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『黒木渚論』

『黒木渚『マトリョーシカ』論・・・宮沢賢治の『注文の多い料理店』との比較』

『黒木渚『マトリョーシカ』論・・・宮沢賢治の『注文の多い料理店』との比較』



黒木渚※の『マトリョーシカ』という曲の歌詞に、この様な個所がある。


「開けて開けて開けて開け続けて 最後のひとつにたどり着いた 開けて開けて開けて開けて開け続けて 最後のひとつの中身は何? 入っていたのはマトリョーシカ」


「マトリョーシカ」から


これは、マトリョーシカに、人間の層を見たものだと、解釈しているが、例えば、宮沢賢治の『注文の多い料理店』などと比較すると、面白い像が浮かび上がってくる。



一般に人間には、個体差があるが、例えば、様々なる意匠を層として自己に抱いて、生きている人間が居るとする。様々な技法、様々な考え、様々な意見や口調、しかし、これらが全て借り物だった場合、最後にその人間に残るのは、何もない空虚な自分である。自分の発明なしに、借り物だけで生きていて、『注文の多い料理店』の様に、多くの要求に対して、自己をすり減らして行くと、最後には死滅状態の自己が存在するのみである。


『マトリョーシカ』の歌詞も、そう言った思考に準えて読むと、様々なる意匠を開け続けた結果、最後に残るものは、一体何だ、という、意匠の解体が書かれている様に読める。しかし、『マトリョーシカ』の場合は、最後に空虚になった人間が存在するのではなく、やはり、「入っていたのはマトリョーシカ」という結果になっている。これは非常に高度で、また、マトリョーシカという物体の面白さを、意匠の解体を通しても、人間と物質の差異を描いている点で、極、新しい発想なのである。



『マトリョーシカ』を初めて聴いた時に思ったのが、宮沢賢治の『注文の多い料理店』だったので、ずっと思考に残存していた内容を、今回取り上げている訳であるが、物事の解釈の逆転現象の様なものが、二つの作品の比較によって、浮上している。人間は、借り物だけでなく、しっかりとしたアイデンティティを持つべきだとも思うが、中々難しい問題でもある。


どう生きるかは、別にして、自分の在り方としては、『マトリョーシカ』の様に、意匠を解体しても、最後には確固たる自己の存在を持っていたいものだと、思いたいのである。こういった比較の前に、我々は、様々なことを考えるし、また、どうやって人生を生きるかが、問われていると、改めて思わされるのである。


※黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。

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