9.もう一人の公主
二人の冀燕公主は、それぞれに苦難の道を歩んだ。
もともと同母姉妹ではあるが、性格は真反対で、姉は何事にも憂える事なく、蝶よ花よと王宮にて育った。妹は活発ですぐに王宮を抜け出しては、自分の興味が赴くままに色々なことを経験して成長した。
そんな妹を見下しながらも、表面上は寛容な姉を演じた穆佳玲。
そんな姉を無垢に慕い続け、姉に代わって翠魏へ嫁いだ妹・穆惠玲。
しかし、因果応報なのか、妹が翠魏へ嫁いで一年も経たずに、姉は自分の意志とは無関係で、更には恐怖しかない環境に嫁ぐ事となってしまう。
悲劇は突然訪れた。
「嫌でございます! なぜ、あのような野蛮な男に嫁がねばならないのですか!?」
王座の前で取り乱した佳玲は、近くにあった物を所構わず投げ散らかした。
「話を聞きなさい! 今回は翠魏の時とは違う。国が滅びる瀬戸際なのだぞ!」
冀燕王・穆繹は、窮地を救える唯一の手段として佳玲に宇文氏へ嫁ぐ事を告げたので、今の状況となった。
「たとえ私が嫁いでも、約束を反故にされたらどうするのですか! 宇文など信用に値しないって日頃から言ってるのは、お父様でしょう!」
「お前と議論してはいない。これは王命だ」
穆繹は二人の公主を冀燕国の安寧を保つ為に嫁がせる事しか考えておらず、君主としては凡庸であったが民からは慕われていた。名声が欲しいわけではないが、民の為にも自分の娘たちを利用するしかなかった。
「佳玲、父が無能故に苦労をかける。お前は苦労した事もなければ、聡明でもなく、普通の娘だ。だが、国も為に公主としてあるべき責務は果たすのだ。それこそ今まで金枝玉葉の生活を堪能したお前が国恩に報いる時だ」
「嫌よ! 本宮を見捨てるような父王の言うことなど聞くものですか」
「平陽宮にて公主に婚礼の準備をさせよ」
佳玲は平陽宮に幽閉された。
堂陽に到着した樂榮はすぐに丞相府に戻り、梨鳳の要求を伝えた。
「またどうして冀燕王に会おうとしているんだ?」
病を療養していた張舜が寝室にて直接、樂榮の話を聞いた。横には嫡男・張永が立っていた。
「まさか、まだ太子妃を取り戻す為に冀燕王に会うなんて馬鹿げた事を考えているんじゃないだろうな」
張永が苛立ちながら樂榮を問いただした。
「そのような訳がありません。先日、辺疆に涼夏兵が侵犯してきたのです。そこで宇文禮貴なる将がいまして、梨鳳様が撃退したのですが、どうやら翠魏に来る直前に冀燕の首都を包囲して陥落寸前まで追い込んだみたいなのです」
張永は少し眉をひそめた。
「涼夏だと? あの国は我が国とはほぼ往来が無いではないか。何故、侵犯してきたのだ。それに攻めるならわざわざ冀燕を攻める意味もわからない」
すると、張舜がゆっくりと口を開いた。
「敵将の名は宇文禮貴と言ったか……」
「はい、丞相様。私は梨鳳様から聞いただけなので詳細はわかりませんが、梨鳳様が仰るには『取り逃がしたのではなく、見逃された』との事です。それ程に強い大男だったようです」
「思い出したぞ。そやつは宇文氏の傍流だが、首長を殺そうとして失敗し北地に追放されたのだ。しかし、追放の際には、側近数名だけが同行を許されたはずで、兵力など無いはず……」
「しかし、私が調べた限りでは千人に満たない兵力で冀燕の首都を包囲したようです」
張舜がしばらく考え込んでから樂榮に聞いた。
「『千人に満たない兵力』だと言ったな。もしかして、黒ずくめの姿だったのではないか?」
「はい、梨鳳様がそう仰ってました」
「ならば間違いない、涼夏正規軍の黒雷だ。しかし、黒雷は首長直属軍の筈だが……」
「黒雷がどういう存在かは知りませんが、梨鳳様は知らない敵とは戦えないと仰っておりましたので、どうか正規使節として冀燕王への使者に任命ください」
張舜は張永に朝議にて辺疆に涼夏軍が現れ、冀燕も大打撃を受けた事実を上奏するよう命じ、状況把握の為にも使節を派遣するように皇帝に請願するように伝えた。すぐに三省の尚書に連名するようにも連絡させた。
東宮に戻る太子の表情はいつもよりも暗かった。
狄越が後ろに付き従いながらも心配で何度も声を掛けようか迷っている間に、一緒に歩いていた太傅・袁卓が声を掛けた。
「しばらくは太子妃に黙っておいた方がよろしいかと思います」
秦祜は振り返らず頷くだけだった。
「それに今回の使節は丞相からのご指名なのです。何かあれば、丞相が責任を負うことになります。殿下は結果をお待ちになればよろしいのです」
狄越もすぐに袁卓の言葉に続いた。
