12:話し合い(2) side隆臣
「い、嫌だ!俺は別れたくない!」
俺は叫んだ。他人の家なのに、近所迷惑とかそんなこと考える余裕もなくて。子供みたいに泣いて、叫んで、愛花の足元に縋った。
無駄だとはわかっている。だって、愛花の心はもう決まってしまっている。けれど、それでも俺はまだ諦めたくなかった。
だが、愛花はそんな俺を見下ろしてただ困ったように笑っていた。まるで、俺に対する感情を全て捨ててしまったかのように、笑っていた。
いっそ、嫌いだと言ってくれた方がまだいくらかマシかもしれない。
「愛花……」
「ごめん。ごめんね、隆臣くん」
「……」
「ごめん……」
息苦しい沈黙が流れる。別室から赤子の鳴き声が聞こえた。
「愛花……。翠ちゃん、そろそろ授乳なんじゃない?」
見かねた新山が一旦、話し合いを中断しようと愛花に授乳を促した。愛花はどこか安堵したように息を漏らし、先生と翠がいる別室へと向かった。
「ま、待って!待って、愛花!」
「ごめん、隆臣くん。今日はもう帰って。私、翠に授乳しなくちゃ」
「まだ話は終わってないよ!授乳とか後でいいから、もっとちゃんと話そう?」
「後でいいって……。良くないよ」
「話せばきっと分かり合えるから!俺たちにはきっと会話が足りなかったんだよ!今はちゃんと話をしようよ!」
「……ごめん。無理だ」
「愛花!」
今離れたら、もう永遠に愛花と話せない気がして、俺は愛花を追いかける。
だが、愛花が別室に入ろうとしたところで、部屋から出てきた先生に阻まれた。
「ちょうどよかったわ。ちょっとぐずりだしててて。多分お腹空いてるんだと思う」
「うん。子守りをありがとう。ちーちゃん」
「どういたしまして。一応、授乳するときは鍵閉めといてね」
「うん。わかった」
愛花は部屋に入り、鍵を閉めた。
先生は俺に立ちはだかるように、扉の前に立ち、俺を睨みつける。
「先生……」
「隆臣くん。今日はもう帰りな?」
「でも!」
「でも、じゃないよ」
先生が刺すような鋭い視線を俺に向ける。その瞳に俺はびくりと体を震わせた。新山はそんな俺の姿に苦笑した。
「千景の言う通りだよ、隆臣くん。今日はもう帰った方がいい」
「……新山」
「あのね、隆臣くん。言いにくいんだけどさ、今の隆臣くんじゃ何を言っても無駄だと思うよ?」
「どうしてそんな事を言うんだよ」
「だって、隆臣くんは何も理解していないじゃない。愛花が嫌だったこと、辛かったこと。全部本当に理解してる?」
「してるよ!」
理解しているから、後悔してるんだ。
しかしそう言うと、新山は呆れたように肩をすくめた。
「隆臣くん。愛花の実家は今、お姉さん家族が帰って来てるそうなの。だからね、今週中はこの家にいると思う」
「えっと、それはつまり……」
「愛花が会ってくれるかどうかは別だけど、隆臣くんが愛花を説得したいのなら、それを止めはしないということだよ」
「いいのか……?」
「もちろん、愛花が会いたくないって言うなら会わせないけどね」
「あ、ありがとう!」
新山は結婚しても昔と変わらず優しいし、いい奴だ。
「新山。俺、頑張るから!」
まだ愛花に会える。説得するチャンスがある。これで終わったわけじゃない。そう思うと俺は安堵のため息を漏らした。
今週は毎日ここへ足を運ぼう。そうだ、お弁当でも作ってこようかな。俺が家事を頑張っている姿を見せれば、愛花の気持ちも変わるかもしれない。
だがそう言うと、新山はまた呆れたようにため息をこぼした。
「……隆臣くんさ、本当によーく考えてね」
「え、何を?」
「愛花はね、単純に君が家事をしてくれないことが嫌で離婚したいと言ってるわけじゃないんだよ?それはあくまでも理由のうちの一つでしかないんだよ?」
「……えと、それはどういう意味?」
「隆臣くんには愛花を思いやる気持ちが足りないんだよ。例えば晩御飯がデリバリーだった時、愛花のことを思う気持ちがあれば『手抜き』なんて言えないはずでしょ?普通は、いつもキチンとご飯を用意していた妻がデリバリーを使ったら、何かそうせざるを得ない事情があったのかもしれないって考えられるんじゃない?……まあ、何の理由もなくデリバリー使ったりすることももちろんあるけど、愛花の置かれた環境を知ってたら、疲れてるのかなって思えるはずだよ」
「……」
「それにさっきの、お弁当を作ればって……、愛花の都合なんて何も考えてないよね?隆臣くんが愛花と別れたくないから、求められてもないお弁当を作って家事を頑張ってるアピールしたいだけだよね?」
「あ……」
「あのね、隆臣くんは基本、全部自分本位なんだよ」
新山は穏やかに微笑みながら、辛辣なセリフを吐いた。
言葉が胸に深く突き刺さるのは、思い当たる節があるからだろう。
