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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

聖女失格の私へ

「セーラ。君は聖女に相応しくない。今この場で君との婚約を破棄する。これで、君との縁も終わりだ」

「セーラ。貴女がしてきたことは絶対に忘れないわ。さっさと消えてちょうだい。この場に貴女はいらないのよ」


 目の前で引導を渡してきたのは、婚約者と、親友だ。

 私はセーラ。公爵令嬢の身でありつつ聖女として見出され、第二王子ランベールと婚約し、辺境伯の令嬢リリアナと仲良くして、悠々自適に学園生活を送ってきた。

 だがそれも過去の話。二人は私と対峙して、大衆の面前で私との絶交を宣言した。

 どうしてそんなことになったのか。私にはまるで心当たりがない。

 二人の変貌に内心焦りながら言葉を紡ぐ。


「一体なぜ」

「聞こえなかったのか?立ち去れと言っているんだ」

「これ以上、貴女の顔も見たくないの。さあ、背を向けて、そのドアから出て行きなさい」

「理由も分からずそんなことできるわけないでしょう?私が何をしたと言うの。謂れのない罪を被って出ていけというの?」

「…貴女が何をしたか。本当は分かっているんでしょう?」


 不意にリリアナが声を震わせた。

 だが、それも一瞬のこと。幻かのように元の険しい顔に戻る。


「言われないと分からない?私は貴女のことが嫌いなの。ランベールもそう。いいえ、この場にいる全員がそうよ」


 まさかと周囲を見渡せば、見覚えのある彼らは一様に私を刺々しい眼差しで見つめていた。


「あんたのせいで俺たちは」

「さっさと消えろって言ってんだろ!」

「役立たずの聖女め!」


 心当たりはない。けれど、言葉の一つ一つが胸を抉る。私は思わず両手を握りしめ身を縮める。

 その場にいるのは、学園の生徒たち。衛兵たち。それと、何度か会ったことのある、近隣の住人たちだ。

 …どうしてそんな面々がこのフロアにいるのだろう?

 私はさっきまで何をしていた?

 思い出せない。

 けれど、状況は進行していく。


「セーラ。これで分かっただろう。この場に君を聖女と認めるものはいない。大人しく身を引くんだ」

「…あなたにそんな権限はないでしょう、ランベール。聖女の指名は大神官様立ち合いの元、有力貴族の眼前で陛下によって行われる。それとも彼ら全員の署名でも持っているというの?」

「そんなものがなくても明白だ。君は、聖女に相応しくない」

「だから、どうしてそんなことが言い切れるのよ」

「疑問ならば自分の胸に問うてみるといい。そこに答えがあるはずだ」


 私が聖女に相応しくない理由。


 五歳になる時に、神殿で資格を見出された。神に祝福を授けられ魔物から国を守護する次代の聖女として、あるべく努力してきた。

 ランベールと出会ったのもその頃だ。彼は真面目で優しく、日々慣れない魔法の修行に苦悩する私を支えてくれた。

 リリアナと会ったのは、その五年ほど後だっただろうか。元々面識はあったけど、活発な彼女と仲良くなったのは、私が修行の一環で国境の結界に触れて自分でも防衛魔法に挑戦してみる、そんな時期だった。


 失敗もあったし、やめたいと思うこともあった。でも励ましてくれる人がいたから乗り切れて、任を達成し、聖女として相応だと指名をもらって、最後の猶予としてこうして学園にも通えている。


 決して、不仲ではなかった。

 原因が見当たらなくて声が詰まる私に、取り囲む彼らの野次が飛んでくる。


「いいから早く出てけよ!」

「そうだそうだ、あんたはここにいるべきじゃないんだ!」

「俺たちはあんたがいない方が助かるんだよ!」

「そうだそうだ、ランベールとリリアナだってあんたがいない方が喜ぶんだ!」

「そうそう、何せ二人は浮気してるからね!」

「えっ!?」

「えっ」

「えっ!」


 とんでもない告発に咄嗟に顔を上げて二人の姿を伺うと、ランベールは無表情、リリアナは大口を開けて凍りついていた。群衆もまた発言者を驚きの目で見つめ、犯人である近隣に住む女性は口を両手で塞ぎ「えっ今のダメなの」という体勢で止まっている。

 静まる会場で、ふう、といち早くランベールがため息をつく。


「聞かせないで行かせた方が幸せだったろうに」


 それは。

 私が、その事実を知ることなくこの場を出ていってほしかったと、そう言っているのか。


「…そんなこと、あるはず…」

「かかったわねアホが!そうよ!私とランベールは恋仲だったのよ!い、言うつもりはなかったけどこうなったら仕方ないわ!だから貴女が邪魔なの、分かった!?」

「…嘘よ…」


 だってそんなそぶり一度も。

 けれどランベールは冷たい表情を崩さないし、リリアナに至っては彼の肩に手を回して首を絞めている。

 …首?


