9:失言(3)
翌朝、私はいつも通り5時前に目が覚めた。このくらいの時間帯に眠りが浅くなりがちな隆臣くんは、翠の泣き声で目が覚めてしまう。彼はアラームが鳴る前に起こされると不機嫌になるので、私は翠が泣く前にリビングに移動した。
「さあ、ミルク飲もうか」
カーテンを開け、今朝はご機嫌な翠をベビーベッドに寝かせてキッチンへと向かう。
すると意外にも、キッチンのシンクに食器は一つもなく、昨日食べたお弁当のケースはきちんとゴミ箱に捨てられていた。
「……何だよ。やればできるんじゃん」
やればできる。それはつまり、今まではできるのにやらなかったということだ。
「……って、何考えてんだろ。ははは……。私ってば、性格悪いなぁ」
隆臣くんが家事をしてくれたのに、素直に喜べないなんて……。ほんと、私は性格悪いな。
でもそう自覚しながらも、やはりありがとうとは言いたくないなと思ってしまう。
「おはよー、愛花」
「おはよう……」
6時半。隆臣くんが起きてきた。彼はわざとらしくこちらを見ながら、ベビーベッドでご機嫌に過ごしている翠に話しかけた。
どうやら昨日、洗い物をしたことを報告しているようだ。
多分、褒められたいのだろう。わかりやすい男だ。
だが、私は気づかないふりをして朝食の用意をした。
「愛花」
「んー?何ー?」
「何か俺に言うことない?」
「えー?何もないよ?」
「……チッ。そうかよ」
望んだ言葉が返って来なかったことに苛立つ隆臣くんは、私にも聞こえるように舌を鳴らした。けれど、いくら睨まれようとも私はもう、思ってもいない感謝を伝えたくはなかった。
昨日、洗い物してくれたんだね。ありがとう。
たったひと言、そう言うだけで家の中の空気は軽くなるのに。
*
「なあ、最近態度悪くない?」
私が用意して私がテーブルに並べた朝食を食べ、私がアイロンをかけたシャツに袖を通した隆臣くんが、私の作ったお弁当箱を通勤用カバンに入れながら、私に向かって言った。真正面から私に不機嫌を投げつけるみたいに太々しく。
私は洗い物の手を止めて、俯いたまま手についた泡を見つめる。
「昨日も言ったけどさ、最近の俺は愛花に大事にされていないように思う」
「………………は?」
「そりゃあ翠のお世話があるわけだし、全部が今まで通りとはいかないだろうけど。それにしたって、俺のことを雑に扱いすぎじゃないか?」
「……そうかな?」
「そうだろ!だってご飯は手抜きだし、弁当も冷凍食品とか昨日の残り物ばっかだし、風呂入る時にパジャマ用意してくれないし!」
「……そう」
「昨日だってせっかく洗い物してやったのに、愛花からはありがとうの一つも出てこない!」
隆臣くんは駄々をこねる子どもみたいに、私を睨みつけて声を荒げた。
その瞬間、プツンと何かが切れた。
「うっせぇんだよ!!」
私は手に持っていた泡まみれのスポンジを隆臣くんに投げつけた。隆臣くんのスーツには洗剤の泡がベッタリとついた。
隆臣くんは何をするんだよと怒鳴る。ベビーベッドでご機嫌にしていた翠は、大きな声に驚いて泣き出した。
赤ちゃんとはいえ、子どもの目の前で喧嘩なんて良くない。絶対にしてはダメ。
わかっているのに、私はもう止まることができなかった。
「大事にされてない?蔑ろにされてる?それはこっちの台詞だわ!!毎日毎日、赤ちゃんのお世話しながら家事をこなして、クソババアの相手をして!そうやって日中頑張ってるのに、少しデリバリーに頼っただけで手抜きだぁ!?ふざけんじゃないわよ!文句あるなら飯くらい自分で作れ!パジャマくらい自分で用意しろ!感謝されたいなら最低限、自分のことくらい当たり前に自分でできるようになってから言えよ、この無能が!!何の役にも立たないくせに完璧を求めてくんな!」
溜まりに溜まったものが全部溢れ出た。火山が噴火したかのように、言葉が溢れて止まらない。
溢れ出た言葉はそのまま隆臣くんを飲み込んでいく。
「集めたゴミをゴミ捨て場に移動させただけで感謝を求めてくんな。自分が使った食器を洗っただけで感謝を求めてくんな。当たり前のことして感謝してもらえるのなんて、小学生までなのよ!!」
「なっ!?そこまで言うことないだろ!」
「うるさい、だまれ!家事もしない、育児もしない、仕事しかしない父親なんてATMと変わらないわ!私は……、私は一緒に親になる気のない父親なんていらないのよ!!」
いらない。こんなやつ、いらない。捨ててやる。
「隆臣くんなんて、大っ嫌いよ!!」
私は翠を連れ、寝室へ立て篭もった。
すぐに隆臣くんが追いかけて来たが、私は無視して鍵を閉めた。
仕事しかできないならせめて仕事くらいは遅刻せずに行きやがれ、馬鹿野郎。
そう叫んでやると隆臣くんは『今夜覚えてろよ!』と漫画に出てくる小悪党の捨て台詞のような台詞を吐いて、家を出て行った。
急に静かになる室内。
肩で息をする私にさっきまで泣いていた翠が小さな手を伸ばす。
「慰めてくれるの?」
そんなわけないのに。赤ん坊がそんなことするわけないのに。ただの偶然なのに。
私には何故か、翠が私を慰めてくれているようにしか思えなかった。きっと、もう末期だ。
「翠……。ごめ、ごめんね……。ごめんね」
そこから私は、翠を抱きしめたまま堰を切ったように泣いた。
ちょっと今、猛烈に死にたいかもしれない。……死なないけど。




