第一章 異世界転移
ブラインドを下げた室内を、LEDの無機質な明かりが昼間のように照らしている。見慣れた灰色の壁やタイルカーペットの床は何となく気分を憂鬱にさせている気がした。机は古めかしいデザインのスチール製で、椅子だけは何故かメッシュの背もたれの座り心地が良いものだった。
まるで長時間の労働が前提のような気がして、椅子も好きになれないのが残念だ。
「さて……」
データの打ち込みも終わり、薄型ノートパソコンの画面から視線を外す。ここ連日、根を詰めて開発していた社内アプリもようやく完成が見えてきた。とはいえ、まだまだ試験運用すらしていないのだから先は長いが。
「……ちょっとコーヒーでも飲むか」
勤めているのが大きな会社ということもあり、小さな支社でも設備が良い。珈琲や紅茶なども無料で淹れることができるカフェコーナーがあり、席は四人分しかないが、それでもゆっくり休憩ができるようになっていた。椅子に腰かけて淹れたばかりのホットコーヒーが入ったマイカップを口に運ぶ。
もう夜も遅い為、事務所には自分一人しかいない。十人入る程度の狭い事務所だ。営業所や物流拠点はそれなりに大きな事務所で従業員も多いようだが、管理部門用であるこの事務所は小さくて人数も少ない。
最初はそれくらいの方が気楽で良いと思っていたが、仕事が増えていけばいくほど大変だと気が付いた。大きな事務所で人数も多い職場であれば、何人か休んだり退職者が出ても問題なくカバーできる。しかし、十人程度の職場、それも上司を除けば作業者としての人数は平均八人という状況だと、一人二人休んだりすれば大変だ。一人でもベテランが退職すれば大騒動である。
その状況が重なると、余計に退職者が出てしまうこともある。そうなればもうどうしようもない。残った人員で業務を回す為に過勤務が続くこととなるだろう。
そして、残念なことに我が事務所の所長は、自身の評価を気にして本社上層部に人員の補填などを進言してくれなかった。こうなってくると新入社員が入社して育つまでの数年間耐える必要が出て来るだろう。
「……ふぅ。これで休日出勤が多いとか、有休消化率が、なんて言われてもな」
溜め息交じりにそう呟き、天井を見上げる。天井設置型の換気扇に埃が詰まっており、なんとなく憂鬱な気分に拍車がかかった気がした。
最近は帰宅して朝まで泥のように眠っても、中々体力が回復しなくなってきた。疲労が蓄積しているのだろう。本来なら長期休暇の申請をしたいところだが、今は二人も欠けている状況だ。一日休めば業務が何割増しという形で返って来る。
正直、退職も考えたがそれもなんとも言えないと思っていた。IT系の知識や通信インフラ、アプリ開発の経験はかなりしてきたつもりだが、転職してそれらが必ず活かせるとも限らない。それに、こういった業種は実は意外とどこでもキツい環境になりやすかった。他社との交流でそれを知った為に、それからはあまり転職は考えていない。残業時間のお陰で給料には不満は無い。しかし、休みが取れないことは問題だった。
「お陰で結婚も……いや、それは俺の甲斐性のせいかな」
自分自身の不甲斐なさを会社のせいにしかかって、自嘲気味に笑う。
空になったマイカップを軽く洗って食器乾燥機に置き、タイマーをセットして両手を上に挙げる。ぐっと背伸びをするように背筋を反らし、長く息を吐いた。
システムや工程造り、アプリ開発といった作業を行う時、一番楽しいのは最初に理想形を考える時である。どのようなものにするか。どんな機能があるのか。そして、それが可能なのか。その辺りを考えている時が一番楽しい。その後に何人かと顔を突き合わせて想定、検証したり、別の考え方はないか議論したりといった段階も楽しい。作り始めると予想外の問題が起きたりエラーを修正したりと手間が増えつつも中々進捗が見えない時は面倒だと感じる。
さくさく進んでいけば楽しいのだが、そう簡単にいかないことが殆どだ。だが、最後の完成間近になってまた楽しくなる。個人的にはここが二番目に楽しい時だ。もう少しで完了すると思うと、残業も苦にならなくなっていく。