 ふと、ある光景が目に浮かぶ。





 ランベールが首を噛み切られて頭部を失い血まみれで倒れていた。





 恐ろしい幻覚に、息が止まる。目を瞑って追い払う。

 いくら浮気されたからって凄惨な死を望むほど私は非道になれない。


「お、落ち込んでるみたいね!バーカ!バーカ!貴女はまんまと私たちに騙されてたのよ!分かったら見切りをつけてここから」

「関係ないわ」

「えっ」

「貴女がランベールと浮気していたからって。私が聖女に相応しくないからって。私がここを出ていく理由にはならない。むしろ、出ていくべきなのは貴女たちでしょう」

「…そうね。それができたらどれだけ良かったか」

「リリアナ」

「アッ」


 ランベールに咎められてリリアナが口に手を当てる。動揺しているのか彼女は忙しなく視線を巡らせている。しかし、それを見咎められたくないようで体は胸を張って堂々と居直っている。


 あの時もそうだった。


 無理やり私を立ち上がらせ、腕を掴み引っ張っていった彼女は凜とした態度を必死で保とうとしているように見えた。

 けれど結局彼女は。


「セーラ。ここに君の味方はいない。そこまで理解が鈍い君ではないはずだが」

「…嫌よ」

「セーラ」

「私は出て行かない。絶対に出て行くものですか。誰があなたたちを置いて一人で出て行くものですか。私はここにいるわ。何があっても、あなたたちが私を嫌っても、私を裏切っても、私はあなたたちを」

「セーラ、やめろ」

「私は絶対に―――!」






***


―――君が、聖女様?

―――いいえ、私はただの見習いよ。魔法も何も、使えないもん。

―――でも、一目見て分かったよ。君が聖女様だって。

―――本当?嬉しい。見た目だけでも近づけてるのね。私、立派な聖女になるわ。

―――君ならなれるよ、セーラ。私も、君に負けないように頑張らないと。


***






「セーラ。君との婚約を破棄する。愚鈍な君は気づいていなかっただろうが、私は君を愛していない。ここにいる彼女、リリアナを愛している」

「セーラ!私はランベールと愛し合っているの。貴女は邪魔なの!とっとと消えてちょうだい!」


 目の前で引導を渡してきたのは、婚約者と、親友だ。

 私はセーラ。公爵令嬢の身でありつつ聖女として見出され、王太子ランベールと婚約し、辺境伯の令嬢リリアナと仲良くして、悠々自適に学園生活を送ってきた。

 だがそれも過去の話。二人は私と対峙して、大衆の面前で私との絶交を宣言した。

 どうしてそんなことになったのか。私にはまるで心当たりがない。

 二人の変貌に内心焦りながら言葉を紡ぐ。


「嘘よ。リリアナが隠し事なんかできるはずないわ。そんなに器用じゃないでしょう」

「な…し、失礼ね!私だって頑張れば浮気の一つや二つ…!」

「その通り。リリアナが君を謀って裏で私と姦通できるはずがない」

「ちょ、ランベール!?なに言って」

「しかし。こうしてそのあり得ない事象をあえて宣言した意味を考えてもらおう」

「意味…?」


 大衆が黙って見守る中、ランベールは平静な態度を些かも崩すことなく淡々と連ねていく。


「私がリリアナと愛し合っているなどという妄言すら吐かなければならなかった理由。それほどに、君のことが嫌いで、君の顔も見るのが嫌で、馬鹿げた嘘に縋ってでも君を遠ざけたいと思っている。それならば理解できるだろう?」


 彼が、私を嫌っている。

 裏表のないリリアナと違って、彼は、内心を表に出すことをしない。もしかしたらその可能性もあるかもしれない。彼が私を嫌っていて、腹の底では嫌がりつつも私に良い顔を見せていた。

