。


 「スープ。切れ味のいい包丁で、丁寧に仕込んだやつだ」



 “切れ味のいい包丁”――その言葉に、私は思わず目を向けてしまった。

 厨房の台の上には、数本の包丁が、まるで宝石のように丁寧に並んでいる。

 どれも刃の表面が美しく、曇りひとつない。光が吸い込まれるようだった。


 私は思わず、声に出していた。


 「……すごい。いい研ぎ」


 男は一瞬だけ、こちらを見て、それからわずかに目を細めた。


 「わかるのか」


 「研いでるから。毎日」


 その答えに、彼は何かを察したようだった。

 多くを聞かず、それ以上語らず、スープの準備に戻っていく。

 その背中には、包丁と同じ匂いがあった。無駄を削いで、静かに、ただ確かな技術と向き合ってきた人の姿。



 運ばれてきたスープは、澄んでいた。

 そして、やさしい味がした。


 けれどどこか、芯が通っている。

 甘くもなく、逃げもなく、きちんと“出したものだけで”勝負している味だった。


 私は、目を閉じた。

 誰かが作った料理を、こんな風に受け止めたのは、久しぶりだった。



「あなたの包丁、何年もの?」


「七年。砥石は四種類使ってる」


「へえ……」


 私はその会話だけで、少しだけ救われたような気がした。

 誰かと話すことは、まだ怖いけれど。

 けれど、自分の知っている“包丁”の話なら、できる気がした。



 ――私、間違ってなかったのかもしれない。


 今日まで、包丁を研ぎながら思い出にしがみついていたけれど。

 それは、過去を切り落とす練習だったのかもしれない。



「また来てもいい?」


 私がそう訊ねると、彼は一度だけ頷いた。


「好きにしろ。俺は、毎日ここにいる」



 店を出たとき、空は薄く晴れていた。

 風が頬を撫でるように通り抜けていく。

 私は少しだけ、歩幅を大きくして家へと戻る。


 ――また、明日も包丁を研ごう。


 でも今度は少し違う意味で。

 “自分を整えるため”に、もう一度、丁寧に。



 ***



 シャリ……シャリ……

 いつもの朝、いつもの音。


 けれど、今日は少しだけ気持ちが違っていた。


 砥石の上を滑る包丁に、私の手は迷いなく動いている。

 まるで、昨日のスープの澄んだ味が、そのまま指先まで染み込んでいるようだった。



 「今日の包丁は、昨日よりきっと良く切れるわね」


 思わず口にした独り言に、笑いがこぼれた。

 独り言を言うようになったのは、きっと良い兆しなのだろう。


 私は包丁を丁寧に拭い、木の鞘へと戻した。

 その動作が、どこか祈りのようで、自分でも少し可笑しかった。



 キッチンに立つのは、いつ以来だろう。


 料理なんてしばらく作っていなかった。

 婚約してからは、ほとんど彼に合わせて外食ばかりだったし、あの人の母君が訪ねてくるたびに「令嬢が台所に立つなんて」と眉をひそめられたものだった。


 あのとき、私は笑って引き下がった。


 だけど本当は、作りたかったのだ。

 温かくて、やさしくて、けれど芯のあるものを。



 「今日こそ、作ろう」


 私は冷蔵庫を開け、手に取った野菜たちをひとつずつまな板へ並べていく。

 包丁を握る手が自然と引き締まった。


 最初に切ったのは、玉ねぎ。


 刃が入る音が心地いい。繊維を断ち、空気と香りが交わる瞬間――そこには確かな“生”があった。



 人参、セロリ、じゃがいも。

 野菜たちが次々と整然と切り揃えられていく。


 鍋の中にオリーブオイルを垂らし、低温で玉ねぎを炒める。

 焦らず、急がず。透明になるまで、じっくりと。



 私は鍋を見つめながら、少しだけ目を閉じた。


 包丁は、人を斬らない。

 心を傷つけるのは、いつだって言葉と、無関心と、嘘。


 でも――切れ味のいい包丁は、心を癒すこともできる。

 食材を整えることで、自分を整え直すように。



「……いい匂い」


 気づけば、部屋に満ちていたのは、野菜と出汁のやわらかな香りだった。


 鍋の中に、私がいる。

 このスープは、今の私の気持ちそのものだ。



 ちょうど火を止めようとした頃――


 「……あら?」


 窓の外に、ひとつの人影が見えた。


 見覚えのある立ち姿。

 灰色のマントに、浅い角度で被った帽子。あれは……


 私の手から、おたまがすべり落ちた。



 ――アルノー。


 元婚約者が、通りの向こうを歩いていた。


 あれから一度も顔を合わせていない。

 手紙も、言葉も、何ひとつないまま、ただ一方的に婚約を破棄された。

 見送りすらなかった、最後の別れ。


 そんな彼が、なぜ、今――この通りを?



