6.形勢所迫
梨鳳の意識は、祖父・張舜に背を向けて歩き出したところで途切れていた。
夢か現か、闇の中に意識が沈んでから、どれほどの時が流れただろう。
光が差し込む部屋の中で、彼はゆっくりと瞼を開けた。
外から差し込む光は西日で、既に陰って宵の口に差し掛かろうとしていた。
起き上がろうにも全身に力が入らなかった。
「だ、誰か……。いないのか……」
なんとか口を開いて人を呼んだ。
少しして樂榮が碗をもって部屋に入ってきた。
「お目覚めですね。さぁ、こちらの解毒薬をお飲みください」
そう言いながら、樂榮は梨鳳の身体を起こし、口元に碗に入った薬を少しづつ運んで飲ませた。
薬を飲み干した梨鳳を再び横にして、樂榮は張舜の伝言を梨鳳に伝えた。
「麻痺毒が完全に抜けるまでは明日までかかるそうです……。明日、目覚めたら丞相とともに陛下に謁見する事になりました」
「そうか……。結局、俺は惠玲を救い出すことができずに彼女は太子妃となってしまったんだな……」
樂榮は無言だった。
梨鳳は張舜との会話した時点で、どうやっても丞相府から出る事はできないとわかっていた。
ただ、それでもなんとかしたい気持ちは変わらなかった。たとえ、惠玲が太子妃になったとしても。
皇帝への謁見が適うのは好都合だった。
「わかった。……陛下に賭けるしかないな」
梨鳳はこの機会に全てを伝え、太子と妃の婚姻を引き裂く腹づもりだった。
「丞相からは明日、変なことをすれば、誰も公子を助ける事はできなくなると言われました」
「……わかってるよ」
梨鳳は目をつむった。
「また明日、迎えに参ります」
そう言うと樂榮は部屋を出た。
丞相府から宮門までは馬車ですぐ到着した。
官服を着た張舜は龍杖をつきながらも背筋が伸びて、威厳が周囲を圧迫する程だった。
梨鳳だけを後ろに従えて宮門をくぐり、太極殿を過ぎた奥にある御書房にて二人は皇帝が来るのを待った。
「よいか、ワシが合図するまで絶対に口を開くな」
梨鳳は無言で、張舜の言葉に軽く頷いた。
間もなく皇帝・秦蓮は宦官を伴って部屋に入ってきた。
張舜と梨鳳は叩拝すると、すぐに宦官が張舜を扶け起こした。
「朕の前では免礼だと伝えたではないか、丞相」
秦蓮は和やかに話しながら、榻に腰掛けて、張舜にも着座を勧めた。
「そちも楽にせよ」
宦官の入れた茶を一口飲んだ皇帝は、張舜についてきた梨鳳にも声かけた。
榻に腰掛けた張舜がさっそく口を開く。
「陛下、本日は血盟書に基づき、盟約の代償を頂戴しに参りました」
秦蓮は茶碗を置くと立ち上がって、宦官に血盟書を持ってこさせた。
茶器などを片付け血盟書を机に開くと、中に短刀が挟まっていた。
秦蓮が短刀を持ち上げると、呪文のような言葉を口にした。
「秦氏祖先の名において、血盟を守りし張氏は望む事を申せ」
すると張舜は梨鳳の被り物を取った。
梨鳳の顔を見た秦蓮は驚きを隠せず、言葉に詰まった。
「なっ……」
梨鳳は再び跪き、拱手して口を開いた。
「張梨鳳にございます、陛下」
秦蓮は身をかがめて梨鳳の顔を触った。
「ほ、本当に梨鳳なのか……?」
「はい、陛下」
「し、しかしお前は雄王の襲撃で……」
「幸いなことに一命を取り留め、戻って参りました」
梨鳳はまっすぐに秦蓮を見つめた。
その前に張舜が立ちはだかった。
「陛下、本題へ戻しましょう」
「あぁ、そうだった。では望みを申せ」
張舜は短刀を秦蓮から譲り受け、自分の掌を切りつけて血を血盟書に垂らした。
「梨鳳を次代の丞相とする事を認めていただきたく」
