10:宝物
本当はわかってた。
家族も友達もみんな、「隆臣くんで本当に大丈夫?」って思ってること。
大学卒業から一年後、隆臣くんと同棲し始めてから、徐々に私たちの関係は変わった。
それまではただの仲の良い彼氏と彼女だったのに、いつの間にか気がつくと母親と息子になっていた。
朝から晩まで、私はお世話する側で、彼はお世話される側。同棲して3年が経つ頃には、本当にこの人と結婚して良いのだろうかって、毎日考えてた。
でも、隆臣くんは家事はしないけどちゃんと働いてはくれるし、ギャンブルもしない。何より高校時代から変わらずずっと私のこと大好きだし、浮気しないし、顔も良い。そこらのクズ男と比べたら全然優良物件だ。別れるなんて勿体無い。
だから、私の中には別れるなんて選択肢はなかった。
……いや、違うな。本音はそうじゃなかった。
本当は10年近く付き合って、二十代も後半に突入して、今更新しい恋なんてできないという思いが一番強かった。
だって、絶対素直に別れてくれない隆臣くんに別れ話して揉めて、揉めた末に同棲を解消して、周りに報告して、なんでなんでって聞かれて、憐れまれて。
そこからまた誰かと出会って、デートを重ねて、告白をして、付き合って、結婚について話し合って、価値観を擦り合わせて、結婚の準備をして……。
そんなことをまたしなければならないのかと思うと、めんどくさかった。そんな数年単位で面倒なことをするくらいなら、家事をしないなんていう欠点は瑣末なものだと思った。私が頑張れば済む話だと思った。
だから、私は薄れつつある隆臣くんへの愛情を見ないふりして、彼のプロポーズを受けた。
本当は苦手なフラッシュモブによるサプライズプロポーズを大袈裟に喜んで、泣いて見せたりもした。
両家の顔合わせも結婚式の準備も、彼は私に丸投げだったけど、私はこういうの得意だからと笑顔で全て引き受けた。
顔合わせの時に彼の母親とは合わないなと感じていたけど、その直感には蓋をした。
どう考えたって、彼はまだ父親になれないと分かり切っていたのに、子供が生まれたら変わってくれるはずだと期待して、結婚後は避妊しなかった。
今の私のこの現状は全部、自分の中にあった違和感を見て見ぬ振りした結果だ。自業自得と言えるだろう。
「家事をしない云々の話じゃなくて、そもそも私に対する思いやりがなくなっちゃったんだよね。隆臣くんは」
駅直結の商業施設の屋上広場。
ライトアップされた世界遺産の城をバックにSNS用の動画を撮る若者たち。
私はそんな彼女たちを眺めながら、ひとり、ホットのルイボスティーを飲む。
紙のカップから伝わる熱が私の冷えた手をじんわりと温めた。
昼間の暖かさはどこへやら。ずっと家に引きこもっていたから気がつかなかった。いつのまにか季節は巡り、もう秋になっていた。
「あうー?」
「ふふっ。ごめんね。翠ちゃんには言ってもわからないよね」
父親の悪口を言う最低な母である私を慰めるように、翠はニコッと笑った。
私はベビーカーでご機嫌に笑う翠にそっと毛布をかけ、軽く頬に触れる。
「冷えてはなさそうだね」
「あうー」
「さて、これからどうしようかな」
隆臣くんが仕事から帰る前に家を出て来たところまでは良かったが、その後どうするかなんて考えていなかった。相変わらず詰めが甘い。
私はスマホを取り出した。隆臣くんからはエグい量の不在着信が来ていたが、それは無視して徐にメッセージアプリを開く。そして上から順に頼れそうな人を探した。だが、誰に連絡すれば良いかわからない。
実家に帰る?でも今週は姉家族が帰って来ている。今帰るわけにはいかない。実家に行けるのは早くても来週だ。
円さんに相談する?でもあそこは一番上の子が受験生だ。邪魔はできない。
じゃあ千景?……いや、無理だろう。この間の帰り際の彼女の顔を思い出せ。もう千景は私のことをブロックしているかもしれない。
じゃあ……、あずさは?
