【短編】ロスト・マンデイ
日曜の夜に眠って、目覚めたら火曜日だった。
ありのままを真剣に話す僕をよそに、上司の川原は不思議な顔をしてこちらを見つめている。普段はいつも硬い表情をしているからこんな顔をするのは珍しい。
「おい……それは何の言い訳にもなってないぞ小松。よくそれで遅刻が許されると思ったな」
可哀そうな人間を見つめる目で川原は言う。
確かに僕は仕事に遅刻した、ことになっている。別に遅刻するつもりがあったわけではない。いや大半の遅刻してしまう人間はきっとそうなのだろうけど、僕の場合はなんというか、遅刻するなんてありえないのである。
一ヵ月前から有給申請をしていた月曜日の今日は、本来なら仕事が休みのはずだった。
だから昨日の夜は久しぶりに高校の時の友達と一緒に酒を酌み交わしたし、寝るときは目覚ましもかけなかった。朝起きたらバイクに乗って遠くまで行き、帰ってから少しだけ仕事をするつもりだった。
それなのに今朝は十分に眠って自然に目覚めることもできず、代わりに電話の向こうから聞こえる怒鳴り声でたたき起こされた。電話の相手は目の前にいる川原だ。
別に月曜日を丸一日眠ったまま過ごしたわけではない。
もちろん起きた時にはそれを一番に疑ったけれど、ここに来るまでにその可能性は消えた。というのは、二日分の新聞は家に届いてなかったし、昨日一緒に飲んでいた友達に電話で「昨日一緒に飲んだよな?」なんて頭のおかしな質問をして、飲んだよ、と返事までもらっているのだ。
で、訳も分からないまま今ここにいて、ようやくその原因というか、にわかには信じられない非常な現実を僕は目の当たりにしている。
壁にかかっているカレンダー。そこに慣れ親しんだ歪な数字の配列はない。
代わりにあるのは1日の日曜日から始まる配列で、一列に【6日】ずつ綺麗に4行繰り返されて並んでいる。最後の日付は24日で終わっていた。一番上には曜日を表す文字が並んでいて、それを順にみていく。そしてあることに気づいた。
月曜日がなくなっている。
昨日まで6月20日の日曜日を生きていた僕だが今は7月2日の火曜日にいる、ことになっている。
時空を超えたわけではなさそうだ。
さっき落ち着いて計算してみたのだが、元旦起算で数えると6月20日の日曜日は171日目にあたる。で本来は今日が172日目なのだが一ヵ月が24日のこの世界線ではその172日目は7月2日の火曜日となる。
どうりで川原も僕の言葉を聞いて戸惑うわけだ。彼らにとっては日曜日に寝て朝起きたら火曜日なんて当たり前のことなのだ。と、そんな事実さえすんなりと受け入れている自分にも戸惑う。
なぜこうなったのかは分からない。
たとえば、世界を裏で操る秘密結社がなんだかの理由で月曜日の存在を消したくて、人の記憶を操作できる緑色の光線を世界中に放った、でも僕だけはその影響を受けずこれから月曜日を取り戻すためにその秘密結社に立ち向かわなくてはならない、なんて中二病みたいなことは今考えても仕方ない。
そもそもそんな巨悪に立ち向かってまで月曜日が必要かと言われれば、正直そんなことはないと思った。
月曜日がなくなったせいで、その日の仕事は散々だった。
まず前の世界で火曜日に決まっていた取引相手へのプレゼンが今日になった。
いや、実際は今日が火曜日だから何一つ間違ってはないのだろうけど僕にとっては大誤算だ。月曜日の夜に仕上げる予定だったできかけの資料を早急に仕上げ、合わせて通常の業務もこなすことになった。
どうやら元いた世界で火曜日にやらなくてはいけないことは、この世界でも火曜日にやらなくてはいけないらしい。仕事の量も働く日数が少なくなった分、なんだか密になっていて慌ただしかった。
けれど、それでも何とかこなせる自分がいるのだから、普段の僕は大変なようで大変ではなかったのだと思う。
頭がパンクしそうになりながら過ごしているうちに、気付けば勤務時間は終わっていた。
へとへとになったので今日はタクシーに乗って帰ることにする。
いつもはバスと電車を掛け合わせての通勤だけど、今朝急いで乗ったタクシーが思いのほか快適だったのと、色々ありすぎて疲れ切った状態でバスと電車に乗るのが辛かったのでそうした。
タクシーに揺られながら、とりあえずこの世界のことを把握することにする。スマホを使って調べてみると少し面白いことが分かった。
まず月曜日がなくなったと言っても、一年は365日で変わりないらしい。うるう年のときは366日だ。
