》Chapter 3―Toma
よく分からないこともあるものだ、と柚野は思う。
とある喫茶店の一角、窓辺の観葉植物がやたらと目を引く二人掛けの席に、舞切ナノハと名乗る少女と向かい合って座る、この状況。
柚野はしげしげとナノハを見やっては、まともに味を感じないアイスティーを適当に啜った。
どうやら純粋の日本人ではないらしい。髪色こそ黒だが、瞳の色はやけに明るいし、肌も雪のように白い。顔の彫りの深さからしたって、外国の血が混じっているようにしか見えない。
その割にファッションは日本寄りで、白のブラウスに深緑のリボンを掛けていて、カーキ色のプリーツスカート、テーブルの下に目を落とせばサイズの小さな革靴の先が投げ出されているのが見える。格好だけで判断すれば清楚系なのかもしれないが、やはり女というものは見た目によらない。
いきなり路地裏に連れ込まれて、おもちゃの銃を突き付けられた。この事実だけでも、どうやらこのナノハという少女はろくでもないと暗に示されているようなもの。
そのくせ、不覚にもこんな場所にひょこひょことついてきてしまったのは……そうさせるだけの容姿の魅力が、このナノハにあったからだろうか。
「それで、話っていうのは」
ナノハはやたらと周囲をキョロキョロ、どことなく緊張した面持ちで一向に口を開こうとしない。そんな彼女を見かねて、こちらから話題を振ってやる。
「あ……そ、そうね。こほん」
わざとらしい咳払いの後に、ナノハはこう言った。
「色々聞きたいことが出てくると思うけれど、とりあえずは話を聞いて。わたしの話に関して、答えられる限りの質問は後で受け付けるわ」
「うん」
随分と意味ありげな物言いだ。
これがもしテレビ番組のドッキリ企画とかであれば、どれほど良かっただろうか。しかしそんな雰囲気は微塵も感じられないし、加えて目の前のナノハの表情たるや、真剣そのものだった。そこまで深刻な出来事が起こっているというのだろうか――当然ながら身に覚えもない。
だからこそ、このナノハという少女の話をすべて聞き終えなければ、気が済まない。
「まず、もう一度自己紹介をしておくわ。わたしの名前は舞切ナノハ。日本人の父親とロシア人の母親を持っていて、今から六十二年後より、この時代のあなたに会いに来たの」
柚野は少し眉を顰める。
「ここ最近、世間を騒がせている5ちゃんねるの固定ハンドル『ISTA』――それはわたしが所属している組織の名前。そしてあの内容を打ち込み、投稿したのも、すべてわたし」
まさか。柚野は心の中で首を振る。
名乗るだけなら誰にだってできる。こういう大掛かりな事件になれば、自己顕示欲を暴走させた人間が「なりすまし」を行うことは珍しくない。
「……わたしの父親の旧姓は『柚野』だった」
「――!」
柚野は目を見開いた。
まだ自分はナノハに対して名乗ってすらいない。
「苗字を『舞切』に変えたのは、命を狙われていたから。父親の父親、つまり私から見て祖父に当たる人物、それの嫡男ということでね。実際には、おとうさ――わたしの父親は、科学の道から逸れた一般の人だったのに」
あまり理解が追い付かないが、つまりはナノハの祖父が大それたことをやらかしてしまい、その息子であるナノハの父までも命を狙われた、ということか。
「結局、父親も殺されてしまったわ。わたしの祖父と同じように」
ナノハがこちらを真っすぐに見つめてくる。
「目の前にいるあなた。柚野斗真と同じように」
脂汗がにじんだ。かすかに動悸が聞こえてくる。
「あなたが、わたしの祖父」
「馬鹿な――!」
「質問は! ……後から聞くと、そう言ったはずよ」
柚野は口をつぐんで、押し黙る。構わない、こんな話はホラに決まっているじゃないか。このまま話を続けさせれば、どこかに破綻が出る。ほつれが生まれる。そこを暴き出せ。そして追及しろ。
「あなたはこれからの人生で、『ISTA』という組織を作り、そのトップになる。そして半世紀の時を経て、あなたが遺した基礎理論を基にタイムマシンが完成する。わたしはそのデモ機に搭乗して、六十二年前よりこの時代へとやって来たの」
あくまで落ち着き払った口ぶりで、ナノハは続ける。
「さて、今日は『XDAY』――あなたも当然知っているわ。……今、世界はこの文字の意味するところを追究しようとしている。『ISTA』だけが、この言葉の真実を知っていると思い込んでいる。でも、それは間違っているわ。わたしたちでさえ今日、何が起こるか分からないもの」
なおさら意味が分からない。
では、どうして今日が『XDAY』などという意味深な投稿を行ったというのか。ただの愉快犯で、そういうことを書けば面白い反応を得られると思ったから――そういう動機だとでも言うのか。
「二〇一八年十月二十二日。これを『XDAY』と称したのは、他でもない未来のあなただった。わたしはその意味を知るために、ここにやって来たの」
「…………」
もはや二の句も告げない状態だった。
