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  作者: 七瀬菜々
case2:木原愛花
19/26

6:理想と現実(2)

 まだまだ終わる気配のない夏の終わり頃、私はいろんな不安を抱えたまま出産した。

 初産なのに陣痛開始から4時間ほどで出産できたのは、お腹の中の赤ちゃんが思ったよりも小さかったからだろう。

 私の胎から出てきたのは、2360gの女の子。お腹の中で臍の緒が3回も体に巻きついていたせいで、小さかったらしい。

 

『木原さん、お疲れ様。ほら、元気な女の子ですよ』


 諸々の処置が落ち着いた頃、助産師さんがそっと、我が子を私の胸の上に置いてくれた。

 泣いてるつもりはないのに、私の目からは自然と涙が溢れた。

 悲しくて涙が出ているわけじゃない。でも、嬉し泣きともまた違って……。ただただ愛おしさだけが、私の中から溢れ出た。

 

『隆臣くん、見て。ほら、私たちの赤ちゃん』


 私はこの愛おしさを誰かと分かち合いたくて、分娩室に入って以降、その存在をすっかり忘れいたていた隆臣くんに視線を向けた。

 すると、隆臣くんは不貞腐れた顔で私を見下ろしていた。


『立ち会いなんかするんじゃなかった。愛花、全然俺の声聞いてなかったじゃん。せっかく励ましてやったのに』


 一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。確かに、お産に集中していたせいで隆臣くんの声は聞こえていなかった。何なら存在自体を忘れていた。それは悪いと思ってる。

 でも、だからって不貞腐れるのは違うだろう。私は不安と痛みを抱えながら、命懸けで貴方ほ子どもを産んだのに。

 私はギリッと奥歯を噛み締めた。怒りで頭の血管がキレそうになる。今まで積み重ねてきた不満が一気に爆発しそうだ。

 けれど気がつくと私は、溢れ出そうになる言葉を喉を鳴らして唾と一緒に飲み込んでいた。


『……ごめんね、いっぱいいっぱいで』


 私はいつものように笑って謝った。

 悪くないのに謝るの、もう癖になってしまっているな。


 *


 その後、(みどり)と名付けた娘はすぐに保育器に入れられた。

 保育器の中にいる我が子を見た時は不安で胸が押しつぶされそうになったが、先生曰く、体に問題はないが念のため入れているだけだとのことだった。

 翠は看護師さんがびっくりするほど勢いで母乳を飲む子で、退院して1週間後にはすっかり丸くなっていた。

 

 産後は里帰りをした。隆臣くんの仕事が繁忙期で、手伝いをあてにできないからだ。

 実家で母の手を借りながら、手探りで始めた子育て。戸惑いながらも、余裕を持って子育てができたのは、翠がよく眠る子だったからだろう。


 私は日々変化する翠の様子を写真に収め、その都度隆臣くんに送った。

 隆臣くんは残業がない日は必ず私の実家に寄ってくれて、翠を抱っこしてくれた。

 産後のあの言葉もあり、彼の父性が芽生えるかどうかを心配していたが、予想に反して愛おしそうに翠を見つめる彼の姿に、私は心の底から安堵した。

 この人とならきっと幸せな家庭を築いていける。そう思っていた。


 けれど、その希望は里帰りを終えてすぐに打ち砕かれた。


「何、これ……」


 久しぶりの帰宅。そこで見たものは、ゴミ屋敷と化した我が家だった。


「ごめんごめん。最近忙しくてさー」


 ヘラヘラと笑って言い訳をする隆臣くんに、私はスーッと気持ちが冷めていくのを感じた。

 まだ出産の傷が癒えない体で片付けを始めた私に、隆臣くんは『()()()()』と言った。

 手伝うって何?お前の不始末だろうが。

 そう言ってやりたかった。でも私はまた、言葉を飲み込み、ありがとうと言った。



 *


 

 自宅に戻ってきてからすぐに、私の地獄は始まった。

 まず翠が寝てくれなくなった。

 生後3週間目までは夜中に起こして授乳しないといけないくらい、よく寝る子だったのに。翠はいつのまにか昼夜逆転の生活を送るようになった。

 すると当然、母である私も寝れないわけで。この頃から私は慢性的な寝不足に悩まされるようになった。

 昼間に翠と一緒に寝れたら良かったのだが、週に何度も義母がアポなしで尋ねてくるのでそれも出来ず。さらに義母は少しでも掃除や料理をサボると怒る人だから、家事に手を抜くことさえも出来ず。

 まさに八方塞がりな状況に陥っていた。


「お義母さんに訪問の頻度を減らすよう言ってほしい」


 限界を迎えた私は隆臣くんに相談した。

 なるべく婉曲な表現を用いて、私は今の自分の状況と精神状態を隆臣くんに伝えた。彼が私の気持ちに寄り添ってくれると信じて。

 しかし、隆臣くんはやはり隆臣くんだった。


「でも母さんだって嫌がらせで口を出してきてるんじゃないと思うよ?ただ愛花のためを思って言ってくれてるんだ。だからそんな風に邪険にしないで欲しいんだけど」


 自分の母親の好意を煩わしく思う妻に苛立っているのだろう。隆臣くんは眉を顰めて、私に我慢するように言った。

 もしかしたら私は、初めから彼を信じてなどいなかったのかもしれない。心のどこかで、やっぱりな、と思う自分がいた。

 

 家事も育児も、何もしてくれないくせに。

 全部私に押し付けて、自分は何も変わらない生活を続けているくせに。

 自分の母親にひと言『来るな』と言うことすらも出来ないのか。


「役立たず」


 私は隆臣くんを睨みつけ、もういいと話を終わらせた。

 こういう時、いつもならすぐに謝ってご機嫌を取ろうとしてくる私がそうしなかったことに、隆臣くんは目を丸くした。

 でも悪いけどもう、大人の男のご機嫌を取っている余裕などない。私がご機嫌を取らなきゃならない相手は他にいる。


 私は呆然とする隆臣くんをリビングに残し、翠を抱きしめてお風呂へと逃げた。


「はあ……」


 翠を抱いたまま湯船に浸かり、ため息をつく。

 体を綺麗に洗ってもらいご機嫌な翠は、私の顔を見てニコッと笑った。

 いつもこの笑顔に癒される。イライラすることがあっても、翠が笑ってくれたらその一瞬だけは全てがどうでも良くなる。様々なストレスから解放される。


 けれど所詮、それは一瞬だけのこと。

 

 眠れないストレス。

 義母の襲来によるストレス。

 役に立たない夫へのストレス。


 積み重なったストレスで心の受け皿はもうすでに許容量をオーバーしている。いつ決壊するかわからない。

 

「わかっているのにな……」


 もう限界だと自覚しているのに、それでも嫌われるのが怖くてパートナーに強く言えない。そんな自分が嫌い。


 

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