「相手のことを思う心があれば、相手が求めていることはわかるはずだよ。それができなくとも、せめて何をしてほしいかを聞けるはずだよ」
「新山、俺……」
「隆臣くんは昔、愛花の笑顔の裏に隠された心に気づけたじゃん。どうして今は求めるばかりで気づけなくなってしまったの?」
「……そう、だな。そうだよな」
いつから俺は、愛花に求めるばかりになっていたんだろう。俺は目を瞑り、過去を思い返した。
確か、同棲し始めた頃は愛花がご飯を作ってくれたら美味しい、ありがとうって言っていた気がする。
作ってくれたからと、洗い物は自分からしていし、洗濯ものは……、綺麗に畳むのは苦手だけど愛花に指摘されながらも畳んでた。
それなのに、いつからだろう。
ああ。そうだ。同棲を始めて1年くらい経った時期だ。ちょうど重要なプロジェクトを任された頃。
あの頃の俺は、上司から『この仕事がうまくいけば昇進は確実』と言われていたこともあって、自由に使える時間を仕事に全振りしていた。仕事を成功させて、早く愛花にプロポーズしたくて必死だったのだ。
しかし仕事を頑張れば頑張るほど、当然家のことなどできる筈もなくて……。あの時期は家事の負担を全て愛花に押し付けていた。
愛花は俺の頑張りたい気持ちを汲んでくれて、文句の一つも言わずに家事を担ってくれた。そして疲れて仕事から帰って来た俺にいつも『おつかれさま。こんな時間まで頑張ってえらいね』と言ってくれた。
あの頃の俺にとって、愛花と住む家は居心地がよかった。
安らげる場所で甘えられる場所で、上げ膳据え膳の生活が送れる場所。
俺はずっとこんな生活を続けていきたいと思っていた。
だからだろうか。仕事が落ち着いても、俺は以前のようには戻らなかった。家事は俺の仕事じゃないと思うようになっていた。
愛花が当たり前みたいに全部担ってくれるから、俺もそれを当たり前に感じていた。
「俺、最低だな……」
ようやく自分の過ちを自覚できた気がした。
新山はそんな俺の肩をポンと叩き、さらに容赦なく続けた。
「あとさ、もう一つ言わせて?」
「う、うん」
「愛花も言ってたけど、隆臣くんって本当に翠ちゃんのことどうでも良さそうだよね」
「………………え?」
「私に電話くれた時から思ってたけど、君は愛花のことばっかりで翠ちゃんのことは何も聞かなかった。ここにきてからも、姿が見えないのにどうしてるか気にもしない。挙句、お腹を空かせて泣いている娘に授乳しようとする愛花を止めた」
「そ、それは……」
「赤ちゃんって、母乳やミルクからでしか水分取れないし、栄養を摂取できないんだけど。それを止めるってご飯抜きにしろって言ってるようなものだよ?」
「そう、だよな。ごめん……」
「私に謝られても困るけど」
「あ……、うん……」
「それにさ、翠ちゃんってさ平均よりも小さく産まれたよね?」
「ああ……」
「愛花はきっとすごく心配したはずだよ。先生に大丈夫って言われても、保育器の中にいる我が子の姿には少なからず不安を覚えたはずだよ。隆臣くんはそんな愛花の気持ちに寄り添ってあげたことある?愛花と同じように翠ちゃんのこと心配した?」
「心配はしたよ」
「今は?」
「いや、でも今はもう人並みになったし……」
「多分、愛花は今も心配してるよ。我が子のことだもん」
愛花の育児ノートには細かい体重の増加量、授乳の回数や排泄の記録がびっしりと書かれていたと新山は言う。
俺はそんなノートがあることすら知らなかった。
「ねえ、隆臣くん。どうして子どもを作ったの?」
「どうしてって……、だって結婚したら子ども作るのは普通のことだろ?」
「それは周りはみんな持ってるから、自分も欲しかったってこと?」
「それは……、言い方に悪意あるだろ」
「同じことでしょ?小学生が、周りの友達がゲーム持ってるから自分も欲しいって言うのと何が違うの?」
「全然違うよ」
「じゃあ、周りの家が犬飼ってるから自分も飼いたいって言う小学生と同じかな?」
「違う!」
「そうかな?似たようなものじゃん」
「どこがだよ」
「だって、欲しがるだけ欲しがって、いざ世話をするとなると自分はノータッチ。気まぐれに可愛がるだけ。そして結局はお母さんが面倒を見る羽目になる。よくある話だよね」
「……」
「……母親にとって、子どもは宝物なんだよ。もちろん、世の中の母親の全員が子どもを深く愛してるなんて大それたことを言うつもりはないよ?けど、でも、少なくとも愛花にとって翠ちゃんは宝物なんだよ。自分より大事なの。私だったら、そんな我が子に興味すら持たない旦那なんて要らないかな」
新山は辛辣や言葉を吐いて、ニコッと笑った。
その言葉は俺の心の奥深くに突き刺さり、俺の中の何かを壊した。
俺はその後、どうやって家に帰ったのか覚えていない。