「わかっている。しかし、もしもの事はあるだろ」
「では、私が使節に同行しましょう」
「それでは、孤が大変になるじゃないか」
「心配には及びません。政務は引き続き、属僚たちが輔佐いたします。それに赴任して間もない郢州太守自ら使節になるなど何か違和感があるのです」
「そこまで太傅が言うなら任せるが、何かあればすぐに報せを飛ばしてくれよ」
そう言いながら太子は東宮の門をくぐっていった。
東宮門の裏で話を立ち聞きしていた蒼花はバレないように惠玲の元に向かい、話の内容を伝えた。
「本当なのですね、冀燕がそんな事になっていたなんて……。蒼花、伝書鳩でお父様に手紙を送ってちょうだい」
「しかし、伝書鳩だと東宮の者に見つかってしまいます」
焦る惠玲は右往左往しながら、手紙を出す方法を考えた。
「蒼花、堂陽の東市にある琵琶楼にいる世話人に手紙を渡してちょうだい。そして、この薬瓶を渡して」
「わかりました」
惠玲は手紙を書き終えると蒼花に瓶とともに渡した。蒼花は閉門前に戻ると言って東市に向かった。
冀燕への使節派遣の詔はすぐに太子の許可を得て、郢州城に届けられた。
樂榮は道すがら伝書鳩を飛ばして、袁卓などが副使として同行している事を梨鳳に伝えた。
梨鳳はすぐに仮面を用意させたが、顔全部を多うのは疑われるだろうと考え、仮面を半分に割った。
樂榮たちが城内に入ると、袁卓はすぐに太守府へ向かうよう指示した。
「樂榮殿、太守に早く詔書を宣じねばならないので、このまま案内していただきたい」
樂榮は言われるままに太守府へ案内した。
太守府の門をくぐった袁卓は詔書を片手に持ち上げ、声をあげた。
「太守・長利凰、詔を受けよ」
顔の右側を覆う仮面を付けた梨鳳が中庭に出てきた。
「臣・長利凰、謹んで詔を拝受致します」
跪いて叩頭した梨鳳の前で袁卓は詔を読み上げた。
「長利凰を冀燕使節に命ずる。欽此」
詔書を受け取って、梨鳳は立ち上がった。
「長太守、お初にお目にかかりる、太子太傅の袁卓と申す。此度は副使として使節に付き従わせていただきます」
「袁太傅、お噂はかねがね……。お会いできて幸甚です。ともに使節として任務を果たしましょう。どうぞ、府堂にて茶を用意しています」
「では、お言葉に甘えて」
袁卓と梨鳳が府堂に入り、席に着いた。
「太傅は太子殿下の傍で、かなりの辣腕を振るわれているとお聞きしますよ」
「ははは、とんでもない。私のことよりも長太守の事をうかがいたい。冀燕王との面会でどのような話をするおつもりなのです?」
「それは、もちろん涼夏軍の事ですよ。私自身が敵将と戦いましたが、あれが我が軍と本格的に戦う事になれば脅威なのは間違いない。それを防ぐ手立てとしても冀燕に状況を教えてもらいたいのです」
「情報収集は確かに重要ですな。それにしても、その仮面は……」
袁卓は梨鳳の仮面について聞いた。
「あぁ、驚かせてしまいましたか。敵将との戦いで、左側を深く斬られまして。府内の者が恐がるので仮面をつけているのです。見苦しくて申し訳ない」
「とんでもない。こちらこそ好奇心で失礼な質問をしてしまいました」
その後も、しばらく使節として冀燕に求める事などを確認すると、袁卓は部下を連れて用意された宿へ向かった。彼らが府を出ると梨鳳はすぐに樂榮を呼び寄せた。
「樂榮、ご苦労だった。ちなみに太子の息がかかった者はどれぐらいいるんだ?」
「堂陽からの使節団大半は東宮の属官たちです。もちろん、丞相様も梨鳳様の為に陸甲と陸乙兄弟を遣わされました」
樂榮が言うと、物陰から覆面の男二人が姿を見せた。
「梨鳳様、俺ら二人が来たからにはご安心ください」
覆面を付けながらも軽口を叩く方が兄の陸甲。双刀の使い手である。
「……今すぐに殺してこようか?」
普段は無口だが、始末するという言葉には反応するのが弟の陸乙。細身の長剣を持ち、短弩を使う。
二人とも樂榮が梨鳳に付き従うように、本来は張舜の従者であるが、どうやら張舜が計らってくれたようだ。
「久しいな、二人とも。お爺様には心配かけてばかりだ」
「良いじゃないですか。心配できるのも生きてる証だって丞相が言ってましたよ」
陸甲は楽観主義者なのが、従者の中でも異質だった。
「二人とも、太子の者たちには手を出さないでくれよ。彼らには穏便に来て穏便に帰ってもらう」
「じゃあ、梨鳳様と戦った宇文禮貴とやらせてくださいよ。しばらく暴れてないからムズムズしてんですよ」
「……強い奴とやり合いたい」
「殺気立つな、二人とも。まずは冀燕に入ってからだ……」
梨鳳は仮面を外した。