4.帰還と想い
張家では梨鳳の葬儀が終わり、衣冠塚(遺体の無い墓)が都城の郊外に建てられたばかりの頃に、冀燕との国境沿いに梨鳳の目撃情報があり、張舜の耳に報せが届けられた。
「なに!? まことか! すぐに探し出せ。しかし、皇室には感づかれないように」
張舜の命令はすぐに辺疆にもたらされ、程なくして梨鳳は樂榮たち部衆と邂逅できた。
「梨鳳様、ご無事で何よりでございます!」
「なんか色々と心配させてしまったみたいだな。お爺様は大事ないか」
「丞相様は、ご健在です。梨鳳様が雄王の手にかかったと知られた時は、皇室をひっくり返そうとされる程にお怒りになられましたが」
「雄王……? そんな風に聞いているのか?」
「はい……、太子がわざわざいらっしゃって丞相様に伝えられたと聞いております」
「そうか……」
樂榮の言葉に梨鳳は黙りこんだ。
樂榮たちは張舜の命令を守り、梨鳳を保護してから昼夜かけて山道を馬を駆り、三日後には西門からひっそりと都城に入り、丞相府に辿り着くことができた。
梨鳳はすぐに祠堂に入り、自身の無事を報告してから、張舜が待つ後堂に向かった。
「お祖父様……。不肖者、梨鳳ただいま戻りました」
張舜は普段、龍杖を支えに歩く程には老人ではあったが、この日だけは全く別人のように後堂に立っていた。
張舜は梨鳳の姿を見付けた瞬間、地面に両膝がつきそうに体勢をくずしかけて周りの梨鳳の兄弟たちが慌てて支えた。
「……よ、よくぞ、戻った……。大事ないか?」
梨鳳は慌てて、張舜の前に跪き叩拝した。
「ご心配お掛けし、面目ありません!」
「良い、無事に戻ったなら何も問題無い」
張舜は孫の頭を愛おしそうに撫でて涙を流した。
「どうやって生き残ったのか、ゆっくりと聞かせてくれるな」
「はい、お爺様。実は……」
梨鳳は経緯を事細かに堂内にいた家族に語った。
惠玲が乗った馬車と行列が翠魏の都城に到着したのは、梨鳳が丞相府に戻った数日後だった。
皇宮に入り翠魏皇帝・秦蓮に謁見した。
「冀燕公主・穆佳玲、皇帝陛下に拝謁いたします」
「おお、遠路はるばるよくぞ来てくれた。待ちわびたぞ」
惠玲は何故か佳玲と名乗り、和親公主となっていた。
翠魏と冀燕との盟約上、嫡女が太子妃となる筈であったが、嫡女の佳玲が拒婚態度を貫き、自殺をほのめかしたので、冀燕王も為す術なくなってしまった。
そこで二女の惠玲を呼び戻して代嫁させる事にした。
ただ身分は佳玲と偽らせたままに。
「冀燕王は、息災であるか?」
「はい、父王も陛下の健康をお祈り申し上げております。そして、こちらは冀燕で産出している青い水晶で作った昇龍像になります。どうぞ、お納めください」
「おお、これは素晴らしい! そなたも長旅で疲れていよう、後宮に居住する宮殿を用意した。まだ婚儀には猶予があるから、しばらくはこの都城内を楽しむが良い」
「ありがとうございます。では、佳玲はこれにて失礼致します」
太子・秦祜は冀燕公主が到着した知らせを聞くとすぐに皇后へ問安する名目で後宮に入ろうとしたが、側近たちに止められた。
「ひと目見るだけなのだから良いではないか。それに見るに耐えないほどであれば、婚姻は破談にすれば良い。冀燕など征伐すれば良いではないか」
秦祜は梨鳳に対する仕打ちからも分かるとおり、凡庸で欲深く、悪知恵だけは働く男であった。
皇后の母がいなければ、太子の地位にも居られるような人物ではなかった。しかし、政敵となっていた兄弟の雄王を排除した事によりますます周りを気にしない傲慢が露見してきていた。
「殿下、なりませぬ! 国事を軽々しく考えては足元を掬われますぞ」
そう、窘めたのは太子太傅・袁卓だ。
「軍を起こすなどもっての他でございます。太子妃は一人ですが、側室は何人でも気に入った女をそばに置けるではありませんか。皇后陛下からもとやかくは言われませんから」
このように唆すのは、東宮内侍・狄越。幼い頃から太子に仕える宦官だ。
秦祜は二人の意見を吟味して、公主を見に行くことを取り止めたが、狄越に命じて画工に肖像を描かせるよう命じた。
惠玲は冀燕から出てくる際に梨鳳からもらった手紙を大切に保管していた。
「……梨鳳様、無事に目的地に着かれたかしら……」
手紙は腰帯に縫い付けていた。
「惠玲様、皇后陛下の月樓殿へご挨拶に参りましょう」
蒼花に進められるままに後宮を進み、月樓殿に辿り着き皇后への謁見を願い出た。
殿内は静寂に包まれて、沈香の匂いが遠く流れていた。
奥の座に座る皇后は惠玲を迎え入れ、世話話に花を咲かせた。
「冀燕の話はなかなかに興味深いわね。後宮に入ってからは外国の話は戦ごとばかりで退屈していたところよ」
「皇后陛下にお喜びいただけて光栄至極です」
「太子とは婚儀までは見えてはいけない決まりだから、せめて肖像だけでも東宮に送ったらどうかしら?」
そういうと皇后は画工に命じて惠玲の肖像を描かせて東宮に送った。
肖像を預かった宦官が東宮に届けられた。