 理屈では通っている。

 でも。


「利点がない」

「何?」

「今ここでそれを宣言する利点がない。私は学園を卒業したら神殿に籍を置き、聖女として本格的に活動を始める。今婚約を破棄するよりも、聖女として働く私と生活を合わせず顔も合わせない仮面夫婦になる方があなたに利している」


 「…そうでしょう?」と聞けば、彼はしばらく沈黙してから首を振った。

 その仮面夫婦すら嫌なのだ、と。

 君と同じ空間にいることが耐えられないのだ、と低い声色で告げる。

 最後の言葉だけは嘘ではないと私には分かってしまった。

 彼は本気で、私と一緒にいることを拒んでいる。


 何故。


 分からない。思い出せない。

―――思い出してはいけない。


 私は目を瞑り、耳を手で塞いで、蹲る。

 何も聞こえないように。何も見ないように。

 暗闇に意識を落とす。






***


―――貴女が聖女?随分小綺麗なのね。

―――あなたは、戦士?

―――そうよ、よく分かってるじゃない。私は戦士。戦って守るのが仕事なの。

―――すごいわ。私、まだ見習いで治癒魔法も、結界も上手く使えないから、あなたみたいに実践できてる人、憧れる。

―――ま、まあ…私も見習いで実戦経験ないんだけど…未来はそうなる予定よ!

―――じゃあいずれ、私たちは同志になるのね。

―――そうね。一緒に国を守りましょう、セーラ。


***






「セーラ。いい加減に認めてくれ」

「セーラ。貴女は前に進まなきゃいけないの」


 目の前で引導を渡してきたのは、婚約者と、親友だ。

 私はセーラ。公爵令嬢の身でありつつ聖女として見出され、第二王子ランベールと婚約し、辺境伯の令嬢リリアナと仲良くして、悠々自適に学園生活を送ってきた。

 だがそれも過去の話。二人は私と対峙して、大衆の面前で私との絶交を宣言した。

 どうしてそんなことになったのか。私にはまるで心当たりがない。

 二人の変貌に内心焦りながら言葉を紡ぐ。


「何を言っているのか分からないわ」

「分からない振りをしているだけだろう」

「どういう意味なのか理解できない」

「もう時間がないのよ、セーラ。ここにいたら貴女まで取り返しがつかなくなる」

「そんなの、知らない!」






***


―――魔物って、そんなに怖いの?

―――怖いわよ。西の国は、急に出現した魔物の軍勢の侵攻を受けてたったの一日で壊滅したのよ。

―――セーラも私も、実際にはその姿を目にしたことがない。リリアナ、君は見たことがあるんだろう?

―――そうね。あれは、生き物というより…。

―――生き物、じゃなくて?

