表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 七瀬菜々
case2:木原愛花

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/26

8:失言(2)

 

「え、これだけ?」


 その日の夜。強い雨が降る中、びしょ濡れで帰宅した隆臣くんはテーブルの上に置かれたお弁当を見て、不満げにそう言った。


「あー……、あずさにギフト券もらってさ。美味しいらしいよ」


 私はお疲れ様のビールをお弁当の横に並べて、彼がソファに投げ捨てたバスタオルを回収する。


「いや、そういうことを言ってるんじゃなくてさー?」

「……」

「俺は愛花の愛情がこもった手料理が食べたいの!それなのに最近はずっと手抜き料理でさ。焼きそばとかチャーハンとか、唐揚げとサラダだけとか。昔と比べて品数もレパートリーも少ないし。挙句、今日は弁当って。流石に俺を蔑ろにしすぎじゃない?」


 ドカッとダイニングチェアに腰掛け、冷えたビールの缶を開けながら、隆臣くんは唇を尖らせて私をちらりと見た。

 この顔は別に本気で怒ってる顔じゃない。私がひと言謝れば、「いいよ」と笑いながら両手を広げて私が飛び込んでくるのを待つパターンのやつ。そして私は隆臣くんの腕に飛び込み、大好きなキスをして仲直りする流れのやつ。

 でも、私はどうしても謝ることができなくて、洗面所に向かうフリをして彼に背中を向けた。


「……ねえ、愛花。聞いてる?」


 いつもと違い、謝らない私に隆臣くんは露骨に苛立った。


「愛花?」

「聞いてるよ」

「だったらひと言謝るなりしたら?俺は愛花の里帰り中はずっとお弁当で()()()()()んだよ?さすがに可哀想だと思わない?」

「我慢……」

「まあ今日は美味しそうな弁当だから()()けどさー」

「……っ!?」


 言い方が少しキツいのは、ただ突然の豪雨でお気に入りのブランドスーツが濡れたせい。少し機嫌が悪いだけ。

 そもそも、実際に手抜きであることに変わりはないし、この発言に私が腹を立てるのはおかしい。

 だけど……、


(手抜きって何?我慢って何?許すって何?)


 私は謝らなければならないようなことをしただろうか。

 いつもなら、思っていなくてもすんなりと出てくる「ごめん」が、今日は喉の奥につっかえて出てこない。

 

「……私、ちょっと頭が痛いからしばらく横になるね。その間、翠をよろしく」

「え?ちょっと……!」

「落ち着いたらすぐ戻るから」


 私は、困惑する隆臣くんを無視して寝室に駆け込んみ、鍵を閉めた。そして頭から布団を被り、目を閉じて耳を塞ぐ。

 

「もう、やだ……」


 あずさはきっと全部わかってたのだろう。私が家事と育児に追われる生活に限界を感じていることも、隆臣くんが家事を全くしないことも、全部見抜いていた。

 だから、惣菜屋のギフト券を用意していた。

 

「メッセージでも、愚痴を言ったことなかったのになぁ」


 どうしてわかるんだろう。隆臣くんは全然気づいてくれないのに。


 

 *



「愛花ー、翠が泣いてるよー?」


 10分ほどすると、隆臣くんが寝室の前までやってきた。リビングの方からは翠の泣き声がする。


「愛花。起きてる?翠、なんか匂うし、オムツかも」

「……」

「おーい。開けるぞ……、って鍵かかってんじゃん」


 隆臣くんはチッと舌を鳴らして、ドアノブをガチャガチャの雑に回し、乱暴に寝室の扉を叩く。

 私はその行為に強い嫌悪感を覚えた。


「愛花!起きろって!翠が泣いてる!可哀想だろ!?」


 大きな声で私を呼ぶ隆臣くん。


(可哀想だと思うなら自分でどうにかすればいいのに)


 私は特大のため息と一緒にモヤモヤを吐き出したあと、ようやくベッドから降り、笑顔を貼り付けて寝室の鍵を開けた。


「あ、出てきた。寝てた?」

「……うん。少し」

「寝るのはいいけど、鍵かけるのはやめてよ。翠もいるんだし。何かあったら困るじゃん」

「……うん。そうだね」

「どした?なんか疲れてる?」

「少しだけ」

「そっか。そういえば今日、先生たち来たって言ってたっけ」

「うん。まあ」

「来客あると、楽しいけどちょっと疲れるよなー。わかるわかる」

「……」

「じゃあ愛花はもう休むといいよ。翠と一緒に寝たら?」

「……一緒に」

「ん?」

「いや、なんでもない。じゃあそうさせてもらおうかな。まだ早い時間だけど、今日はこのまま翠とお風呂入って寝るね」

「うん!それがいいよ」


 隆臣くんは“妻を気遣う優しい俺”に酔っているかのような、腹立たしい顔をして私の頭を撫でた。

 私はその手をさらりと交わし、リビングに行くと翠のオムツを変え、そのまま風呂場に向かう。


「じゃあ隆臣くん。私はお風呂から上がったらそのまま寝るから、晩御飯の後片付けだけよろしくね。まだもう少しお酒飲んだりするでしょう?」

「えー、俺が片付けするの?」

「……じゃあいい。何もしなくていいよ。明日するから、せめて食器は水につけといて」

「仕方ないなぁ」

「……仕方ないって」


 思わず乾いた笑みが溢れる。

 仕方ないってなんだ?意味がわからない。

 私はこれ以上会話すると、暴言を吐いてしまいそうな気がして急いで風呂場に行き、扉の鍵をかけた。

 

「ふ、ふぇ。ふえぇ」

「ああ!ごめんね、翠ちゃん。ヨシヨシ。さあ、お風呂入ろっかー」


 私は翠をあやしながら彼女の服を脱がせつつ、自身も急いで服を脱ぐ。

 そして浴室の扉を開けて、お湯の温度を確かめ、風呂用のベビーチェアをシャワーで温め、翠を抱き上げてお風呂に入る。

 お風呂に入るだけでもこんなに忙しない。

 子どもが産まれるまでは、飲み物を持ち込んで、美容に良い入浴剤入れて、ゆったりと1時間ほどの半身浴を楽しんでいたというのに……。今はもう自分なことなど後回しで、クレンジングも洗顔も、シャンプーもトリートメントも全部適当。

 お風呂から上がっても、自分の体を拭くより先に娘の体を拭いて、保湿をして。私は申し訳程度に体を拭いたら、服を着て頭にタオルを巻いて、オールインワンの化粧水を雑に塗りたくる。

 まともにスキンケアをする余裕もないから、肌は以前に比べてだいぶ荒れた。

 

「……うわぁ」

 

 鏡に映る自分を見て、ため息をついた。

 乾燥した肌。艶の泣いた唇にボサボサの髪。なんて見窄らしいんだろう。

 

 

 *



「ダメだなぁ、私は」


 多分、私には覚悟が足りていなかった。

 母親になる覚悟がちゃんとできていなかった。


「ごめんね、翠ちゃん。こんな、どうしようもないママで」


 寝室でミルクを飲みながらウトウトする娘を見下ろす。

 力尽きたかのように哺乳瓶から口を離し、スースーと寝息を立てる翠を私はギュッと抱きしめた。


「ごめん。ごめんね……」


 確かに娘は可愛いし、娘のためならなんでもできると自負してる。愛おしいと思うし、自分よりも大切な存在であることに変わりはない。

 けれどたまに、ふと思うことがある。

 

 この子さえいなければ、って。


 最低だ。こんなことを思うなんて、私は本当に最低な母親だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