8:失言(2)
「え、これだけ?」
その日の夜。強い雨が降る中、びしょ濡れで帰宅した隆臣くんはテーブルの上に置かれたお弁当を見て、不満げにそう言った。
「あー……、あずさにギフト券もらってさ。美味しいらしいよ」
私はお疲れ様のビールをお弁当の横に並べて、彼がソファに投げ捨てたバスタオルを回収する。
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくてさー?」
「……」
「俺は愛花の愛情がこもった手料理が食べたいの!それなのに最近はずっと手抜き料理でさ。焼きそばとかチャーハンとか、唐揚げとサラダだけとか。昔と比べて品数もレパートリーも少ないし。挙句、今日は弁当って。流石に俺を蔑ろにしすぎじゃない?」
ドカッとダイニングチェアに腰掛け、冷えたビールの缶を開けながら、隆臣くんは唇を尖らせて私をちらりと見た。
この顔は別に本気で怒ってる顔じゃない。私がひと言謝れば、「いいよ」と笑いながら両手を広げて私が飛び込んでくるのを待つパターンのやつ。そして私は隆臣くんの腕に飛び込み、大好きなキスをして仲直りする流れのやつ。
でも、私はどうしても謝ることができなくて、洗面所に向かうフリをして彼に背中を向けた。
「……ねえ、愛花。聞いてる?」
いつもと違い、謝らない私に隆臣くんは露骨に苛立った。
「愛花?」
「聞いてるよ」
「だったらひと言謝るなりしたら?俺は愛花の里帰り中はずっとお弁当で我慢してたんだよ?さすがに可哀想だと思わない?」
「我慢……」
「まあ今日は美味しそうな弁当だから許すけどさー」
「……っ!?」
言い方が少しキツいのは、ただ突然の豪雨でお気に入りのブランドスーツが濡れたせい。少し機嫌が悪いだけ。
そもそも、実際に手抜きであることに変わりはないし、この発言に私が腹を立てるのはおかしい。
だけど……、
(手抜きって何?我慢って何?許すって何?)
私は謝らなければならないようなことをしただろうか。
いつもなら、思っていなくてもすんなりと出てくる「ごめん」が、今日は喉の奥につっかえて出てこない。
「……私、ちょっと頭が痛いからしばらく横になるね。その間、翠をよろしく」
「え?ちょっと……!」
「落ち着いたらすぐ戻るから」
私は、困惑する隆臣くんを無視して寝室に駆け込んみ、鍵を閉めた。そして頭から布団を被り、目を閉じて耳を塞ぐ。
「もう、やだ……」
あずさはきっと全部わかってたのだろう。私が家事と育児に追われる生活に限界を感じていることも、隆臣くんが家事を全くしないことも、全部見抜いていた。
だから、惣菜屋のギフト券を用意していた。
「メッセージでも、愚痴を言ったことなかったのになぁ」
どうしてわかるんだろう。隆臣くんは全然気づいてくれないのに。
*
「愛花ー、翠が泣いてるよー?」
10分ほどすると、隆臣くんが寝室の前までやってきた。リビングの方からは翠の泣き声がする。
「愛花。起きてる?翠、なんか匂うし、オムツかも」
「……」
「おーい。開けるぞ……、って鍵かかってんじゃん」
隆臣くんはチッと舌を鳴らして、ドアノブをガチャガチャの雑に回し、乱暴に寝室の扉を叩く。
私はその行為に強い嫌悪感を覚えた。
「愛花!起きろって!翠が泣いてる!可哀想だろ!?」
大きな声で私を呼ぶ隆臣くん。
(可哀想だと思うなら自分でどうにかすればいいのに)
私は特大のため息と一緒にモヤモヤを吐き出したあと、ようやくベッドから降り、笑顔を貼り付けて寝室の鍵を開けた。
「あ、出てきた。寝てた?」
「……うん。少し」
「寝るのはいいけど、鍵かけるのはやめてよ。翠もいるんだし。何かあったら困るじゃん」
「……うん。そうだね」
「どした?なんか疲れてる?」
「少しだけ」
「そっか。そういえば今日、先生たち来たって言ってたっけ」
「うん。まあ」
「来客あると、楽しいけどちょっと疲れるよなー。わかるわかる」
「……」
「じゃあ愛花はもう休むといいよ。翠と一緒に寝たら?」
「……一緒に」
「ん?」
「いや、なんでもない。じゃあそうさせてもらおうかな。まだ早い時間だけど、今日はこのまま翠とお風呂入って寝るね」
「うん!それがいいよ」
隆臣くんは“妻を気遣う優しい俺”に酔っているかのような、腹立たしい顔をして私の頭を撫でた。
私はその手をさらりと交わし、リビングに行くと翠のオムツを変え、そのまま風呂場に向かう。
「じゃあ隆臣くん。私はお風呂から上がったらそのまま寝るから、晩御飯の後片付けだけよろしくね。まだもう少しお酒飲んだりするでしょう?」
「えー、俺が片付けするの?」
「……じゃあいい。何もしなくていいよ。明日するから、せめて食器は水につけといて」
「仕方ないなぁ」
「……仕方ないって」
思わず乾いた笑みが溢れる。
仕方ないってなんだ?意味がわからない。
私はこれ以上会話すると、暴言を吐いてしまいそうな気がして急いで風呂場に行き、扉の鍵をかけた。
「ふ、ふぇ。ふえぇ」
「ああ!ごめんね、翠ちゃん。ヨシヨシ。さあ、お風呂入ろっかー」
私は翠をあやしながら彼女の服を脱がせつつ、自身も急いで服を脱ぐ。
そして浴室の扉を開けて、お湯の温度を確かめ、風呂用のベビーチェアをシャワーで温め、翠を抱き上げてお風呂に入る。
お風呂に入るだけでもこんなに忙しない。
子どもが産まれるまでは、飲み物を持ち込んで、美容に良い入浴剤入れて、ゆったりと1時間ほどの半身浴を楽しんでいたというのに……。今はもう自分なことなど後回しで、クレンジングも洗顔も、シャンプーもトリートメントも全部適当。
お風呂から上がっても、自分の体を拭くより先に娘の体を拭いて、保湿をして。私は申し訳程度に体を拭いたら、服を着て頭にタオルを巻いて、オールインワンの化粧水を雑に塗りたくる。
まともにスキンケアをする余裕もないから、肌は以前に比べてだいぶ荒れた。
「……うわぁ」
鏡に映る自分を見て、ため息をついた。
乾燥した肌。艶の泣いた唇にボサボサの髪。なんて見窄らしいんだろう。
*
「ダメだなぁ、私は」
多分、私には覚悟が足りていなかった。
母親になる覚悟がちゃんとできていなかった。
「ごめんね、翠ちゃん。こんな、どうしようもないママで」
寝室でミルクを飲みながらウトウトする娘を見下ろす。
力尽きたかのように哺乳瓶から口を離し、スースーと寝息を立てる翠を私はギュッと抱きしめた。
「ごめん。ごめんね……」
確かに娘は可愛いし、娘のためならなんでもできると自負してる。愛おしいと思うし、自分よりも大切な存在であることに変わりはない。
けれどたまに、ふと思うことがある。
この子さえいなければ、って。
最低だ。こんなことを思うなんて、私は本当に最低な母親だ。