―――災害だわ。


***






「セーラ」

「セーラ」


 目の前で私の名を呼んで微笑んでいるのは、婚約者と、親友だ。

 私はセーラ。公爵令嬢の身でありつつ聖女として見出され、第二王子ランベールと婚約し、辺境伯の令嬢リリアナと仲良くして、悠々自適に学園生活を送っている。

 学園での生活も残り数ヶ月。その後は先代の聖女と任を交代し、神殿にて多くの神官と共に、国境に張り巡らされた結界を維持する役目を担う。

 幼い頃より定めとして提示されてきた仕事。不満もないし、異議もない。

 拘束される時間が長いとはいえ、代替となる神官が多数在籍してくれている以上、休息日も取れる。

 でも、今、こうして二人と四六時中一緒に過ごせる時間が惜しいのも事実だ。


「何よ、遠い目しちゃって」

「心配事でもあるのか?煩わせるものがあるならば明示してほしい」

「いいえ。ただ、ちょっと寂しくなってしまって。いつまでこんなにのんびりできるかしらって」


 柔らかい日の差す中庭で、ティーカップを傾けながら、二人は顔を見合わせる。次いで柔らかく笑う。


「セーラ。例え君が正式に聖女になっても私たちは―――」


 微かに、鐘の音が響いた。

 呆気に取られて空を見上げる。

 真っ黒な何かが、遠くの雲の切れ端に小さく見えた。


「え…」

「警鐘?」

「あれが鳴るの初めて聞いた」


 他にくつろいでいた生徒たちがざわめく。

 各地に設備されている警報の鐘。それが鳴らされるのは、よほどの事態でなければあり得ない。

 そしてそれが鳴らされた時、この学園は周辺の人々の避難場所となっている。

 私は二人を伴って学園の大人たちに指示を仰ぎに行く。場合によっては、私が防衛魔法で結界を張らなければならない。

 まだ警備拠点より情報の伝達はないらしい。各地の鐘の在処は水晶球を通じて繋がっている。しかし、何の通信もない。

 鐘も、最初の一回が鳴らされたきり、沈黙している。


 私は魔法を使うことにした。


 近隣の住人が荷物を持って避難してくるのを受け入れ、生徒たちが普段は集会に使う会場に集まり、一箇所に纏まったのを確認してから、私は学園の正門に膝をつき、大地に額を触れさせて、両手を組んで何百回と練習した詠唱を口にする。


 何の問題もなく、悪きものを弾く結界は学園を囲んだ。


「…何かあったのか…?」


 ぼんやりと霞む外の世界を見ながら、隣に立つランベールは掠れた声で呟く。

 分からない。何も。けれど、何か起こってからでは遅い。念には念を入れるべきだ。結界を張ったのは正しい判断のはずだ。例えば警備の誤作動で、特に何が起こったわけではなくて、私の先走りだったとしても、後から笑い話にでもしてしまえばいい。

 そもそも、国境には私一人が作り出したものなんかよりよっぽど強固な結界が張られている。魔物の侵入は不可能だ。

 だから多分、何か起こったとしたら、賊の一団に襲われたとか、他国に侵攻を受けたとか、そういう人為的なものに違いない。

 しばらくすれば通信が入り、情報が入るはずだ。


 そんな希望は。

 あっという間に現れた黒い影の集団によって容易く打ち砕かれた。


 生き物の形をしていた。

 狼とか、鳥とか、そういう動物の姿に似ていた。手も足もあるし爪も牙もある。

 ただ目がなかった。真っ黒な表皮に覆われた肉体を真正面に向けてがむしゃらに動かしている。

 たったの十数秒で、地平線にいた生き物たちは眼前に押し寄せた。

 結界によって、その直進は妨げられる。

 妨げられても、次々に生き物たちは見えない壁に体当たりを続け、前列の生き物を潰す勢いで迫り、それのみを目的としているように雪崩れ込み。


 ヒビが入った。


 あっさりと。割れた。


「セーラ!!」


 凍りつく私をランベールが突き飛ばす。

 声に反応したのか生き物が彼の喉に食いついた。

 そのまま頭部を食いちぎって、首を失った肉体がどさりと倒れた。


 私は尻餅をついて、金切り声を上げて彼の体に縋り付く。逃げ出そうなんて思いもせず、ただ彼の欠損した姿が信じられずに震えていた。

 生き物は、私の周辺に近づかなかった。何度か近寄ってくるものもいたが、すぐに顔を逸らして奥へ駆け出して行った。

 まるで私から嫌いな匂いでもしているかのように、彼らは私を無視した。


 大地を走り、空を飛び、視界を黒い影が際限なく埋め尽くす。

 背後から絶え間なく叫び声がしていた。

 私は動くこともできず、ただ彼の遺体を目に映しながら呆然と座り込むことしかできなかった。




「セーラ。無事だったのね」


 気づけば、リリアナが隣にいた。

 良かった、と片手で抱き締められる。

 ようやく、頭が追いついた。


「な、何、これ、何なの…何で!?」

「魔物が…攻めてきたのよ。いえ、攻めるというより…移動、かしら。道中の生物を喰らい尽くして…もう通り過ぎた。移動の後、魔物はしばらく眠る。その間に世界を助けなきゃ」

「助けるって、こんなの、どうしろって」

「魔物は進化する。絶対に破られなかった結界を、あらゆる生物を食って少しずつ力をつけて、破れるようになった。だからこっちも進化しなきゃ。結界の魔力をもっと変化させるの。進化した魔物を防ぐためのものに。やがてそれにも順応されるから、応じてこっちも変化させて」

「リリアナ、あなた、さっきから何を言っているの」


 私を片腕で抱きしめているのは、リリアナのはずだ。しかし彼女がこんな状況で、平静な口調で理解の及ばないことを喋る様には、違和感しかない。

 私はそっと、彼女の顔を覗き見た。


 目がなかった。

 彼女の顔は、首は、垂れ下がった左腕は、真っ黒だった。

 真っ黒な何かに覆われていた。


「…リ」

「大丈夫よ。貴女は聖女だから。魔物は襲わない。魔物は神に関わる聖なる力を嫌うの。だから私も大丈夫」

「何を」

「食ってやったわ。今際の際に。魔物の舌を。食いちぎってやった。そうしたらこうなったの。魔物も同族は食わないみたいね。一気に私に興味を失った。私もこんなに強くなって賢くなった」