代わりに一年が15か月あって、13月はundecimber、14月はduodecimber、そして15月はtredecimberと呼ばれている。ラテン語の数字呼びが由来だそうだ。
そして15月だけ第5週目が存在し、その最後の週はスペシャルウィークと呼ばれ世界中で仕事が休みとなる。(馬の名前かよ)
スペシャルウィークは25日(日)のクリスマスに始まり、29日(金)の大晦日(うるう年なら30日(土)に終わる)で終わるそうだ。
よく考えればこっちの世界も悪くないと思う。
ひと月の給料は変わらないから三ヵ月分年収は多くなるし、会社の人の話を聞く限り働くのも週4日だそうだ。前の世界に比べれば随分と楽だと思う。
それにその日が1~6のどの倍数の日か考えればすぐに曜日だって分かる(それでなにか得するわけではないけど)。自分が生まれた日の曜日だって簡単に分かるだろう。サマーウォーズのケンジは特技を失ったはずだ。
そんなことを考えていると、友人の間宮から電話があった。
「よー小松。今何してる? 暇なら飲みに行こうぜ」
「今からかよ? 俺それどころじゃないんだけど」
「どうせ暇なんだろ。いつもの駅で待ってるからな。すぐ来いよー」
「いや、本当にそれどころじゃ……」プー。
間宮は返事を待つことなく電話を切った。
結局タクシーの運転手に行先の変更を伝えて、待ち合わせの駅に向かった。
駅に着くと、間宮はもう待っていた。
タクシーから降りてトボトボと歩く僕を見つけると、遠くだというのに大きく手を振る。
「おーきたきた。正直すっぽかされるかなと思ったよ」
「その可能性がなかったと言えば嘘になる」
「おい、マジかよ。まぁでも結局来てくれる当たり、小松らしいよな」
「うるせぇー。こっちはタクシー代無駄にしてんだよ。今日は奢れよな」
間宮と僕は駅の近くにあった焼き鳥屋に入った。
昭和をモチーフにして最近話題の店だと間宮は言っていたが、昭和を生きていない僕にとってそんなのはどうでもよかった。
暖色系の明かりで妙にオレンジがかった店内。
壁には昔の映画ポスターや新聞がこれ見よがしに張られていて、天井にはひもがぶら下がって色んな国の国旗がぶら下がっている。いかにもレトロを”感じさせたい”という店だ。
客は見渡す限り僕らと同じような世代ばかり。それなのにどこからか懐かしいなぁー、なんて声が聞こえるから不思議に思った。お前ら生きてなかっただろ。
席に着くと、早速と言わんばかりに間宮は切り出した。
「最近、部長がさらにうるさくなってよ。もうマジで更年期って感じ。なんかすげー頭硬くってさ、疲れんだよ」
どうやら今日は愚痴の聞き役として呼び出されたらしい。
そうかぁー、と下手な相槌を打ちながら、ちょうど店員がやってきたのでビールを二つとくし盛りを注文した。
「まぁ仕方ないよな。上の世代とはどうやったって考え方の違いが出てくるからな」
「小松はいいなぁ。そうやって割り切って考えられるだろ。俺もそうなりたいよ」
「いや俺だってむかつくときくらいあるよ。でもそれでイラついてると自分のエネルギーをむかつく人間のために使っているようで嫌じゃん」
「そうなんだけどさー」
「まぁ、愚痴ならいつでも聞くよ。タダで酒飲めるしな」
僕の言葉に間宮の顔は緩んだ。
他人の愚痴を聞くのは結構好きだ。
人の気持ちを聞いていると自分と同じようなことを考えていたりして、そう感じているのは自分だけではないと思えて少し安心する。
「俺、ふとこの前思ったんだけどさ、週4日も働いてさ人生の半分以上を仕事に費やしてるわけだろ。なのにそれを嫌いな人間がいる場所で過ごすなんて、本当に自分もバカだなぁって思うわけさ」
「言われてみればそうだなー」
「そう、だからさ、俺いつか会社辞めて、独立してすきなように生きるんだ」
「お前、それ言い始めてから何年たったんだよ」
からかうようにそう言うと、間宮は不満そうに少し顔をゆがめた。
もし週5日で働く世界線を知らなかったとしたら、きっと僕も間宮と同じように仕事の愚痴をこぼしていたように思う。でも今は前よりもましな世界に来ていると思えるから少し余裕が持てる。だから愚痴をこぼす気にはなれない。
結局、仕事に対する不満の本質は自分自身への不満なのだろうと思う。つまりは今の環境から抜け出せずにいる不甲斐ない自分への不満。
よく考えれば当たり前のことである。仮にいつでも嫌なところから抜け出せるならきっと人は不満なんて抱かない。嫌ならやめてしまえばいいからだ。
でもそれができないから行き場のない思いを愚痴という形で吐き出している。振り返れば、自分も言い訳ばかりの人生だったなと思った。