今回もようやく完成が近づいてきて、自然と残業時間が増えてきていた。
「少し寝て、最後の詰めといこうか」
珈琲を口にしても眠気はとれない。長年の感覚から、これは自分が想像している以上に疲労が溜まっているのだと理解している。今から家に帰っても大して寝る時間は確保できない為、今日は会社で四時間程度仮眠しようかと考えていた。
長椅子に自前のタオルケットを掛けて、ハンドタオルをくるくると巻いて枕にし、横になる。横になるだけで気持ちが良かった。これは、すぐに眠れそうだ。
「ん……タイマーは、まぁ良いか……」
何時で起きる、なんて決めるのも面倒だ。流石に朝には目が覚めることだろう。従業員が出社する前に起きれば何とかなる。
眠気を優先し、ぼんやりとそんなことを考えながら目を瞑る。
まるで、意識を失うように俺は眠りについたのだった。
不意に、柔らかな風を肌で感じた。木々の枝や葉と葉が触れ合う音が心地良く聞こえてきて、瞼越しに光を感じた。
「……もう、朝か? 窓を開けてたかな」
寝ぼけた状態で地面に手を置いて上半身を起こそうとし、手のひらの感覚に驚く。細くて長い草花を押しつぶしたような感触と、その下にある土に触れる感触。ここは、家でも事務所でもない。
「……夢、か」
上半身を起こしてから周囲を見て、そう呟く。目の前に広がる光景には、自分の肌で感じている感覚を無視できるだけのインパクトがあった。
空はどこまでも続くように広く、深い青だ。そして、とても日本ではなさそうな切り立った山々と白い雲、対して地面はモンゴル高原のように見事な緑の草原である。
「……長期休暇で遠くに行きたいという想いがこんな夢を? それなら自分で自分を褒めたくなるくらいの絶景だな。しかし、明晰夢か。初めてだな」
自分が夢の中にいると認識して自由に動くことができる夢、だったか。話には聞いたことがあったが、まさか実際に体験できるとは思わなかった。
少しずつ周りの景色にも慣れ、風景や風、音のリアルさに驚愕しながら歩き回ってみる。夢の中というだけあり、全く疲れない。それどころか、疲労する気配すらなかった。
楽しい。
素直にそう思い、これは神様がくれた長期休暇の代わりなのだと判断した。そうなると、どこまで歩けるか気になって来る。休まず、景色を楽しむのもそこそこに、どんどん進んでいく。
川のせせらぎが聞こえてきて思わず目を向けると、そこには幅五メートル程度の川が流れていた。それほど深くなさそうだが、水は綺麗で透き通っている。
川を覗き込むと、揺らめく水面に自分の顔が映った。いつもの少し童顔気味の顔だと思うが、若干若くなっている気がした。スポーツに打ち込んでいた学生時代から社会人になってすぐにデスクワークになり、最近はかなり筋肉も落ちたと感じていたが、水面に映る自分の姿はスポーツに励んでいた時のように逞しく見える。
「……だから疲れなかったのか? まるで、二十歳ごろの自分みたいだ」
実際には三十歳になったばかりなのだが、十年も若くなれば見た目だけでなく雰囲気も変わるだろう。我ながら明るく、活力に満ちた表情をしているように感じた。服装はオフィスカジュアルといったものだが。
とはいえ、どうせ夢の中である。動きやすいのならその方が都合が良いに決まっている。気持ちを切り替えて顔を上げて、川を上流から下流へと視線を向けた。
「下流にいけば、何かありそうだな」
水は生活に必要なものだ。かなり歩いていたが、これが初めての河川である。下流に行けば集落などもあるかもしれない。ここが海外なのか、それとも日本なのか。夢の中とはいえ何となく気になる。
そう思って方向転換し、河川の流れに沿って下流へ向かおうと決めた。
またしばらく歩いて行くと、本当に下流の方に街らしきものが見えた。徐々に陽が傾いており、空もオレンジ色になりかかっている。
「とりあえず、あの街に行って一泊したいな。夢の中で寝るとどうなるんだ? 目が覚めてしまうなら、夜中になっても起きてウロウロしたいけど……」
そんなことを思いながら歩いていると、背後、来た方向とは少し違う方から激しい物音と声が聞こえてきた。
「ご、ごめん! そこの人! 川に飛び込んで!」
