11:花を手折る side聡
どんなわがままも無茶振りも笑顔で受け入れてしまうところが怖い。
優しいくせに、言葉にしないとこちらの気持ちをまるで察してくれない鈍感さが嫌。
でも何より、優しいあなたに怒ってしまう自分が嫌。
あなたといると、自分の器の小ささが露呈して惨めな気持ちになるの。
いつも、そう言われてフラれる。
あの日もそうだった。3年付き合って、結婚も考えていた彼女に突然フラれた。
しかも、よりによって仕事のある日の昼休みに。電話で、だ。
流石に思いやりがなさすぎるだろうと思いつつも、俺は特に縋ることもせず、『わかった』とだけ返事をして電話を切った。そして仕事とプライベートの切り替えが出来ないまま、会社の目の前にある行きつけのラーメン屋の暖簾をくぐった。
よくある街のラーメン屋。安い早い美味いがウリの古びた店だ。
『いらっしゃい!』
元気の良い挨拶と共に花が開くような満面の笑みで出迎えてくれたのは、最近働き始めたという女子大生だった。
人目を引くほどの美人というわけではないが、その愛嬌のある笑顔に俺はうっかり癒されてしまった。
別に一目惚れというわけではない。12も年下の女の子だ。それはあり得ない。
ただ多分、あの時は心身ともに疲れていたのだろう。
気がつくと俺は癒しを求めて、彼女がシフトに入っているという月曜日と木曜日だけラーメン屋に通っていた。
その結果……、
『冴島くん、なんか太った?』
ラーメン屋の大将に言われた。俺はギクっとした。そりゃあ、3ヶ月もほぼ週二でラーメンを食べていれば太る。
大将は笑顔で誤魔化す俺に、ニヤニヤとした笑みを浮かべて耳打ちした。
『気になる子でもおるんか?』
どの子や?と聞く大将はとても悪い顔をしていた。
月・木でいるアルバイトは60手前のパートの主婦かあの女子大生しかいない。
俺は分かりきった質問をしてくる大将を睨んだ。
『あの子、3月までの短期やで。今大学の4年生でな、もう単位も取り終えてるからって昼間も働いとるねん』
『……へぇ』
『真面目で仕事の覚えも早いし、愛想もええしよく気がつくし。めっちゃえー子やで?』
『俺は別にそんなんじゃ……』
『週二でラーメン食べに来とって何を言うとるねん!』
『うう……』
『とりあえず話しかけな。このままやと、何の成果も得られずただ不健康な体が手に入るだけやで?30越えたら代謝も落ちとるやろ』
『まあ……』
『年齢差を気にしとるんかもしれんけど、歳とればそんなん気にならんくなるわ。やった後悔よりやらなかった後悔のが残るぞ!』
大将は行け、と背中を押してくれた。
俺はもうヤケクソになって、その日の会計の時、彼女に連絡先を渡した。
彼女は嫌な顔ひとつせずに連絡先が書かれたペーパーナプキンを受け取ってくれた。
それが、あずさとの関係の始まりだった。
今思うとそれまで、大将を挟んでの会話しかしたことのない年上のサラリーマンに連絡先を渡されるなんて気持ち悪いことこの上なかっただろう。
けれど、あずさはその日の夜には連絡をくれた。
初めて彼女からメッセージをもらった時、無意識に顔がニヤけた。自分で思っていたよりもずっと、彼女に恋をしていたのかもしれない。
それから俺はラーメン屋に通う頻度を減らした。通わなくても会える手段を手に入れたからだ。
俺はしつこく思われない程度にデートに誘った。行き先は定番の映画や美術館、植物園などが多かった。
あずさはテーマパークなどの人が多く騒がしいところは苦手らしく、穏やかに過ごせる場所を好んだ。
あずさと過ごす時間はとてもゆっくりと流れた。俺は彼女の声や話す速度、朗らかな性格と愛嬌のある笑顔。その全てに惹かれていった。
そうして何回かデートを重ね、その年の冬。俺はあずさに告白した。
返事はまさかのOKだった。ダメ元で言ったのに付き合ってもらえるとは思っていなかった。
大将に付き合えたことを報告すると、彼はとても喜んでくれ、ラーメンを一杯ご馳走してくれた。
彼女が出来たことは親や友人にも報告した。
友人らは相手が12歳年下の女子大生と知ると羨望の眼差しを向けつつ、犯罪者だと揶揄ってきた。
一方で両親、特に俺の母親はあずさに結婚する気があるのかをとても心配していた。