自分のことを少し哀れに思うのと同時になにかすっきりした気分になる。
「どうしたんだよ小松、なんか悟ったような顔して」
間宮は不思議そうな顔をして尋ねる。
「いや、別に……。大したことはないんだ」
結局この日、僕と間宮は店が閉まるまで飲み明かした。
次の日目覚めると世界はもとに戻っていた、なんてことはなく、普通に水曜日だった。
月曜日がない分、もう水曜日かなんて思ったりはしたけど、それ以外にこれと言って特別な変化はない。
よく考えてみれば当たり前のことだった。
人は勝手に名前を付けているけれど、そもそも時はどんなことがあろうと流れ続ける不変のものである。
そして時の流れにわざわざ名前をつけて認識しようとする動物も知能のある人間ぐらいなものだ。
きっと時間という概念は、いずれ終わる命を見越して作られた人生の長さを表すための尺度なのだろう。
この日会社に着くと、川原から呼び出された。
「小松、今日は遅刻しなかったな」
「はい。昨日は本当にすみませんでした」
「もういいんだ。あれぐらいのことは誰だって一度はある。それにしても昨日のお前は面白かったな」
からかうように川原は言った。
昨日のことを思い出すと恥ずかしくて仕方がない。耳が赤くなるのを感じた。
「あぁ、それはそうと、今日は頼みがあって呼んだんだ」
「はぁ……」
「実はな、今日ミヤビシ製菓の木下さんと食事を兼ねたミーティングがあってな、小松にもそこに参加してほしいと思っていてな」
「僕ですか?」
「あぁ。なにやら向こうはお嬢さんを連れてくるそうでな、同い年の男性がいれば盛り上がるのではないかと木下さんがおっしゃっているんだ。うちの部署で条件に当てはまるのを探したらお前くらいしかいないということになった」
木下さん、とはミヤビシ製菓の代表だ。
ミヤビシ製菓はうちにとっても大きな取引相手なので失礼はできない。責任重大である。
「条件ってなんですか」
「30代で独身、まともな人間なら誰でもいいということだ」
「なんだか、適当ですね」
「そんなこともない。どうやらお嬢さんは中々相手が見つからないそうでな、木下さんも少し焦ってるみたいなんだ」
どうやら面倒な事案に巻き込まれたようだ。
大体この手の話は、蓋を開けてみればそのお嬢さんになんだかの問題があることが多い。
性格も悪いというだけならまだマシだが、その上に見た目も悪いなんてことはよく聞く話だ。
「そうですか……。とりあえず善処します」
「そうか。よかった、よかった」
正直昨日怒られた手前断れないというのが本心だ。得体の知れない覚悟を持って僕は川原の部屋を後にした。
仕事が終わると、川原と僕は約束の店へと向かった。
到着したのは約束の時間の十分前だったが、すでに入り口には和服を着た女性が数人立って待っていた。経験したことのないもてなしに面を食らう。
案内されるがままついていくと、一つの大きな和室に通された。無駄に大きな机の前に敷かれた座布団の上に座る。
川原が言うには、ここは高級割烹の店らしくミヤビシ製菓との商談の際にはよく使うそうだ。通された部屋には大きな円形の窓がついていて、外にはライトアップされた和風庭園が広がっているのが見えた。まるで日本庭園のようで、どことなく鹿威しの音が聞こえてきそうである。
「川原さん、ここすごいですね」
不安になって声をかけると、余裕のある表情で川原は笑う。
「小松はここ初めてだったな。都内では結構有名な店でな、名だたる商談がここで成立しているという噂だ。ミヤビシ製菓との初めての商談もここでな、俺もその時はさすがに緊張したよ」
僕の緊張を見抜いたのか、安心させるように川原は言う。ちょうどその時、大きく松の絵が描かれたふすまの向こうから声がした。
「――お連れ様がお見えになりました」
その声に僕の体には緊張が走る。川原が立ち上がったので、それに合わせて一緒に立ち上がった。同時に扉が開く。
するとそこには木下さんと一人の女性が立っていた。
正直驚いた。木下さんの斜め後ろで遠慮気味にたたずむ彼女は想像していた女性とはまるで違った。
丁寧に腰の前で重ねられた手の平は弱弱しいほどに白い。
そしてうつ向きがちの顔はその白も相まって赤く目立つように染まり、木下さんに合わせて頭を軽く下げたその動作は少しぎこちなかった。
その時綺麗に伸びた黒髪の間からちらりと見えた金色のイヤリングは、控えめな灰色のワンピース姿にどこか似合わない。けれど総じて、とても美しい女性だと思った。