とんでもない指示が聞こえて、驚いて振り返る。
すると、十メートル程度離れたところに見たこともない動物がいた。虎のような動物だ。黄色と黒ではなく、灰色と黒の縞模様の毛皮。しかし、間違いなく虎とは違う点が二つ。頭に大きな角が生えていること。そして、背中に灰色の蝙蝠に似た翼が生えていることだ。さらに言うならば、そのサイズもおかしかった。下手をしたらインド象ほどの大きさである。
その巨大な虎が、こちらに向かって突進してくるのだ。とてもではないが、逃げることもできなそうである。
「う、うわぁあっ!?」
口から情けない悲鳴が出た。防げるわけもないのに、両手を前に出して壁代わりにしながら一歩二歩と後退る。
「あ、危ない!」
その声が聞こえたと思った時には、激しいタックルのようなものを腰に受けて吹っ飛ばされていた。肺の中の空気が強制的に口から押し出されて痛みより苦しさが先立つ。
直後、左肩から着水した。目の前に水しぶきが舞ったと思った瞬間、音がよく聞こえなくなり、視界が水中へと切り替わる。一瞬目を瞑ってしまったので何も見えなくなったが、どんどん沈んでいって背中が何かにぶつかり、このままではまずいと目を開く。
流れがそれほど早くないことが幸いした。水中ゴーグルなど着けていないが、それでもかなり鮮明に水の中の景色を見ることができた。細かな泡が視界を遮っているが、それでもどちらが水面かはすぐに分かる。
急いで浮上しなくては、溺れてしまう。
焦る頭の中でそれだけを考えて浮上しようとした。しかし、上手く動けない。手足を動かしているのに浮上しないのだ。何が起きているのかと思ったら、俺の腰の部分にしがみ付く存在がいることに気が付く。視線を向けると、腹部に頭を押し付けるようにして抱き着いていたその人が、こちらを見上げて困ったように微笑んだ。
そして、その人物は地面を蹴って一気に浮上する。しがみ付かれたままだったのだが、まるで俺の存在など無かったかのような勢いで水面へと飛び出た。
水深を考えても首から上、精々が上半身まで出れば十分な筈だが、なんとそのまま水中を出て空中へと飛び上がったのだ。
経験したこともない威力で水中から射出されたまま、俺を抱えるようにして両手に持ったその人物はふわりと岸に降り立った。
信じられない。成人男性を抱えて、水中を蹴った勢いで岸まで跳んだのだ。それもどうやら先ほどとは反対側の岸にまで、である。こんなことは人間には絶対に不可能だ。それも、小柄な女性がそれを行ったのだと考えると自分の頭が変になってしまったのかと思う。
「……これが、本当に夢の中なのか? いや、夢でないと信じられないことばかりだ……」
降り立った岸に座り込み、笑いながらそう口にした。すると、俺を抱えて跳んだ少女が首を傾げてこちらを見た。
「も、もしかして、頭打った? 大丈夫? ごめん」
心配そうにそう尋ねる少女に、思わず笑ってしまう。なにせ、その少女は普通の人間ではなかったからだ。
全身びしょ濡れで服が張り付いてしまっており、見ようとしなくとも華奢で小柄な女性であると知れる。しかし、問題はそこではない。腕の良い美容室を利用したにしても見事な赤銅色の髪と同じ、獣の耳があったのだ。頭の上に生えた猫の耳にも似た獣耳。それを凝視していると、少女は少し警戒心を出しながら一歩離れる。
「……巻き込んだのは悪かった。でも、そんなに凝視しないで欲しい。もしかして、奴隷商人?」
そう言われて、眉根を寄せる。
「……え? 奴隷? それどこの国……いや、でも、喋っているのは同じ言葉か……」
独り言を口にしながら、我ながら変なことを言っていると思う。獣の耳を頭に付けた少女は、コスプレをしているとでもいうのか。いや、耳だけじゃなく尻尾もあるし、自然な動作で動いている。外国なのか日本なのか等という次元ではない。
何しろ、自分たちがいる岸とは反対の岸では、あの巨大な虎が倒れているのだ。その首には大きな槍が突き刺さっている。
「大丈夫かー?」
「大丈夫」
と、色々と考えている内に対岸から案じるような声が投げかけられ、少女が一言返事をした。その後ろ姿、詳しく言えば尻尾の動きを目で追っていると、視線を感じて顔を上げる。
