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冷たい風が頬を刺した。季節は冬に近いらしく、俺は身をすくめながら家を出た。俺がさっきまでいた部屋は集合住宅の一室、五六四号室だった。
螺旋状の階段を降りて行き、建物の外へ出る。見上げた空を切り刻むように、無節操にビルが建ち並んでいた。道路を挟んだ向かい側にも、おんぼろの雑居ビルが建っている。
出てすぐ右手には生臭い酒場が、左手には古いレコードショップがある。どうやら市街地のようで、人の往来は多かった。目の前の道路を、排気ガスを吐き出しながら車が行き交う。下水のような匂いが鼻腔にまとわり付き、あちこちで紫煙が立ちこめていた。下品で、どうしようもなく不潔な街だ。こんなところに俺は住んでいたのか。
少し歩いたところでタクシーをつかまえ、例の名刺を見せる。タクシードライバーは無愛想に頷くと、アクセルを踏み込んだ。
景色が走り始める。流れ出した人の群れを何気なく見つめていた俺は、その中のある一人に目を奪われた。間違いない! なぜだか分からないが、その人を見た瞬間に俺の中で歯車が噛み合ったのだ。そう、きっと俺は、あの人を知っている――直感的だが、そう思った。そしてその直感は、おそらく正しいだろう。俺の中にあるこの衝動は、あの人に向かうものなのだ。
「止めてくれ!」
俺は叫んでいた。衝動的にタクシーから飛び出し、その人の後ろ姿を追おうとした。しかし、その人は瞬く間に人混みに紛れ、俺はその姿を見失ってしまった。
あの人は、誰なんだ? なぜ俺はこうも、あの人に惹かれたのだろう。感情に対するその意図が、記憶を失った俺には分からなかった。
辿り着いたクリニックは、街の中心部に位置していた。総合的な医療施設らしく、老若男女を問わず様々な人間が訪れている。
正面玄関を入った受付で移植医師の名刺を見せると、内線を繋いでくれた。迎えに来たのは若い女の看護師だった。
息苦しささえ感じる白い廊下を通り、俺は診療室に通された。目の前に座る移植医師は、若い男のようだった。
大きなマスクに隠れて表情が読み取れず、くぐもった話し方で声音も分かりにくい。しかし記憶も無いのにおかしな話だが、どこか懐かしいような感じがした。
「記憶が無い、ですか」
目覚めた時には記憶がなかったと話すと、移植医師は少し考える素振りを見せた。
「はい、先生。とにかく、自分が誰か思い出せないのです」
「おかしいですね、手術は何の問題も無かったのですが」
手術。そう、手術だ。カレンダーにも書かれていたが、俺は何の手術を受けたのだろう。
「ヌイノさんは、人形化手術を受けられました」
“人形化手術”とは、生体人形に個人の記憶と人格を移植し、疑似的な不老不死を得る手術なのだという。この国では制度化されており、その移植手術を専門とする職業が移植医師なのだった。
「一体何のために、俺はその手術を?」
「さて。それは私の預かり知らないことですが……あなたは恋人の方と一緒に受けられたので、流行りの人形婚でしょう。最近の若い人の間ではよくあるんですよ」
恋人。俺が見かけたあの人は、俺の恋人だったのだろうか? そうであるなら俺の中に生じた感情にも説明がつくし、あの人を追えば俺の記憶を取り戻すことができるかもしれない。
「恋人の住所ですか? さて……私には分かりかねます。私があなたに渡せるのは、あなたから受け取った記憶媒体だけです」
「それは何ですか?」
「今回のあなたのようなケース……滅多に無いのですが、記憶の移植が不完全だった場合。問題なく実生活に戻れるように、あなたの記憶に関係する資料を事前に受け取り、記憶媒体という形にまとめて保管しているのです。それさえ閲覧すれば、記憶の大部分を取り戻せるように。いわば記憶のバックアップですね」
移植医師に案内されたのは、いくつもの引き出しが並ぶ部屋だった。引き出しはその一つ一つが個人の記憶媒体を保管する金庫なのだという。移植医師はその一つの前に立ち、じっと中を覗き込むと無造作に取っ手を掴んだ。ピピッと電子音が鳴り、金庫はあっさりと引き出された。
もっと厳重なものを想像していた俺には、なんだか拍子抜けだった。移植医師は中から一つの箱を取り出し、俺に渡した。抱えて持てるくらいの大きさの、白い箱だ。重量はそれほどでもなく、むしろ軽いと感じるほどだった。
「中を見ても?」
「どうぞ。なんなら私は席を外しますが」
なんとなく俺自身も知らない俺を見られるのも気が引けたので、移植医師には席を外してもらい、俺は箱を開けた。