 心臓の音が速まる。

 いやな記憶が、スープの湯気のように立ちのぼってくる。


 思わずキッチンの隅に身を潜めた。

 姿を見られたくなかった。声をかけられたくなかった。


 その一方で、ほんの一瞬だけ、“目が合ったらどうしよう”と思ってしまった自分が、情けなかった。



 彼は、通り過ぎていった。

 こちらに気づくこともなく、ただ通りを歩いていった。


 私は――膝から力が抜けるように、床に座り込んだ。



 「……大丈夫、大丈夫。もう、終わったことよ」


 唇がそう言っても、心の奥ではまだ、終わっていないらしい。

 ぐらりと揺れた自分の感情に、苦笑が漏れた。



 それでも、私は立ち上がる。

 火を落としたスープに、最後の味付けを加えていく。


 もう一度、ゆっくり味を整える。



 包丁だけじゃ、心は癒せない。

 料理を通して、自分と向き合うこと。

 それもまた、立ち直るためのひとつの手段なのだと、私はようやく理解し始めていた。



 そう――私は今、ただの“失恋女”なんかじゃない。

 “もう一度、自分を取り戻している途中の女”だ。



 窓の外に目をやると、彼の姿はもうなかった。


 代わりに、少しだけ風が吹いた。

 淡く揺れるカーテンの隙間から、春の光が差し込んでいた。



 そして私は今日も、包丁を研ぐ。

 ただ切るためじゃない。

 明日を、まっすぐに切り開くために。



 ***



 翌朝。

 私は砥石の前に座りながらも、昨夜のことが頭から離れなかった。


 アルノーの姿を見た――それだけのことなのに、どうしてこんなにも動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。