少女が半眼でこちらを見ていた。
「……こっちも大丈夫そう。とても怪しい、けど」
若干片言っぽい口調でそう言われて、なんとなく気まずい雰囲気になる。もしかしなくても、少女の尻尾をじっと見つめるのは良くないのかもしれない。気が付いて、すぐに視線を逸らした。小柄で中学生のような見た目なだけに、罪悪感が半端ない。
改めて対岸に目を向けると、倒した虎の確認をする二人の人物がいた。鎧を着た金髪の男と、ローブを着た長い金髪の女の二人だ。なんと、二人とも驚くべき美男美女である。そして、それよりも驚くべきは耳が長かった。
「……エルフも気になる? やっぱり奴隷商人?」
横からそう言われて、慌てて首を左右に振る。
「違います。ところで、ここは? なんて名前の国ですか?」
溜め息交じりにそう尋ねると、獣耳の少女は目を丸くした。
「……ハーベイ。大国だけど、知らない?」
不思議そうに聞き返されて、大きく頷く。
「まったく聞いたことがない国ですね……あ、俺の名前は東弥蓮といいます。名前を聞いても良いですか?」
「……イリヤ・リリヤ」
国名で分からなければ人名で特定できないか。そう思ったが、なんとも言えない結果となった。欧州っぽい名前だが、ハーベイなんて国は無かったはずだ。
「トーヤ・レン……聞いたことのない響き」
イリヤの方もこちらと同じく不思議そうな顔をしていた。
二人で首を傾げ合っていると、ふわりと対岸にいた二人が飛んできた。文字通り、ただのジャンプなどではなく空を飛んできたとしか思えないほどの跳躍である。
「イリヤ、何かあったのかい?」
「無事ですか?」
二人はそう言ってイリヤと俺の顔を交互に見た。間近で見ると、息を呑むような美男美女だ。そして、やはり耳が細長い。長さ十五センチ前後だろうか。偽物には見えない。先ほどエルフと言っていたが、本当なら映画にも出て来る有名な幻想小説の登場人物だ。いや、それを言うならこのイリヤという少女もそうだろうか。
「トーヤ・レンという名前らしい」
イリヤがそう告げると、二人は顔を見合わせて目を瞬かせた。
「珍しい名前ですね」
「別の大陸から来られたのでしょうか」
二人はそんなやり取りをしてから振り向いた。
「我々はトルンの森出身のエルフです。剣士兼弓使いのランヴェイグ・トルンです。ラングと呼ばれています」
「私はランヴェイグの妹のスーヴァンヒルド・トルンと申します。ヒルドとお呼びください」
自己紹介をする二人に、会釈をして名乗り返す。
「俺は東弥蓮。レンが名前です。よろしくお願いします」
そう言ってから、ふと対岸に転がった虎の死体を見た。
「ああ、そうだった。助けてくれてありがとうございました。あんなのに噛まれてたら即死だった筈です」
苦笑しながらそう言って頭を下げると、ラングもヒルドも困ったように眉を八の字にした。
「あ、えっと……」
「どちらかというと、レンさんが巻き込まれてしまったと言いますか……」
「え?」
二人の言葉に生返事をしながら顔を上げる。すると、二人がイリヤの方に目を向けた。イリヤは視線を逸らせるように顔を背ける。
ラングはその態度に溜め息を吐き、こちらに向き直った。
「その、あそこに倒れている一角黒虎は討伐対象だったのですが、些細なことから取り逃がしてしまいまして……」
「街道から外れていますし、誰もいないだろうから慎重に討伐しようとしたのですが……」
申し訳なさそうに二人がそう口にすると、イリヤが頬を膨らませる。
「……ラング、ヒルド。お喋り」
責めるようにそう言うイリヤに、二人は苦笑しつつ首を左右に振った。
「そうは言っても、我々の過失だよ?」
その言葉に、イリヤはウグッと変な声を発した。数秒もの間動かなかったが、ギギギと油が切れたような動きでこちらに振り向き、糸が切れたように頭だけを下げた。
「……ごめん。二人が追い込んできた魔獣を倒す予定だったけど、居眠りした」
「い、居眠り?」
あまりの理由に思わず笑ってしまう。イリヤは眉尻を下げて見上げてきたが、それに苦笑を返して頷く。
「大丈夫だよ。特に怪我もしなかったしね」