「リリアナ」

「大丈夫よ。貴女は聖女だから。私は貴女を襲わない。だから、大丈夫。そうね。国の皆が魔物の肉を食べて、私みたいになれば、魔物の脅威もなくなるわね。それがいいわ。私なら魔物に気にされずに肉を剥げると思うの。早く皆に配らなくちゃ」

「お願い…もうやめて…」

「泣かないで。大丈夫よ。私は大丈夫。だから立って。皆を助けに行かないと。ね?」


 彼女は私の腕を掴んで、無理やり立ち上がらせる。そしてそのまま、ランベールに目もくれずその場を立ち去ろうと私を引っ張る。凛とした仕草はいつもの彼女のもので間違いない。けれどその心根が大きく変化してしまったのは明白だった。

 ランベールを置いて行けない。彼から目を逸らせない私を、リリアナは引きずる。


「リリアナ、待って…」

「貴女の肉ってどんな味がするのかしら」


 じっと。真っ黒な平面で彼女が私を見つめていた。口と思わしき隙間から歯が覗く。

 全身の毛が逆立つ。


「な」

「大丈夫。貴女は治癒魔法を使えるでしょう。すぐ治せるわ。死ぬまで食べたりしないもの。ねえ、構わないでしょう」

「や、やめて、そんな…」

「大丈夫。怖くないわ。痛くしないもの。そうと決まれば食堂に行きましょう」

「い、いや!」


 抜け出そうと身を捩っても、彼女の腕はびくともしない。

 進んだ距離の分だけ、戻ったところで、


「セーラ」


 唐突に彼女が立ち止まった。


「お願いがあるの。私に聖なる力を、治癒魔法を使って」

「そ、それは、いいけど」


 何か、違和感を覚えながらも、私は彼女の右腕に触れ、詠唱する。

 途端に彼女が叫び声を上げた。


「アアアアアアアアアアア!!」

「ひっ」

「やったわ!戻った!人間に戻れた!私は魔物なんかじゃない!私はリリアナ!魔物なんかじゃない!」


 両手をあげて喜ぶ彼女の黒い体には、何の変化もない。けれどすぐに倒れ伏した。


「ありがとう、セーラ」


 うつ伏せで呟いて、彼女は動きを止める。

 今度こそ、私以外の全ての生物の音が消えてしまった。


「…何で…?」


 何故、こんなことになったのか。

 私に…これ以上、何ができるというのか。


「行かないで、リリアナ、一人にしないで…」


 私は彼女の体に縋りつき、泣き言を漏らす。しばらくしてのろのろ顔を上げ、他の生存者がいないか学園内を捜索する。

 誰もいなかった。

 廃墟と化した建物に、生物の残り香は一欠片も残されていなかった。

 血の一滴すら、舐め取られていた。


 鈍間な足で正門に戻って、ランベールに近寄る。

 彼の首は行方不明だ。胴体だけが転がっている。


「…治さなきゃ…」


 魔法。私に使える魔法を全て試した。

 治癒魔法。解毒魔法。防衛魔法、結界。能力上昇支援魔法。拘束魔法。光魔法。幻影魔法。神霊魔法。

 彼の血は止まった。でも動くことはない。

 私に微笑みかけてくれない。


「…ランベール…」

『ごめんよ、セーラ。君を一人にすることを許してほしい』


 震える声がした。

 そこに立っていた。

 色褪せたランベールの全身が、あった。


「ど、うして」

『…見えて、いるのか?ああ、そうか…すまない、セーラ。すまない…。私はもうすぐ消える。死者は長らく正気を留めていられない。どうか許してくれ。だが、忘れないでほしい。どんな形でも、私は君の―――』