確かに俺自身は結婚を意識してしまう年齢だ。だが相手はまだ大学も卒業していない学生。結婚を急かすのはどうなんだろう。
俺は悩んだ末、結婚も視野に入れた付き合いをしたいという自分の気持ちだけは伝えておくことにした。
安い大衆居酒屋でのこと。結婚なんて重いと思われないかとビクビクしながら話した俺に、あずさはケロッとした顔で言った。
『卒業したら籍入れる?』
まさかの返答だった。年若い、まだまだ遊びたい盛りの女の子がこうもあっさり結婚に応じてくれるとは思わなかった。
あの時の俺は、顔がニヤけるのを隠すのに必死だった。内心ではすぐに婚姻届を取りに行きたいくらい浮かれていた。
けれど、流石にそんなことはできない。
もしかしたら仕事が楽しくなって、結婚への気持ちが薄れるかもしれない。もしかしたら会社で素敵な出会いがあるかもしれない。
俺のわがままで若い女の子の未来を奪い合ってはいけない。
俺は理解ある大人の男の顔をして、
『卒業して社会に出たらまた気持ちも変わるかもしれないから今すぐじゃなくていい』
と返した。
あずさは卒業後、一年前の春には内定が決まっていた会社に就職した。
そこは彼女の話を聞く限り、絵に描いたようなブラック企業だった。
会うたびにやつれていく彼女の姿に、俺は困惑した。
そんな会社、辞めればいい。そう思った。
けれど、まだ入社したばかりの、もっと頑張らなくてはと意気込んでいる彼女にそれは言えなかった。
そんな矢先のこと。
『取引先にびっくりするくらいのイケメンがいるの』
彼と話すのが最近の癒しだ。あずさはそう言って笑った。
それは久しぶりに見た、彼女の笑顔だった。
俺が一目惚れしたあの時と同じ、花開くような、あの笑顔だった。
俺はこの時はじめて、自分の中に嫉妬心というものがあることを知った。
今までの恋人には抱いたことのない感情で俺の心は埋め尽くされた。
大人のフリをして余裕ぶって、気づいていなかった。
誰かに取られるかもしれないという可能性。
だから怖くなった俺はあの日、避妊を拒むあずさの言葉に乗っかった。
大人として、毅然とした態度で接するべきだったのに。俺は姑息な手で彼女を手に入れようとした。
結果、妊娠が発覚した。
病院でもらったエコー写真を見せられた時、俺の心はあずさを手に入れられた安堵感と彼女の未来を奪った罪悪感でぐちゃぐちゃになった。
妊娠と結婚の報告をした時、両親にはかつてないほどに怒られた。
良い大人が何をしているのだと。順番も守れないのかと。
本当に、その通りだと思った。
妊娠がわかってからのあずさはつわりで苦しみながら、仕事に行った。
つわりが重く、周囲に配慮してもらうためには妊娠したことを報告せざるを得ない状況だった。
入社半年での妊娠の報告。あずさが会社でどんな扱いを受けているのかは想像に容易かった。それなのに俺は苦しむ彼女に何もしてあげられなかった。
そうして時間だけが流れたある日。あずさは強い腹痛を訴えた。
急いで病院に駆け込んだ。
診断の結果は、流産だった。
俺たちの子は、あずさの血と涙と共に外へと流れ出た。
あの時のあずさの姿は今でも忘れられない。
彼女は無表情で声を上げることもなく、ただ静かに涙を流していた。
それからのあずさはご飯を食べなくなった。趣味の読書をしなくなり、映画も見なくなった。好きな音楽をかけても、好きなイチゴを目の前に置いても反応しなくなった。
笑わなくなった。
このままでは壊れてしまう。そう思った俺はあずさにそのまま退職することを勧めた。
そうしてあずさは専業主婦になった。
家にいることで心を休めることができたのか、あずさは徐々に笑顔を取り戻していった。以前のように朗らかに笑う彼女の姿に心から安堵した。
きっとこのまま、結婚前のような穏やかな日々を取り戻せるのだろう。あの時の俺は勝手にそう思っていた。
けれど、現実はそう甘くはなかった。
あずさはそれから、続けて2回も流産した。
3度目の流産のとき。手術をした。
掻爬手術。文字通り、胎に残った赤ちゃんを子宮から掻き出す手術だ。
あずさはあの日、赤ちゃんと一緒に自分の心も無くした。
『しばらくはやめよう』
俺は妊活の中断を決めた。遅すぎる選択だった。
あずさは適応障害と診断された。