そう答えると、イリヤは胸を撫でおろして息を吐いていた。小柄なイリヤの子供っぽい姿を見て、思わず子供に対するような喋り方をしてしまったが、気にした様子はなかった。
ラング達もイリヤと同様だったらしく、ホッとしたような表情になり、口を開く。
「良かった。ただ、ご迷惑をおかけしてしまったのは間違いないので、そこの街までご一緒してくれませんか? 宿代と食事代くらいは出させてください」
「あ、もしその珍しい衣服に穴が開いたりしてしまったなら代わりの衣服を購入させていただきますよ」
と、二人はとても親切な提案をしてくれた。
この夢はまだまだ覚める気配もない。これは渡りに船とばかりに首肯する。
「ありがとうございます。助かります」
ハーベイの中規模都市、リアム。周囲を成人男性の身長よりも高い塀で囲んではいるが、防衛力の高い都市とは言えないらしい。ただ、周囲が開けた平野であり大きな都市と都市を繋ぐ街道にあるだけに、経済的に優れた都市であるようだ。
今回、ラングが先頭になってリアムへの入場受付をしてくれた為、さらっと街に入ることが出来たが、実際には身分を証明するものもない。自分一人なら門前払いだった可能性もある。
これは困ったぞと三人に相談する。すると、三人は軽く話し合ってイリヤが口を開いた。
「それなら、冒険者ギルドにいって冒険者登録したら良い」
そう言って、イリヤは皮がパリパリになるまで焼けた肉を口に運んだ。大口を開けて、一口というには大き過ぎる肉の塊を口に含んで咀嚼するイリヤ。肉の焼けた香ばしい匂いも合わさり、とても美味しそうである。
街に到着してすぐに飲食店に案内されたのだが、そこは周囲の店と比べても明らかに高級そうな雰囲気だった。なにせ、丸太や角材を使ったログハウス風の建物が多い中、この店は飲食店にも関わらず石造りの建物だったからだ。ちなみに、街の地面には不ぞろいながらも石が敷き詰められていた。大きな都市から来る人が多いから道だけは歩きやすくしているのかもしれない。
街並みは古くとも整っていて綺麗だった。ただ、ちらちらと獣人らしき人間の姿が見受けられた。とはいえ、明らかに普通の人間の方が多い。
本当に、不思議な夢だ。
そこまで考えて、自分でも薄々感じていた違和感に目を向ける。
「……本当に夢、か?」
口の中で小さく呟き、自分の前に並ぶ料理を見た。嗅いだことのない香辛料の匂い、そして、あまりにもリアルな料理の味。最高級の和牛のステーキと同等の肉は、パリパリに焼けた表面の感触だけなら鳥肉のようだ。しかし、味は鳥肉ではない。食べたことのないこの味を想像するのは不可能だ。
「そもそも、明晰夢とはいえ味や匂いまで感じるものなのか? それに、水に落ちた時の感覚や、見たこともないこの街の景色は……」
鈍感な自分でも、そろそろ誤魔化すことは出来ないと思った。
もしかしたら、俺は想像もできない世界に来てしまったのではないか。ならば、今イリヤ達が近くにいてくれている間に、出来るだけ自分の生活環境を整えないといけないのかもしれない。これが夢ではないかもしれないと思ってから、一気に不安になった。しかし、目の前では談笑しながら美味しい食事に舌鼓を打つイリヤ達の姿がある。
彼女たちは優しく、親切だった。だから、もし三人が協力してくれるなら大丈夫だろうと思えたのだ。俺はイリヤの提案に、深く頷いて応えた。
「……冒険者、か。もし良かったら、三人とも協力してくれませんか? その、手続きとかが良く分からなくて」
藁にも縋る気持ちでそう口にすると、イリヤが獣の耳を左右に動かした。
「……面倒」
「ダメかな?」
嫌そうな顔のイリヤに苦笑して尋ねると、ラングが困ったように笑う。
「イリヤ……」
名を呼ばれて、ハッと耳を立てるイリヤ。そして、仕方なくといった様子で口を開いた。
「レンの冒険者への道、私がフォローする。これで安心」
と、イリヤは意見を百八十度変えて強く頷いた。自分で言ってその気になったのか、イリヤは胸を張って鼻息荒く頷いていた。
「おお、ありがたい。助かるよ」
「最強の魔術師、イリヤ様がついてる。レンも最強になる」