張舜の言葉に梨鳳は咄嗟に遮ろうとしたが、龍杖の龍頭で腹を強打され声が出せずに咳き込んだ。
すると、秦蓮は短刀を受け取り、自分の掌を切りつけて同じように血を垂らした。
「梨鳳に次代の丞相を約束する」
張舜は静かに会釈して榻に腰掛けた。
秦蓮も腰掛けると再び梨鳳を見た。
「朕の不徳により、すまなかったな」
「……とんでもございません」
また張舜が二人の会話を遮った。
「私も陛下も太子に騙されたのですよ」
秦蓮は茶碗に伸ばした手を止めた。
「丞相、……さすがに不敬ではないか?」
「梨鳳、経緯を陛下に申し上げなさい」
「……はい」
梨鳳は、上着を脱いで身体の腹の傷を見せながら今回の事柄を全て秦蓮に伝えた。
「……朕が太子を盲信してしまったということなのか。そして、お前を危険に曝してしまったのだな」
張舜は茶を一口飲んでから口を開いた。
「張氏はこの件で、翠魏の社稷を危険に曝すつもりはございません。しかし、太子が陛下も欺いた事は大罪でございます」
「丞相が先帝とともに建てた帝業を脅かす事態になってしまい、実に慚愧に堪えぬ」
秦蓮は梨鳳に対して軽く頭を下げた。
張舜は再度、立ち上がった。
「盟約をもちいて太子の地位を確固たるものとしました。代償として丞相の世襲を約束いただきましたが、太子に梨鳳が生きている事が知られれば、再び命を狙われかねません。故に陛下には免死牌と手敕を賜りたい」
「敕の内容は?」
「梨鳳を廬陽山のある郢州太守に任命いただきたい。しばらく都から離れさせ、修練させたく考えます」
――惠玲を取り戻すまでは雌伏しかなさそうだ。
秦蓮は梨鳳の顔を見ながら、一瞬考えるように空を仰いだがすぐに要求を受け入れて、手敕をしたためた。
「この敕書に名をそのまま書かない方がよいだろう。……『長利凰』と記そう。これからは長利凰と名告りなさい」
梨鳳が敕書を拝受すると、張舜とともに拝礼して御書房から出ていった。
二人は御書房から宮門まで歩く間は終始無言で、皇宮から出て馬車に乗った。
「丞相はさすがですね。俺の人生はお爺様のものみたいだ」
梨鳳が口を開いた。
「そうふてくされるな。これが目下は最善なのだ」
「郢州は堂陽からは遠方ですから、私兵を鍛えるには最善の地に間違いないですね。もう飾りの皇族を一掃しても良いでしょ」
「馬鹿を言え。お前も分かっているだろ。太子は翠魏の次代皇帝、ワシが生きている間は良いが、それまではお前と張氏一族を危険に曝す訳にはいかないのだ。冀燕との国境沿いなら比較的安寧としているから、お前にとっても内政に励み統治を学ぶには絶好の機会だ」
「お爺様は俺にどうして欲しいんですか。俺は政になんて興味は無いし、今の翠魏もどうなってもいい、この手で太子から自分の愛する女を取り戻したいだけなんですよ」
「お前にもわかっていよう。どんなに腐っていようとも太子は太子なのだ。国の秩序を力で曲げる事は絶対にあってはならない。だから、まずは政を学び、太子よりも民を大切にする為政者となれ。そうしたら自ずと状況は変わってくる。そうすればお前も違った世界が見えてくる」
「話が噛み合わないのは今に始まった話じゃないのでもう諦めてますが、敕書を拝受した以上、俺には選択肢はないですから、荷物をまとめたら出立します」
そんな会話をしているとすぐに府邸の裏口に到着した。
馬車を降りた梨鳳のことを、樂榮が馬と荷車を従えて待っていた。
「……そうか、もう準備万端なのか」と嘆息した。
梨鳳は振り返って張舜に拝礼し、すぐに馬に跨がり、樂榮と数人の下人とともに走り去った。