「お待たせしました、川原さん。あぁ、これが娘の由香里です」
「由香里さん、はじめまして。タミヤ商事の川原と言います。こっちが部下の小松です」
「タミヤ商事の小松です。木下さん、今日はお招きいただきありがとうございます」
「いえいえ、そんなに固くならないで。川原さん、いい感じの男性じゃないですか。さっ、由香里も挨拶なさい」
「……はじめまし……て、木下由香里と言います……」
彼女の言葉はたどたどしく、この場の誰よりも緊張しているようだった。
「すみません、うちのは少し引っ込み思案なところがありまして……。おかげでこれまでまともに男と関わったこともなく……」
「ちょっと、お父さん! 今はそんなのいいから!!」
そう言って木下さんの肩当たりを彼女は叩く。
それから僕と彼女は向き合うように座り、食事会がスタートした。何を話してよいか分からなかった僕はとりあえず気になったことを聞いてみる。
「そのイアリング素敵ですね。何かの記念に送られた物ですか?」
僕がそう言うと、驚いたように彼女は顔を上げてこちらを見た。
「どうしてそう思うのですか?」
「いえ、素敵なイアリングなのですが、恥ずかしそうにつけていらっしゃったので、普段は付けないのかなと思いまして」
彼女は目を丸くしている。
「本当にその通りで驚きました。小松さん、すごく人を見る目がお有りになるのですね。これ、似合うからって父からムリに付けさせられたんです」
「いやいや、お恥ずかしい」
そう言って木下さんと彼女は笑った。
最初の会話が上手くいったおかげか、その後僕ら4人は話に花を咲かせた。最初は緊張していた由香里さんも次第に自然な笑顔を見せてくれるようになった。
「由香里さんは趣味とかありますか?」
「そうですね……、平凡ですが読書ですね!」
「どんな本を読むのですか?」
「私は小説を読むことが多いです。漱石や太宰みたいな昔のものも読みますが、最近の小説も結構読みます!」
「僕もです。最近だと照元章一の小説とか読んだりしてますよ」
「あー! 私も読んでます。『バーネット』とかいいですよね」
「はい! めっちゃよかったです!」
こんな話がしばらく続いた。
不思議と彼女に対しては素直になれている自分がいた。彼女から向けられる眼差しは今まで僕の受けてきたどれよりも優しく、そして濁りがなかったからだ。
いつも人の言動に対してその本質を探ろうとする僕は、どこか他人の優しさを皮肉にとらえがちなところがある。けれど彼女に対してはそんな気になれなかった。
食事を終えると、僕と彼女は店の庭を歩くことになった。
ひんやりと涼しい夜風を感じながら、ささやく木の葉の音と池に流れ込む水の音が静寂に溶け合うのを聞いた。
この時すでに、僕は彼女に対して何かを感じていたのだと思う。
確かめるわけでもなくきっと分かっていたのだ。勘でもなく、無理にこじつけたわけでもない。自然とこの後二人で人生を歩んでいくことが想像できた。
「由香里さん、漱石を読むと言いましたね」
「ええ」
「そうですか……。では月が綺麗だとは思いませんか」
そう言って僕は空に浮かんでいる月を見上げた。
「つ……き……ですか? すみません、それは何ですか?」
「月は月ですよ、ほらあれです」
そう言って僕は月を指さした。すると彼女は不思議そうな顔をする。
「小松さんは、あれを『つき』と呼んでいるのですか?」
「ええ。だってあれは、月でしょう」
「そんな素敵な呼び方があるのですね。知りませんでした。小松さんは物知りなのですね」
偽りのない眼差しでこちらを見つめて彼女は言う。そしてようやく僕は気付いた。
「ええ、そうなんです。諸説ありますが、漱石はあれを月と呼んで愛の告白をしていたそうです。月が綺麗ですね、と言う言葉を愛しているの代わりに言っていたそうですよ」
僕がそう言うと、彼女のライトに照らされた白い顔が少し赤くなった。
それを見て、そのくさいセリフに自分で言っておきながら恥ずかしくなる。
しばらくそわそわしていると、彼女はこちらを見つめてきた。それはまっすぐな目だった。
結局、このことがきっかけで僕と彼女は付き合うことになった。
もう三年も前の話である。
相変わらずこの世界では、夜空に浮かぶあの衛星のことを『月』と呼ぶことはしないが、そのおかげで今の自分は大きな幸せを手に入れたとも言える。
月曜日はなくなった。けれど鉄格子の中のような永遠に変化の訪れない人生からは抜け出せた。それだけで月曜日よりも何倍も価値がある。
(完)