「え? 最強? というか、イリヤって魔術師だったの?」
意外な言葉に思わずそう答えると、イリヤは途端に不機嫌そうな表情になった。ラングは苦笑し、ヒルドも微笑を浮かべて首を左右に振る。
「最強ではないと思いますが、イリヤはとても優れた魔術師ですよ。若くしてCランクの冒険者となり、Bランク昇格も近いと思われます」
そんな説明を受けて、そうなのかとイリヤを見る。イリヤは仰け反るほど胸を張っていた。それを眺めて笑うラングとヒルド。ふと気になり、二人の方を振り返った。
「二人もCランクなのですか?」
そう尋ねると、ラングが自分の胸に手を当てて首を左右に振る。
「我々はこう見えてもAランクでして、この周辺の冒険者の中では最も高いランクの冒険者にあたります」
「え?」
それは凄いことなのではないか。ランクのことは良く分からないが、なんとなくそう思った。大して、イリヤはそれほどでもない気がしてきたぞ。なにせ、ラングもヒルドも二十代前半ほどにしか見えない。
そう思って三人を見比べていると、イリヤが頬を膨らませた。
「……ラングもヒルドも百歳を超えている。冒険者として何十年もやってきているのだから、当然」
イリヤはそう不満を口にした。それに苦笑して、ヒルドが頷く。
「そうですね。イリヤなら三十歳までにAランクになれるかもしれません。いずれ、最強になるかもしれませんね」
ヒルドがフォローの言葉を口にすると、イリヤは嬉しそうに頷いたのだった。
その後、俺は三人に手伝ってもらって冒険者となり、イリヤに魔術を教えてもらって戦えるようになった。どうやら、魔力が平均よりも随分と多かったらしく、イリヤからはズルと評されることもあったが、おかげで冒険者として活躍することができたのである。
二年以上共に過ごしてきたが、事情があってラングとヒルドは帰郷することとなってしまった。それからはイリヤと二人で過ごし、自然と心通わせる関係となっていく。
そして、Aランク冒険者に昇格した日に、俺はイリヤに結婚を申し出たのだった。イリヤは珍しく耳まで真っ赤にして尻尾を立てて固まっていたのを覚えている。驚くべきことに、この時イリヤは十六歳だった。そう思うと、出会った当時にラング達がイリヤのことを褒めていたのは当然だったと言える。
それから更に二年後、冒険者として十分な功績と報奨金を得てきた俺たちは冒険者活動を一時休止して一つの街に落ち着いた。二人が出会った街、リアムだ。
俺たちは街外れの静かな区画にある屋敷を買い、そこに住むことにした。大金を稼いできたことで調子に乗ってしまった俺は、なんと十部屋以上もある大きな邸宅を購入したのだ。更に、大きな庭にプールや倉庫も設置してしまった。
ちなみに、それを買う時にイリヤはノリノリで同調し、隣に別荘を建てたいなどという訳の分からないことを言っていた。もちろん、自宅の隣に別荘の意味が分からなかったので却下したのだが。
結果、大きな屋敷を二人で維持するのは不可能であると判断し、執事とメイドを雇った。二人は優秀であり、屋敷は綺麗に美しく保たれ、庭も一気に整備された。家具や調度品の選定を頼んだら貴族の屋敷のようになったことに驚いたこともある。二人とも違法に奴隷として売られそうになったところを救出したのだが、それを恩に感じているらしく、引くほどの忠誠心を見せてくれていた。
平和で楽しい日々を送っていたある日、イリヤが妊娠したと分かった。
それからはバタバタの数か月となる。一時的に新しいメイドを雇い、イリヤの身の回りの世話を頼んだ。妊婦に良いという食事、薬草などを片っ端から集めたりもした。
いくら準備をしても不安だったのだ。本来ならもっと早く産まれるらしいと聞き、その不安はより強くなった。執事のシャンからは大丈夫だと励まされたが、簡単には落ち着けなかった。一方、イリヤはお気楽なものだった。公に自堕落に過ごせると美味しい物を食べて寝るばかりである。
イリヤが、俺がこれ以上不安にならないように強がっていたのだと気が付くのはだいぶ後になってからだった。
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