》Chapter 1―Toma
皆も知っているように、今日は例の日だ。
念のため、完全下校時刻を六時とする。部活動に入っている生徒も、くれぐれも居残りはせず早めに帰るように。
先ほど聞いた担当教諭の文言を、空で繰り返す。
その日はなんの変哲もない月曜日で、十月の二十二日、仏滅。仏滅と言えど週に一度は訪れるわけで、やはり柚野にとってはなんということもない一日だった。
つまらない授業を聞き流し、日ごろからつるんでいる連中と飯を食い、ふと気づけば夕刻。
既に教室には柚野以外の人間はいない。差し込む西日が空間をオレンジ色に映し出すかと思えば、一方では薄暗い陰をたたえた場所が併存している。その狭間に、つまりは陽の光が届くぎりぎりのところに、柚野の席があるのだった。
キリの悪かった文庫本をようやく読み終えて、柚野はそれをボストンバッグへとしまう。ファスナーを閉じて、右手に持った。あまり教科書なんかを持って帰らないタイプなので、それほど重くはない。
鍵を閉めて教室を出る。長い廊下には、窓枠の陰が等間隔に刻まれている。それがずっと先まで続いて、柚野はどこかファンタジーめいた錯視を覚えた。すぐに柚野は首を振って、目を閉じたまま夕方の異空間たる道を歩んでいく。
職員室に鍵を返却したあと、不意に背後からポンと肩を叩かれた。
「よぉ、斗真」
コンピューター研究会の酒井だ。
ぼさぼさの髪に黒縁の丸メガネをかけていて、身長は小さい方、理系科目が得意で国語や社会は苦手という、オタク理系男子のいくらか種別のあるステレオタイプ、その内の一つに該当しそうな身なりである。
「よ」
とだけ、柚野は返す。
入学当初は共にコンピ研へと入ったものだが、柚野は日に日に部室へ足を運ぶのが面倒になってしまって、今では立派な幽霊部員としてその名を部内に馳せている。酒井はというとこの一年で副部長まで昇進したらしく、そのことを昼休みに自慢げに聞かされたのも記憶に新しい。
「俺たち的にはかなり面白いよな、今回のやつ」
いきなり、酒井はそんなことを切り出した。
「なにが?」
「なにがって、すっとぼけんなよ。『第二のジョン・タイター』だよ。5ちゃんねるに出没したあいつ。お前も知ってるだろ」
西暦二〇〇〇年に現れた稀代のタイムトラベラー、ジョン・タイター……の、模倣犯というべきか。
アメリカの掲示板にて現れた彼と同様、日本の掲示板に「未来人」を名乗る固定ハンドル『ISTA』が現れたのが、ちょうど一週間ほど前。
もちろん柚野も知っている。というか、知っていないはずがない。
そんなこと、世間に疎い引きこもりだろうが、常識を捨てたスラム街のヤンキーだろうが、外の空気をしばらく吸っていない入院患者だろうが、誰でも知っている。世間のニュースと呼ばれるニュースはほとんど、この話題で持ちきりなのだから。
「今回のはマジだもんな。もう日本、いや世界中で大騒ぎでさ、うわさでは宇宙人の地球侵略が始まるんじゃないかってんで、米中露その他西洋諸国、軍隊まで動かしてやがる」
実際には警戒レベルを高めた程度のものだろうが、それでも『ISTA』の影響力の範囲は恐ろしいぐらいだ。たかだがネットの、便所の落書きとも揶揄される掲示板の書き込み一つで、オカルトマニアはおろか国家までをも動かしている連中が、この日本にいるのだから。
「予言したの、ほとんど当たったらしいね」
「そうそう。十月十六日時点で、それ以降の四日間の予言をほぼ的中させてる。日本で言えば埼玉の恐喝殺人だろ、あとイランの局地的紛争、インド洋のタンカー漏洩、カナダでのエアバス機墜落未遂事故、」
ワールドニュースの一面を飾るような出来事を、『ISTA』はすべて予言し、的中させている。
「ともかく、あれは本当に未来人だ。間違いない」
「そうかもしれないけどさ……ああいう掲示板に書き込んだら、躍起になって特定しようとする人がいるんじゃないの。『ISTA』を」
「いるいる。鬼女板とかJとか、その辺の特定作業に自信奴が束になってかかってるらしいが、まったく足取りが掴めないんだと。Tor使って繋いできてるから、そりゃあペンタゴンでもなけりゃ特定は容易じゃないだろうな」
「日本にいることは確かなんだっけ?」
「分からん。ただ、その書き込まれた日本語の文章というのがあんまり上手じゃないらしくてな。ロシア語でも同じ内容の書き込みがされるらしいが、現地人によるとそっちの文はまったく自然なものだと。もしかしたら、ロシアンタイムトラベラーなのかもな」
柚野は酒井と肩を並べて歩く。下駄箱のある玄関へと近づいている。
「やつらは今日のことを『XDAY』とだけ記述して、それ以降は音沙汰がないそうだ。一体、なんの目的なんだろうな」
「タイターみたく、未来人の任務ってやつじゃないの」
「やっぱりそうなのかねぇ」腕を組んだまま酒井は神妙そうに続ける。「にしても、XDAYとはこれいかにって感じだったな。今日はもう終わるじゃないか」
「どうだろう。イギリス時間かもしれない」
「しかし、書き込んでるのは日本の掲示板なんだぜ? そりゃあ現地時間だろう。これでグリニッジ標準時だったら一斉にツッコミが入んぞ」
玄関脇の壁にかけられた時計を見た。午後六時、五分前を差している。
「酒井は? 帰らなくていいの」
「ばぁか。俺らはずっと部室に籠城さ。なにが起こるか、ネットを通して目撃すんだよ。呑気に家に帰ってちゃ、得られる情報も得がたくなるからな」
テレビよりも新聞よりも、もっとも手早く情報を手に入れられるのがインターネットなんだよ。そんなことを、酒井は毎日のように言っていた。確かにそうなのだろうが、その即時性に反比例するように、情報の信憑性は失われがちじゃないかと柚野は思う。
「今日は寝ずにスマホに張り付いとけ。なにか分かったら、ライン飛ばしてやるから」
「うん。そっちもほどほどにね」
「大丈夫だよ、ネット監視は部長と交代制でやってっから」
振り返ると、既に酒井は自分の持ち場へと方向転換したところだった。小さなその背中はなにも語らず、ただ右手だけをふらふらと上げ、別れの合図を送っている。
じゃあな、とさえ言わない関係にあるのは、この酒井しかいないかもしれない。
柚野もまたなにも言わず、少しばかりの笑みを口元に残してローファーを履く。
時刻は五時五十八分。
柚野は小走りで、黄昏に染まる校門の外へと急いだ。