第73転 オルフェウスの冥府還り2
冥府への道程を逆向きに登っていくオルフェウス。その後ろには一人の女性を連れていた。オルフェウスに似た雰囲気の女性だ。彼が性転換したらこのような姿になるかもしれない、それくらい似通った二人だった。
ハデスは「冥府から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返るな。振り返れば貴様は妻を永遠に失う事になる」と冥府でのルールを教え、エウリュディケをオルフェウスの後ろに従わせて送った。伝承では、出口の光が見えたところで不安に駆られたオルフェウスが振り向いて妻の姿を見てしまい、それが最後の別れとなったとされている。しかし、真相はまたもや異なる。
「……気味悪く思った事でしょう、今の私の姿を見て」
エウリュディケの肌は血の気が失せ、乾燥によりひび割れていた。骸と化した彼女の肉体は不死者に近しく、朽ちて果てていくだけの存在になってしまったのだ。冥府では微生物ですら死んでいる為、腐敗していないのがまだ幸いだと言うべきか。
「確かに痛ましく思ったよ。君の美しさが損なわれた事はね」
「正直におっしゃいますね。変わらない人」
「芸術家として自分の審美眼に嘘は吐けないよ。でも、良かった事もある」
それは、
「今のきみの姿を見ても、ぼくのきみへの愛は揺るがなかった。きみの魅力に陰りはなかったって事さ」
「……そうですか」
オルフェウスの告白に対してエウリュディケは淡々としていた。妻の反応に眉を若干ひそめながらもオルフェウスは冥府の坂を上がっていく。やがて進行方向に光が見えた。冥府と現世の境目――出口だ。
「もうすぐで帰れるよ、エウリュディケ」
出口の光を前にしてオルフェウスの心が躍る。だが、
「……御免なさい、アナタ。やはり私は共に行けません」
エウリュディケはその場で立ち止まった。
オルフェウスの表情が凍り付く。彼女の言った意味を理解できずに思考が停止した。それでもどうにか彼女の真意を質そうと声を絞り出したが、その声色は悲しい程に掠れていた。
「……どうしてだい?」
「私にアナタと共にある資格がないからです。先程のアナタの言葉、アナタの愛を聞いても私の心には響きませんでした。生前では考えられなかった事ですのに」
そう語るエウリュディケの表情はまるで人形のようだった。如何なる感情も窺う事はできず、人を装っている何かにしか見えない。無味乾燥の仮面だ。
「私にはもう詩心がないのです。冥府に堕ちた時点で既に、私は人の心を失ってしまいました。それが『死ぬ』という事なのです」