そんなはずはない。柚野だって、『XDAY』という表現の真意など知る由もない。むしろこちらが聞きたいぐらいのものだ。
「それを踏まえて、どうぞ。質問を」
乾ききった唇を舐めて、口に出そうとした声は言葉にならず、柚野は深く呼吸を繰り返す。まずは落ち着いて、情報を整理しなくてはならなかった。
「……じゃあ、一つ聞くよ。きみが未来人であることと、さっき話してくれたことすべてが真実であると、ここでは仮定しよう。そうした場合に、きみが未来のこと、そして僕のことをこんなに大っぴらに話すことは、非常に大きな問題があると思うんだけれど」
未来からの情報が提示されるということは、世界の歴史そのものを大きく変動させる危険性を有するということでもある。そのくらいのことは、SFの映画や小説なんかを読んでいれば分かることだ。
「問題はないわ。未来人たるわたしがいかなる干渉を試みようと、それがタイムパラドクスを引き起こす事項であったなら――わたしは手を出せない。これはつまり、歴史は永久不変であることを意味しているの」
「本当にそうだって言うの⁉ それじゃあ、僕が今からこのビルの屋上から飛び降りたら、どうなるって言うのさ!」
ナノハは淡々と答える。
「絶対に飛び降りることはできない、もしくはできたとして、あなたは絶対に死なない。わたしの存在がある以上、あなたは必ず六十六まで生きて、結婚して、子供であるわたしをもうける。これが、変えようのないあなたの歴史」
柚野は頭を抱えた。
まさか。本当にそんな運命が、自分を待ち受けているというのか。
確かにこの分野には興味もあるし、高校生としては物理学の知識も蓄えている方だと自負してはいるが……いや、そこまで普通から逸脱した人生を歩むような人間ではないことは、自分自身が一番よく分かっている。分かっているはずだ。
「信じがたいのは分かるけれど、これはすべて既定された事実なのよ。わたしがなにをここで教えて、あなたがそれを受けてどんな行動を取ろうとも――必ず決められたレールの上を辿るの。それが、この世界の決まりごとなのよ」
すべてが規定されている。
世界はそういうルールの上で進んでいるのだと、ナノハは言った。
ありえない、そんなはずはないと暗示するようにうわごとで繰り返したい気分だったが、このところの『第二のジョン・タイター』騒動、あれを顧みるに、ナノハの言葉は信用に値するものだと判定できる。
あれだけ大々的に報道されて、そのすべてが当たった。未来人が書き込みしたのかどうかが問題ではなく、予言が現にそのまま起こったという事実――これが大きなポイントだ。
どれほどの予防策を採ろうとも、必ず不毛に終わってしまう。規定されたイベントは、どのような介入をも跳ねのけて発生するということか。
「そういうことを踏まえたうえでの、今日は『XDAY』なの。あなた、今日なにか変わったことをした? あるいは、する予定がある?」
「ない、ないよ! 断じてないし、今日は普通の、変哲もない一日だった!」
「それなら、これからなにかが起こるという認識でいいかしら」
「知らない! 僕はなにも企んでもいないし、する予定もない! 家に帰って、こんなこと早く忘れて寝るだけだ!」
「なにを言ったって信用されないわ。あなた自身が記した『XDAY』だもの」
柚野は歯噛みをする。分からないものはどう頭をひねったって分かるわけがない。どうしようもないじゃないか、そんなことをいくら言われたって――知らないものは知らない。
「本当だよ! 僕はなにも知らない!」
「ついては……今、午後六時四十七分。これから今日が終わる午後二十三時五十九分五十九秒まで、あなたを監視させてもらうから」
「はぁ⁉ なに言って――」
声を荒げた瞬間だった。
ぞくり、と柚野の背中に怖気が走る。
テーブルに大きな影が伸びている。自分のものではないことは瞭然だった。
「実は仲間もいるの。ヴィクトル、よろしく」
柚野は恐る恐る、尋常でない威圧感を発する背後、そこを振り返る。
「よぉ、兄ちゃん。今日いっぱい、世話ンなるぜ」
身長が二メートルはあろうかという巨漢、顔面には凄惨な傷跡がはっきりと刻まれている。常人の太ももほどはあるかという腕っぷしには、キリル文字が淡々と彫られていた。
「別に好きなように過ごしていいけれど、すべての行為において、わたしたちの目の下に置かれることになるわね。まあ、そうは言っても今日が終わるまでの辛抱だから。二十四時を過ぎたら、わたしたちはあなたの下を去る。そのくらいは我慢してもらうわ……ヴィクトル、彼を連れて先に出てて。わたしは会計に行ってくるから」
「おう」
言うや否や、柚野は腕を巨漢の右手で掴まれた。
こうなってはもう手の施しようなどない。伝票をつまんで、それをひらひらと振りながらこちらを見ているナノハ、やがてその姿もヴィクトルの巨躯によって覆い隠される。
「ちょっと待ってよ! 家まで来るわけ⁉」
男には日本語が通じないようだった。なすすべもなく、柚野は半ば拉致されるようなかたちで店内を後にする。