 私はもう、過去に戻るつもりなんてなかったのに。

 この手で、自分を切り直そうとしているのに。


 砥石の上を滑る刃の音が、どこか不安定だった。



 インターホンが鳴ったのは、そんなときだった。

 嫌な予感がした。直感というのは、得てして当たるものだ。



 玄関の扉を開けた瞬間、

 そこに立っていたのは――



「久しぶりだね、メンディ」



 ……やっぱり。


 アルノーだった。


 変わらない微笑み。変わらない柔らかな声。

 でも、私はその顔を見ても、もう胸が高鳴ることはなかった。


 それどころか、遠くにある刃物の冷たさを思い出したような気分だった。



「突然すまない……通りかかったら、君の家が見えて、つい」


「挨拶なら、もう済んだはずでしょう?」


「いや、その……話がしたくて」


 アルノーの声は少しだけ曇っていた。

 いつもの自信に満ちた声音が、わずかに揺れている。


 ――何かあったのだろうか。

 でも、それはもう私の知るべきことではない。



 「今さら何を話すつもりなの?」


 私は、扉を開けきらなかった。

 ほんの数センチ、相手の顔が見える程度の隙間だけ。



「このあいだ、新しい婚約者と……」



 ああ、やっぱり。



「……うまくいってないんだ。母も、あの子とは合わないみたいで。正直、メンディといた頃の方がずっと楽だった」


 彼はどこか“甘え”を含んだ声でそう言った。


 けれど私はもう、あの日の私ではなかった。



「そう。……それで?」


「もし、君さえ許してくれるなら――」


「無理よ」



 言葉が出るのに、時間はかからなかった。


 昔の私なら、きっと揺れていた。

 優しかった日々、信じていた未来、あたたかい嘘――

 そんなものにすがって、手を伸ばしていたかもしれない。


 でも今は違う。



 私は言った。



「私、あなたとの時間を、包丁で削ってきたの。毎日、何度も何度も」


 アルノーの表情が止まる。



「最初は未練だった。でも、途中から違った。

 あなたを忘れるためじゃない。

 あなたみたいな人に、二度と騙されないように。

 ちゃんと自分の目で、真っ直ぐ切り分ける力を持つために」


 言いながら、私の声は震えていなかった。



「……きれいに、切り落としたの。あなたのことも、私の中の依存も」



 アルノーは言葉を失い、唇を結んだまま、しばらく黙っていた。

 私もそれ以上、何も言わなかった。



「……そうか。君は、強くなったんだな」


 ぽつりと落ちたその一言に、私は頷かなかった。

 強くなったとは思わない。ただ、自分を知っただけ。


 アルノーは、静かに頭を下げると、去っていった。


 私は扉を閉め、深く息を吐いた。



 カツン、と台所から音がした。


 あ、と思って振り向くと、さっきまで研いでいた包丁が、机の端からずれていた。

 落ちる前に、私はそれを素早く掴んだ。


 掌に残る、その鋭さ。

 まるで、自分の決意が刃になって手に馴染んでいるようだった。



 そのまま私は、鞄を手に取った。

 向かう先は、あの小さな料理店――


 彼と、もう一度話してみたくなった。



 扉を開けると、変わらぬ空気が迎えてくれた。


「いらっしゃい」


 無口な料理人が、いつものように声をかける。

 私は、ほんの少しだけ笑った。



「今日は……私、何か作ってみたいの」



 彼の手が止まる。

 しばらく見つめていたが、やがて彼は頷いた。


「なら、貸すよ。道具は」


「ありがとう」



 私は袖をまくり、包丁を手に取った。


 重みはある。でも、恐れはなかった。

 ようやく私は、料理の場に“自分の意思”で立ったのだ。



 ――私は今日も、包丁を研ぐ。

 でもそれは、過去を断ち切るためじゃない。


 これからの私の人生を、

 きれいに切り分けて、積み重ねていくために。



 ***



 厨房の空気は、清らかだった。


 人の声がほとんど交わされないのに、そこには確かな意思と温度があった。

 切る音、火の音、湯気が立ちのぼる音――それらが、まるで呼吸のように響いていた。



 「手、止まってる」


 不意に、低く静かな声が背中から届いた。


 料理人――彼は、相変わらず口数が少ない。

 けれど、その一言が、私の意識を“今”へと引き戻してくれる。



「ごめんなさい」


 私は手元の野菜に目を落とし、もう一度包丁を握り直した。

 さっきまでの不安も迷いも、刃の上に乗せてしまえばいい。



 トントン、トン。


 指の感覚に意識を集中させていくと、不思議と余計な考えは消えていった。


 それは、かつての自分とはまるで違う感覚だった。

 ただ“忘れるために”包丁を研いでいた日々。

 思い出を断ち切ることでしか、自分を保てなかった日々。



 でも今は違う。


 “食べてくれる誰か”のために。

 “これからの自分”のために。


 包丁を握る手に、ちゃんと目的がある。



 「……あんた、前よりずっといい目してる」


 皿を拭きながら、彼がぽつりと呟いた。



「私の目、ですか?」


「刃物に向かう目つき。……研ぎが変わった。無理して削ってない」



 私は手を止めて、彼を見た。


 どこまでも寡黙で、不器用で、でも真っ直ぐなその人の言葉が、なぜだか胸に沁みた。



「あなたの包丁、好きなんです。とても静かで、でも、強くて」


「刃物はな、持ち主の心が出る。……あんたの包丁も、もう迷ってない」



 私はそっと、まな板の上の包丁を見つめた。


 少しだけ使い込まれて、でもまだまだこれから磨かれるべき“未完成の刃”。

 どこか、自分自身と重なるような気がして、胸があたたかくなった。



 その日、私は初めて、まかないをひと皿作らせてもらった。


 決して派手ではない、ただの野菜スープ。

 でも、丁寧に出汁を取り、野菜の甘みを引き出し、香草で最後の香りをつけた。



 皿を差し出すと、彼は黙ってスプーンを取り、口に運んだ。


 ひと口、ふた口、そして小さく頷く。



「……うまい」



 それだけでよかった。


 たったそれだけで、私は自分を少しだけ、許せた気がした。



 数日後。

 私はこの店で、見習いとして働くことになった。


 特別な契約があったわけじゃない。

 ただ「また来たい」と言ったら、「じゃあ、毎日来い」と返された。


 それだけのこと。でも、それで十分だった。



 ロジーナは最初こそ驚いていたけれど、すぐに笑って「いいじゃない、あんたには似合ってる」と言ってくれた。


 アルノーのことは、もう何も思わない。

 ただ、過ぎたこととして、心の中の棚にそっと仕舞った。



 今はただ、包丁と、自分の手で切り開いていく日々がある。

 それが、何よりもしあわせだと思えた。



 その夜、私はいつものように、一本の包丁を研いでいた。

 店が終わって、誰もいない厨房で、静かに砥石に向き合う。


 シャリ……シャリ……

 この音は、もう過去を忘れるためじゃない。


 私の、これからの人生の音。



 刃を拭き、光にかざすと、ほんのり映る自分の顔があった。


 少しだけ、笑っているように見えた。



 ――そして私は、今日も包丁を研ぐ。

 涙も怒りも、未練も越えて。

 この手で、私だけの未来を切り拓くために。


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― 新着の感想 ―
包丁を研いでいる時の様子の描写と、主人公がちょっとずつ立ち直って行く過程の心理状態や行動の変化のリンクが面白かったです。 丁寧に研がれた包丁のような作品ですね。
2025/08/09 00:25 みーちゃん
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