「はは……。それこそダメでしょ」
この間、何を言ったか覚えていないのか。それなのにこの後に及んで彼女に頼ろうとするなど、図々しいにも程がある。私は私を軽蔑した。
「ママね、多分本当は……、ちょっとマウントを取ってやろうって気持ちがあったんだと思うの」
多分本当は、高級取りで優しくて家事もしてくれる旦那がいて、子どもがいないのに悠々自適に専業主婦生活を送っているあずさが羨ましかったんだと思う。
だから、私はあの日。あのカフェでわざと大袈裟に喜んで子どもの報告をしたんだ。
ちょっと考えればあずさが不妊に悩んでいることなんて気づけたはずなのに。
きっと心の奥底では、子どもがいないあずさより幸せだと思いたかったんだ。
「最低だねぇ、私って」
だから、あんなに大切だと思っていた、あんなに大切にしてくれた友達にも簡単にひどいことが言えてしまう。
「はあ……。どうしよう」
とりあえずどこかホテルを取るか。こんな急に泊まれるところあるかな。私はスマホでホテルを探しながら、視線をベビーカーの横に並べたスーツケースに向けた。
スーツケースの中身は貴重品と3日分くらいの服。あとは全部翠のための物で埋まってる。
隆臣くんにプレゼントしてもらった服も靴もバッグもアクセサリーも、全部置いて来た。
だって余計なものは荷物になるだけ。今の私には翠以外に大事なものなんてない。手放したくないほど大事なものなんて、何もないもの。
でも、どうしてかな。おかしいな。視界が滲む。
私は周りの目を気にして、顔を伏せた。
覚悟を決めて出て来たくせに一人になることを怖がるな。
顔を上げなきゃ。強くならなきゃ。
私は母親なのだから。
「名乗るほど大した名じゃないが」
「誰かがこう呼ぶ、ラフ・メイカー」
急に聞こえた懐かしい歌詞に音痴すぎる歌声。
私はまさかと思いながらも、ゆっくりと振り返った。
雲に隠れた月が顔を出す。その灯に照らされて現れたヒーローは悪戯っぽい笑みを浮かべ、かくれんぼの鬼のように「見ーつけた」と言った。
「ラフ・メイカー?冗談じゃない………。ほんと、冗談じゃないよぉ……。何でいるんだよぉ……」
「あはは!すごい泣くじゃん」
「ほら、愛花。ハンカチ」
「ううぅ……。ちーちゃぁあん!あずちゃぁあん!!」
「はいはい。ほら、みんな見てるから。恥ずかしいから」
あずさはハンカチで私の顔を乱暴に拭いた。
どうしてここにいるんだろう。メッセージも電話もしてないのに。
「昨日の今日なのに」
私、ひどいこと言ったのに。
なんで?探してくれたの?なんで?