「良かった」

『セーラ。私は』

「皆、ここならずっといてくれる」

『何を』


 試したこともない。でもできるはずだ。今、こうしてできたのだから。

 結界と、神霊魔法と、幻影魔法と、光魔法と。天上と同じ光で満たした結界内なら御霊を留めておける。生前の姿のまま、悲しい最期で終わることなく、ここでずっと。


『セーラ。やめろ』

「大丈夫。私ならできる」

『セーラ』

「愛しているわ」


 そして―――









 皆は、私を説得しようとした。


 助けようとしてくれて、ありがとう。

 でもこんなことを続けても意味がない。君が魔力を使い果たして死んでしまうだけだ。

 早く、魔法を解くんだ。

 私たちは誰も君を恨まない。誰があの魔物に抵抗できるものか。

 君は悪くないんだ。

 自分を責める必要はない。

 だからもう、やめてくれ。


 貴女のおかげで助かったわ。

 私は最後に人間に戻れた。それで十分よ。

 だから、もういいのよ。


 セーラ様。俺たち、死んでるんですよね?

 魔物に殺された。よく覚えてる。あんなに恐ろしいものはなかった。

 どうか、貴族として、聖女として、責務を果たしてください。

 この国は…滅びてるかもしれないけど。

 他の国に知らせるんです。

 お願いです。使命を思い出してください。


 聖女様。やめてください。せっかく生き残ったんです。

 ここで私らと心中しようとしないでください。

 生きて幸せにならなきゃ、絶対ダメですよ!




 私は聞かなかった。

 かつての温かな学園の幻を投影し、そこで、元通りの皆と時間を過ごした。

 お腹が空いたら魔法で認識を弄って満腹感を得た。

 私を散々になだめ、励まし、説得しようとして、できないと悟ると、彼らは私に嫌われようとした。

 彼らはあくまで幻影を纏った魂の存在で、私に触れることもできず、物理的に干渉できない。結界の外に自分から出ていくことも。

 だから私に嫌われて、この幻を居心地の悪いものにさせて、無理にでも現実に帰そうとした。

 そんなのに私は屈しなかった。

 でも、魔力は確実に消費されていた。


 記憶を保っていられなくなった。

 自分が何をしていたのか、どうしてこんな状況にあるのか、覚えていられない。

 一定時間経過するか、もう何も考えたくないと望めば、直近の記憶が消える。

 むしろ、好都合。

 あんな悲しい記憶は忘れて、いつもみたいに平和に過ごせばいい。

 早く、皆も分かってほしいのに。

 どうしても、諦めてくれなかった。


 現実逃避だって分かってる。

 でも、私は知っている。

 既にこの国は滅びている。

 先代の聖女と神官は生きているかもしれないけど。

 私の父も、母も、領地の皆も、国の皆も全員魔物に殺されている。

 そんな状態で、どうして、生きていけるのだ。

 そんな世界で、どうして、一人で歩かなければならないのだ。


 私は、夢を続ける。

 何があっても。

 この優しい夢を、守る。

 それが私の、せめてもの贖罪だ。































***


―――リリアナ。

―――何よ、ランベール。

―――もう一度、死んでくれるかい。

―――バカね。言うまでもないわ。貴方こそ、覚悟はあるの?

―――無論だ。この身が、魂が変貌しようと、私はセーラを諦めない。彼女に、伝えなければならないことがある。

―――じゃあ、行きましょうか。

―――ああ。


***






「……」

「……」


 目の前で黙り込んでいるのは、婚約者と、親友だ。

 私はセーラ。公爵令嬢の身でありつつ聖女として見出され、王太子ランベールと婚約し、辺境伯の令嬢リリアナと仲良くして、悠々自適に学園生活を送ってきた。

 だがそれも過去の話。二人は私と敵対しているかのように対峙し、大衆の面前で私を見つめている。

 どうしてそんなことになったのか。私にはまるで心当たりがない。

 二人の変貌に内心焦りながら言葉を紡ぐ。


「どうしたのよ、二人とも。らしくないわ。何かあったの」

「…君には、聞こえないのか」

「何が?」

「貴女の肉を狙って這い寄る、魔物の唸り声が」


 腕が、掴まれた・・・・

 彼らは、私に触れることはできないのに。

 私は、呆然とその相手を目にする。


 真っ黒い姿をした、少女がいた。


 彼女は、僅かに残る人肌が晒された腕で私の手を掴み、もう片方の真っ黒な腕を、だらんと垂らしている。

 口は、大きく開けられて、そこから荒い呼吸音が漏れていた。


 血の気が引く。

 精神が揺れて制御を保っていられず、学園は一瞬で廃墟に戻る。

 幻影が消えて、現実が私の前に現れる。

 ランベールも、リリアナも、私を取り囲んでいた五体満足な人々の姿は掻き消えてしまった。


 彼女が、不気味なほど平静な声で語り始める。


「魔物は簡単には死なないのよ。聖なる力には弱いけど、あの程度の魔法じゃ、ちょっと気絶するだけで済むわ。良かった、貴女がまだ生きていて。死んだ肉は美味しくないもの。だから魔物は我先に食おうとするのよ」

