きずあと
照りつける日差しの下、リストバンドで額の汗を拭いながら、私は高校までの道を歩いていた。
今日は夏休みに入って最初の月曜日だ。本来なら夏季休暇なのだが、数学の期末テストの点数が芳しくなかった私は、先生から補習を言い渡されていた。そのせいで、炎天下の中、朝から登校しているのだった。
教室に入ると先客がいた。窓際の一番後ろの席に、同じクラスの斧田遥が座っていた。私はそこから二つ離れた席に座った。
斧田の横顔を見つつ、私は彼女に関する噂を思い出していた。
「ねえ美咲。斧田さんの噂、本当なのかな」
「噂?」
友人の菊原七海と昼ご飯を食べていた私は聞き返した。
「うん、斧田さんがタトゥーをしてるって噂」
パンを口に運んでいた手が思わず止まる。
「それ、本当なの?」
「あくまで推測だけどね」と前置きして菊原が言う。「斧田さんって、この前の水泳の授業で先生を突き飛ばしたじゃない?」
「それは見てたよ。すぐに走ってどこかに行っちゃってね」
「あれって、水泳をずっと見学してる斧田さんに、先生が理由を尋ねたのが原因らしいんだよね」
「ふうん」早口で喋る彼女に相槌を打つ。
「だから、きっと体にタトゥーがあるから水着姿を見せられないんじゃないかなって」
あくまで噂だけどね、と付け加えて、菊原は弁当に箸を付けた。私が斧田に視線を向けた。彼女は肩にかかる髪を揺らしながら外を眺めていた。
「よし、二人ともちゃんと来てるな」
私の回想は先生の言葉に遮られた。
「数学の補習があるのは斧田と琴寄だけだ。今週の金曜までちゃんと受けるように」
私は斧田の方を見た。彼女の視線とぶつかり、互いに軽く会釈をした。
補習が終わると先生は教室を出た。一息ついていると、斧田が早々に席を立とうとしていて、彼女の鞄に付いた缶バッジに目がいった。
「それ、ALONの缶バッジ?」思わず尋ねていた。
「うん」彼女は目を丸くして頷いた。
「私も持ってるの」鞄から同じ缶バッジを取り出す。「この間のツアーの物販で売っていたやつだよね?」
彼女が再び頷く。「琴寄さんもALONのライブに行ったの?」
「うん、行ったよ……ってか、私の名前知ってたんだ」
「同じクラスだしね」
「それもそうか」思わず笑みがこぼれる。「よろしくね、斧田さん」
ALONがきっかけで、彼女との仲は急速に深まった。帰る家の方向も同じで、補習が終わると二人で帰路に就いた。
「補習も明日で終わりかあ」
「長かったね」呟くように斧田が言う。
「頭の中が記号や公式でいっぱいだよ」
大げさな身振り手振りを付けて言うと斧田が笑った。つられるように私も笑い声を漏らす。
「そういえば、遥っていつも長袖を着てるよね」
「そうだね」俯きながら遥が言う。
「何か理由があるの?」
彼女は立ち止った。しばしの沈黙の後、彼女は私の方を見た。
「引かないでほしいんだけど……」
語尾がかすかに震えている。彼女は右腕を前に出し、シャツのボタンを外して袖を捲った。手首から腕の中程にかけて、桃色の火傷の跡が見える。
「その跡は?」
「小さい頃、母が薬缶の入れた水を沸かしていてね。ふと目を離した隙に、私がその薬缶に腕を当てたんだって。その時の傷なの」
「だから水泳も休んでたんだね」
「……水泳?」語気に不信感が滲む。
「あ、いや……」
「美咲もあの噂、信じてたんだ?」
「違うの、遥」
「最低」
吐き捨てるように言うと、彼女は背を向けて歩き出した。私は小さくなる彼女の背中を茫然と目で追っていた。
翌日、教室に着くと遥が座っていた。
「遥、昨日はごめん」
私は彼女に頭を下げた。
「タトゥーの噂のこと、実は知っていたの。黙っていて本当にごめんね。でも、遥に話しかけたのは噂がきっかけじゃない。ALONの缶バッジを見て、仲良くなりたいと思ったから話しかけたんだ」
言い終えると、私は膝の上に揃えた手を強く握った。
「私こそ、ごめん」絶え入るような声で遥が言う。「美咲の話も聞かずにカッとなって帰っちゃって……私の方が最低だったよ」
私は頭を振った。そして鞄からリストバンドを取り出し、彼女に差し出した。
「これは?」
「昨日作ってきたんだ」そう言って自分の左腕を見せる。「お揃いのリストバンド。これならその傷跡を隠せると思って」
「ありがとう、大事にするね」
目を潤ませる彼女を見て、私の中で涙が込み上げてくるのがわかる。我慢していると、先生が教室の戸を開けて来た。
「おはよう……どうしたんだ、お前ら」
「いや、今日が最後の補習だと思うと泣けてきちゃって」わざとおどけた調子で言う。
「……なんだか仲良さそうだな」先生が笑顔で言う。「それじゃ、最後の補習を始めるぞ」
窓から一陣の風が吹いた。私と遥はお互いに目を合わせて、静かに微笑んだ。
<了>