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ヌイノと名乗った人物は、恐らくは俺の人形だろう。俺の記憶がオレの所にある以上、それが入る筈だった体が別に存在することは、想像に難くない。
だとすれば、俺の姿をしたヌイノは今どこにいるのだろうか。クリニックを後にしたその足で、オレは俺の部屋がある集合住宅を訪れていた。郵便受けの奥に仕込んだ二重板を外すと、スペアの鍵はそのまま残されていた。
埃を被っており、しばらくの間は誰も触れていないらしい。
螺旋状の階段を上っていき、五六四号室に辿り着く。不用心にも鍵はかかっていなかった。オレは、俺の姿をしたヌイノとの対決を予感した。
しかし部屋の中は無人だった。単に鍵をかけ忘れただけだったのか、それともオレの前に誰かが訪れたのだろうか。考えられるとしたらそれはミロイ本人だ。ミロイなら隠した鍵の位置も知っているし、そもそも合い鍵を持っている。
部屋の配置は記憶とは大きく変わっていなかった。少し気になる点は、真ん中のベッドを境に部屋の様子がきっぱりと分かれていることくらいだ。確かに以前からこの通りになっていた筈なのだが、俺はそのことについて大して気にしていなかったようなのだ。これはオレになったからこそ気になった点、ということか。
全体的にやや物色された形跡はあるものの、概ね変化は見受けられなかった。枕元の鏡は、ミロイの姿になったオレを映している。
枕元にある他のもの、卓上カレンダーや電子時計も記憶のまま置かれている。表示は十四日。おかしな点はない。
クローゼット側を調べてみる。床一面に散らばっているのはどれもこれも“人形師殺人事件”に関わる資料ばかりだ。しかし、ここでまたひとつ疑問が持ち上がった。俺がこの資料を集めていたのは、確かに記憶の中にある。しかし、いったいどういうつもりでこの事件を追っていたのか――それがまったく分からないのだ。行為は分かるものの、そこに付随している筈の意図が、オレの中からすっぽりと抜け落ちていた。
資料を細かく見ていく。新聞や雑誌の切り抜きの他に、犯行現場の位置をチェックしてまとめた地図や、詳細な時間帯、中には警察の捜査資料など、相当危ない橋を渡らなければ手に入らないようなものも見受けられた。これほどまでに調べ上げることは、かなりの執念がなければ不可能だ。いや、執念以上のものを感じる。病的なまでにこの事件について、かなりの情報を念入りに調べ上げ、まとめていたのだった。
猟奇殺人事件に対して、ある種の猟奇性を思わせる痕跡にぞっとしながら、今度は窓際を調べることにした。
こちらは対照的に健常に見えた。まるで生活感のないクローゼット側と違って、ここで生活していた俺の人となりが見えてくるようだ。
しかしそれでもいくつか気になる点はある。写真だ。どれもミロイと撮った写真だった筈だ。それは記憶としてしっかりオレの中に残っている。しかし、どの写真もミロイの映っていた部分が真っ黒に塗りつぶされていたのだ。俺はこんなことはしていない。ということは、俺以外の誰かがこのような細工をしたことになる。
だが、一体何のために? 俺とミロイの関係を断って得をするような人物がいたというのか? それとも、まったく別の意図がここにはあるというのか。ひょっとして、俺の姿をしたヌイノが、何らかの目的でこのような細工をしたのだろうか。
異常性を物語るように、すべての写真においてミロイの映っている部分が黒で塗り潰されていた。どろどろとした感情が涌き出てくるような、異様さを感じる。
もしこの細工をしたのが、俺の姿をしたヌイノだとしたら、ミロイが危ない。この部屋で待っていれば、ミロイはやって来るだろうか? 今、ミロイはどこで何をしているのだろう。
考えてみれば、これ以上ここに長居すると、俺の姿をしたヌイノと鉢合わせる可能性の方が遥かに高い。どのようなやつか分からない以上、こんな密室で二人きりになるのは避けるべきだろう。武器があれば話は別だが、それも今はない。それに対決するにしても、判断材料が今は少なすぎる。
悩んだ末、オレは置手紙を残すことにした。ミロイなら、きっとこれに気付いてくれるだろう。
オレはサイドボードの写真立ての裏に、置手紙を残した。
〈決してヌイノに気を許すな〉
写真立てを伏せ、オレは部屋を後にした。