「…リリ、アナ」

「貴女も私に食われるために待っていてくれていたんでしょう。嬉しいわ。大丈夫、すぐ済むから」

「や、やめ、正気に戻って…さ、さっきまで、ちゃんと、お話できていたじゃない。私に、最後に人間に戻してくれて、ありがとうって、言ったじゃない。あなたは、リリアナでしょう!?」

「さっき?何の話かしら。貴女、幻覚でも見ていたんじゃないの?」

「そんなことないわ!だって皆、まだここにいるもの。結界は機能しているもの。魂は無事に、私のそばにいてくれているもの!」


 辺りを見回す。姿はもう見えない。幻影魔法が途切れてしまったから、私の目では認識できなくなっている。しかしまだ結界は維持されているし、光魔法も無傷だ。周囲には温かな光が差し込み、まるで天国みたいに私たちを照らしている。

 聖女と呼ばれる人間の魔力総量は人並みではない。

 無意識でも、眠っていても発動し続けられる。

 だから、幻覚なんかじゃない。

 すると彼女は、首を傾げた。


「あら?言ったでしょう。魔物は全てを喰らい尽くすと。魂なんて、とっくに食べられてしまっているに決まっているじゃない」

「…え」

「都合の良い幻覚でも見ていたのね。可哀想に」


 幻影魔法は。その名の通り、幻を見せる魔法だ。繊細な制御と、膨大な魔力が必要になる。

 術者本人か、対象者に、何らかの意図を持って偽りの世界を見せて、惑わす魔法。


 …あれは。


「私の…妄想…」


 嘘だ。

 そんなのあるわけない。だってランベールは、最初、霊体に気づいた私に、見えているのか、と驚いていた。幻覚ならそんな反応しない。

 彼女の嘘に決まっている。


「でも、やっぱり、長年聖女のそばにいると、影響があるのね。本来ならすぐ全身魔物に成り変わって本能に支配されるのに、まだ私、貴女のこと食べられていない。貴女の聖なる力の残響が、本能を邪魔しているのよ。長い付き合いだものね。ランベールの首以外を魔物が取りこぼしたのもそのせいかしら」

「…あなたの方こそ、幻覚よ。そうに決まってる。あなたはリリアナじゃない。リリアナもランベールも、魂として私のそばに」

「ランベールって、そいつのこと?」

「…え」


 彼女が、視線を私の背後に投げた。

 彼の霊体が姿を現してくれたのか。そんな微かな希望を持って、振り向いたその遥か先にいたのは。


 頭のない。

 真っ黒な首を持つ青年の体だった。


「…え?」

「さっきね。私のこっちの、完全に魔物になってる腕の方の、指をね、食べさせたの。頭がなくて口もないから、無理やり喉の奥に突っ込んだんだけどね。成功したみたい。これであいつも私の仲間」

「…何で…」


 よろよろと。

 頭部のない体が、ゆっくり近づいてくる。視覚がないためか、あちこちに肩をぶつけ、それでも少しずつ私に向かってくる。


「二人で山分け。一緒に食べた方がご飯は美味しいって、昔言ってたわよね。あいつ口がないから食べられないし、全部私の取り分だけど。きっと喜んでるわ。貴女も嬉しいでしょう?私の一部になれるの。貴女を食べたら私群れと合流するわ。それでいっぱい食べるの。移動して、食べて、眠って、移動して、食べて、それを繰り返すの。ずっと一緒よ」