「本当に、なんでいるのよ……」
「隆臣くんから私のところに連絡があったのよ。愛花がいなくなったから、一緒に探して欲しいって」
「でも私、昨日……」
「そう。昨日の今日だからさ、多分愛花は私が連絡しても素直に場所を吐かないと思って。だからとりあえず千景に連絡してー」
「私が愛花の行動範囲の中から赤ちゃんを連れて行けそうな場所を数カ所ピックアップして、そこを二人で虱潰しに探してたらここに辿り着いたってわけ」
「いやぁ。さすがのプロファイリングだったよ、千景さん」
「まあ、愛花は詰めが甘いから、勢いに任せて飛び出したのならホテルとかに入ってる可能性は低いと思ってたよ」
「……ぐうの音も出ないよ、ちーちゃん」
「ついでに言うと、愛花は景色いいとこ好きだし、イルミネーションとか毎年必ず行くから、可能性が高いのはここか向かいのビルのカフェだと踏んでたんだよね。……どう?名探偵でしょ?」
千景は「真実はいつも一つ」と人差し指を伸ばし、私の鼻先をちょんとついた。
「名探偵すぎるよぉ。どうしてそんなに私のことがわかるのさぁ!?」
隆臣くんはわかってくれなかったのに、どうしてこの二人は何も言わなくても私のことがわかるのだろう。
私が不思議そうに何で?どうして?と繰り返していると、あずさと千景は顔を見合わせて笑った。
「だって、ねぇ?」
「友達だから?」
友達。その言葉に私はまた涙腺が崩壊した。
あずさは慌ててまた私の顔にハンカチを押し当てる。
優しい。好き。大好き。私はおんおん泣いた。
「ごめんね!昨日はごめんね!ひどいこと言ってごめんねぇ!」
「あはは。めっちゃ泣くじゃん」
「だって、だって私。もう終わったと思って。もう友達ではいられないと思って」
もう戻れないと思った。まさか探しにきてくれるだなんて思ってもみなかった。
私がそう言うと、あずさは女神様のように柔らかく微笑んで私を抱きしめた。
「追い詰めてしまってごめんね、愛花。ついお節介を焼いてしまったね。私の悪いくせだわ」
「謝らないで。あずちゃんがそうやって言ってくれたこと、私、嬉しかったよ。ただ、少し意地を貼ってしまっただけなの。ごめん……、ごめんね。ひどいこと言って、ごめんね」
「別にひどいこと言われたなんて思ってないよ」
「嘘だ。傷ついた顔してたもん」
「まあ、ちょっぴしショックだったのは事実だけどさ」
「ほらぁ!」
「でもね、余裕ない時って誰にでもあるじゃん?だからね、私は気にしてないよ」
寝不足で自律神経が乱れて、なんか無駄にイライラして、普段だったら絶対に言わないようなことを口走ってしまったり。
そういうのは自分も経験があると、あずさは言う。
(嘘だよ。あずさはそんなことしないよ。あずさは他人にイライラをぶつけるような人じゃないよ)
そう思ったけれど、私はそれを口には出さなかった。
だって、それを言っても彼女は笑って否定するだろうから。
そんなことないよって。私も愛花と同じだよって。
同じなわけないのに。同じなら、こんなふうに許したりなんてできない。
「うわぁぁん!」
「ま、愛花?」
「あずちゃん。あずちゃん!!」
「なぁに?」
「大好き!あずちゃぁん!大好きー!」
「はいはい。とりあえず落ち着いて、愛花」
「そうだよ、愛花。今、めっちゃ周りに見られてるから」
「うぅ……」
「愛花、とりあえず移動しよっか。ここにいたら風邪引くよ」
「や、やだ!帰りたくない!家には帰りたくない!」
もう、隆臣くんとは暮らせない。私はあずさから引き剥がそうとする千景の手を振り払った。
すると千景は呆れたように肩をすくめる。
「違う違う。帰らないよ。一旦あずさの家に行くだけ」
「……え?あずちゃんの家?」
「うん。愛花、スーツケース持って出て来たってことは帰るつもりなかったんでしょ?」
「う、うん」
「だったら帰らなくていいよ。今日は私の家に泊まりなよ。ね?」
「いいの?」
「いいよ。いいに決まってるじゃん。聡も是非って言ってたし、おいで!」
あずさは私の肩を抱き、立ち上がらせると、ベンチに置いていた私のリュックを背負った。
千景はスーツケースを持ってくれた。
私は顔を上げ、服の袖で涙を拭い、いつの間にか眠っていた翠の顔を確認してベビーカーを押した。
一人では抱えきれない荷物だったのに、二人がいると荷物が減った。
何だか身も心も軽くなった気がした。
夜、あずさの家でスーツケースの中身を出した時、私は思い出した。
本当は思い出を一つだけ、持って出て来たことを。
スーツケースの底に隠したのは、無意識に持ち出していた友達の証。
幸せの青い鳥が表紙に描かれた、文芸部の部誌。




