ホールド・ダウン・ラブ
わたしが身体を丸めている炬燵の向かい側、そこには一人の女が突っ伏している。僅かに茶色がかったふわふわとした髪を内巻きのショートボブにしているその女は、今は数多の酎ハイの空き缶に埋もれ、穏やかな寝息を立てていた。
わたしはその女の名前を小さな声で呼んでみる。
「ニーナ。寝てる?」
「……う、ん」
ニーナは僅かに身じろぎをし、蚊の鳴くような小さな声で返事を返してきた。
わたしはテレビのリモコンを手繰り寄せ、電源ボタンを押し込み、つまらないバラエティー番組を暗転させた。一瞬にして部屋の中は静寂に支配され、残っているのはニーナの小さな、そして規則正しい寝息だけだ。
わたしはぬるくなった熱燗を手酌でお猪口に注ぎ、それを舐めるようにして呑んだ。口の中に独特の甘みが広がって、やがてゆっくりと消えていく。
お猪口を炬燵に戻し、手を伸ばしてニーナの髪に触れた。痛み一つない滑らかなそれが、わたしの指に絡みついては溢れていく。どんなケアをしているんだろう?
わたしは立ち上がり、ニーナの隣に行って座った。足を炬燵に入れ、そしてお互いの足を絡ませる。細く、それでいて女性的に柔らかなそれは温かかった。身体を寄せ、ニーナの耳元に口を持っていく。
「わたしなら、ずっと大切にしてあげるのに」
そう呟いても、ニーナはなんの反応も返してこない。それは少し寂しくもあり、そしてどこか安堵していた。この呟きは多分、聞かれてはならない。聞かれていたら、もうこうやってニーナのヤケ酒に付き合うことはなくなるだろうから。
この距離感でいい。この距離感で、わたしは満足できる。
わたしはニーナの背中に指を這わせた。柔らかくふんわりとした生地のパジャマの向こうに感じるナイトブラの感触。力いっぱいに抱きしめてしまいたいほど華奢な輪郭。鼻腔をくすぐる桃のような甘い香り。
ああ。
ああ、わたしは嫉妬している。
ニーナをフッたという男に、嫉妬している。
彼はこの身体を抱いたのだ。抱きしめ、愛撫し、きっと本能の赴くままにこの身体を味わったのだろう。そして、ニーナはそんな男の欲望をこの小さな身体で受け止め、そして悦んだ。
わたしはニーナの頬にかかる髪をそっと払いのけた。わずかに紅潮した頬が現れる。毛穴のない、きれいな肌だ。
その頬に、そっと唇を押し付けた。
わたしの中で燻るこの想いの炎は、決して消えることはないだろう。
消えることはなく、しかし大きく爆ぜることもなく、ぷすぷすと黒煙だけを立ち昇らせている。
それでいい。
それでいいのだ。
わたしだけがその炎に焦がされ続けるだけで、ニーナはわたしの横にいてくれる。ずっと昔から燻り続けている恋という炎は、その灼熱をもってわたしを蹂躙する。
わたしはそっとニーナの肩に手を回し、そしてゆっくりと引き寄せた。アルコールのせいでいつもより高い温度がお互いの服越しに伝わってくる。
そして、わたしは眠りに落ちた。
□□□□
「わたしなら、ずっと大切にしてあげるのに」
その小さな言葉が、あたしの耳元で呟かれる。女性にしてはややハスキーなその言葉の乗った呼気には、僅かにアルコールの匂いが混ざっていた。あたしは机に突っ伏した格好のまま目を開いた。目の前は当たり前だけど真っ暗だ。アヤカの熱いほどの体温を誇る柔らかな足が、あたしの脚を絡めとってる。それが何故だか心地よくて、ずっとそうしていたいと思った。
ふと、アヤカがあたしの背中を指先でそっとなぞった。とてもくすぐったくて、声を出さないようにするために奥歯を食いしばった。首筋から腰に掛けて、背中にぶわっと鳥肌が立つ。密着しているのは同性であるはずなのに、その柔らかさと熱い体温がどこか艶めかしくて飲み過ぎたアルコールの所為で痺れている脳に微弱な電流が走り続けているような感覚に陥った。心臓が狂ったように肋骨の奥で暴れている。
ずっと突っ伏している姿勢がどうも息苦しくて、アヤカに気づかれないようにゆっくりと慎重に大きく息を吸った。すると、アヤカの匂いが鼻腔をくすぐった。爽やかな柑橘系の香りがする。香水だろうか、あるいは柔軟剤か。良い匂いだ。あたしをフッた男の匂いとはずいぶん違う、落ち着いた匂い。こんど教えてもらおうか。
アヤカの息遣いを近くに感じる。湿っぽい、妖艶な息。彼女はあたしのことを想っているのだろうか。もしそうなら、あたしとどうなりたいのだろう?
不意に頬にかかる髪を払われて、なにかが優しく触れた。柔らかいそれが唇だと気づくのにしばらく時間が掛かった。元カレの硬く乾いたものじゃなく、水分をたっぷりと含んだ柔らかい唇だ。どうしてだか下腹あたりが疼いている。もし、今あたしが起き上がって舌を入れたら、アヤカはどんな反応をするんだろう?
暫くしてアヤカの手があたしの肩を抱き、そっと引き寄せてきた。彼女のたわわな胸の感触を腕に感じる。そのまま固まっていると、小さな寝息が聞こえ始めてきた。ゆっくりと身体起こし、立ちあがる。穏やかなアヤカの寝顔を暫く見下ろしていると、不思議なことにムラムラとした気持ちが湧き上がって来た。うっすらと開いた唇の向こうに白い歯が見える。その表面を舐めた時、どんなきもちになるのだろう。
あたしはベッドから毛布を引きずってきて、アヤカに掛けた。キッチンへ行き、コップに水道水を注いで一息に飲み干す。食道を冷たい感触が通っていき、胃に落ちて行く。
部屋の中を静寂が支配している。夜特有の澄んだ静けさ。その中に響く小さな寝息。
心地いい。そう思った。
アヤカとこのままの関係でいられるだろうか。いられたらいいな、とそう思う。もし、アヤカがあたしとこれ以上の関係を望むのならば、あたしはどう答えるだろうか。否定するかもしれない。肯定するかもしれない。どうなるのだろう。これから、どうなるのだろう。
まだ、キスの感触が頬に残っていた。