「…ランベール…」


 呼びかけても、彼には耳がないから聞こえない。

 いつも感情を制御しているけどたまに頑なさを覗かせる顔も、柔らかな瞳も、無機質な裏に優しさを隠す声も、彼にはもうない。

 でも、呼ばずにはいられない。


「ランベール」

「……」

「ランベール!!」


 どうして。彼がこんな目に遭わなければならないのか。

 私を庇い頭部を失ってなお、死体を動かされて。弄ばれて。

 どうして彼女がこんなことをしなければならないのか。

 戦って、食われて、最後の抵抗で喰らいついたら、魔物の仲間になってしまった。望んでいない生を与えられてしまった。

 何故。


 あの、腐った生き物が、この世界に存在しているのか。

 あの、醜悪な生き物が、我が物顔で闊歩しているのか。


 何故。

 あのゴミクズは、根絶やしにされていないのか。


「貴女はここで私たちの礎になるのよ。一緒に色んなところに行って色んなものを食べるの。素敵でしょう」

「黙って」

「貴女の親も友達も皆一緒よ。私たちの一部になるの。心配しないで。私たちは一つ。一つのものとして生き続けるの。私たちの意志は統一されている。貴女も」

「黙りなさい」


 私は、掴まれている腕に、魔力を流し込む。

 途端に彼女はもがき、腕を引き抜こうとするが、私はそれを許さない。


「リリアナの体を、それ以上汚すことは許さない」


 治癒魔法は、負った傷を癒し、回復させる。

 しかし傷が治っても、万全な肉体に戻っても、なおかけ続ければ、体に悪影響を及ぼす。


 食べ過ぎるとお腹が痛くなるように。

 植物に水を与え過ぎると枯れるように。

 どんなものでも、過剰に与えられれば害が生まれる。


 禁忌とされている、魔法の使い方。

 聖女となるには絶対に許されない、人を殺すための、使い方。


「何をするの、やめて。痛い。痛いから、離して。今の貴女の魔力は私に毒なの。やめて、お願い許して、貴女を食べないから、やめて、やめて。貴女は聖女でしょう、皆に優しく、慈愛に溢れているでしょう。私が可哀想でしょう。攻撃するためじゃなく、守って癒すために魔法を使わないと、聖女じゃないわ」


 初めからこうするべきだった。

 彼女が私に「貴女は聖女だから襲わない」などと言い出した時点で、彼女は何者かに意識を剥奪され、体を操られているのだと悟り、殺して、解放するべきだったのに。

 私が現実から目を逸らして、都合の良い夢に浸っていたから、リリアナに手を汚させてしまった。首のないランベールを魔物に変える、友をその手にかける羽目に陥らせてしまった。


「やめて。親友でしょう?今までずっと仲良くしてきたじゃない。一緒に国を守るって約束したじゃない。覚えていないの?私は覚えているわ。貴女が大好きだもの。だからやめて、お願い、痛い、やめて、許して」

「…許さない」


 今まで他の魔法に使っていた分の全ての魔力を、彼女を殺すことに注ぎ込む。

 腕を中心に彼女はびくびくと悶えていたが、やがて力を失い地に崩れる。

 それでも私は手を離さずじっと魔力を流し続けた。倒れても、彼女の全身が蠢く黒に覆われても、ずっと。


「…セーラ」


 名前を呼ばれた。

 真っ黒な平面の奥底から、小さく声がした。


「忘れないでね」


 答えを返す暇もなく、彼女は、黒い塵となって霧散してしまった。

 後に何も残らなかった。

 光のない廃墟の中で、私は、身を起こす。


「…ランベール」


 彼は、まだ私に辿り着けていない。

 よたよたとぎこちなく二本足を動かし、歩み寄ろうとしている。

 私は彼の体を抱き留め、真っ黒な首の断面に手を乗せた。

 けれど彼の腕が、鈍く私の背に回る。何かを伝えるかのように、指先で小さくなぞってきた。

 文字を、描こうとしている?

 じっと、完成を待つ。

 

『ずっと、そばにいる』

「…愛しているわ。永劫に」


 リリアナよりもあっさりと、ランベールの体は崩れ去った。

 最初から何もいなかったかのように、世界から消えた。


 一人。他に誰もいない、何にも見られていない空間で、私は最後の涙を落とす。

 そしてこの時より二度と、私が聖女と呼ばれることはなかった。

英雄:魔物絶対殺すマンの誕生である

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― 新着の感想 ―
[一言] えげつない・・・。 けど良い作品W
[良い点] 救いがなさすぎて好き 例え魔物を全て殺し尽くしても絶対に幸せにならないし、幸せになる自分を許さないだろうけど、何かに心を許して一瞬辛さを忘れてほしい、そしてそんな自分を責めてほしい
[一言] まあ普通の聖女相手にお痛が過ぎて、連中にとって最凶の敵、魔物絶対抹殺の超人英雄を作り出してしまったか。
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