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ヌイノの演説は以上だった。廃工場は水を打ったように静まりかえっていた。
最初に異変に気付いたのは、イラルだ。イラルは真っ先に、ベンテの目に明確な殺意が宿ったことを察知した。
「それですべて、もはや語り残したことはないんだな?」
「そうとも。私たちに関するすべてを、包み隠さずお話ししたつもりだ」
ベンテは地を蹴って駆け出した。手にはしっかりと、ナイフが握られている。
「っ、ベンテ!」
ミロイが悲鳴を上げる。ヌイノに肉薄したベンテは、その刃をまっすぐ突き立てようとした。
だがヌイノは、それをいとも簡単に避けた。当然だろう、一連の殺人事件で被害者をまず殺害していたのはヌイノなのだ。そのような乱闘はお手の物だった。
「離せ! 息の根を止めてやる!」
「正直、私はもう君には興味が無いんだ」
暴れるベンテの腕をねじりあげながら、ヌイノはため息をついた。その視線はイラルの方へ向けられている。
「私に必要なのは“人形を作るための記憶”だ。ベンテの人格に用は無い。君は手に入れたんだろう? ベンテの記憶媒体を」
ヌイノは実に楽しそうだった。小さな虫を見つけた子供のような、無垢にしてぞっとする笑顔だ。
「正直、先生がその体を処分したと聞いた時は肝が冷えたよ。まあその償いは十分にしてもらったけどね。私のメッセージはどうだったかな? お気に召しただろうか」
「悪趣味なものを見せてもらった。お前とは趣味が合わないようだ」
本物の移植医師を殺したのは、ヌイノだった。そしてそのレポートをミロイの地下室に置いておいたのも、このヌイノだったのだ。
「嫌われてしまったかな? でも君が生き延びたことが分かって、私は心底安心したんだよ。そうだ、私の変装は中々のものだったろう? 二つの人形、そのどちらに私の記憶があるか知りたかったから、あんな回りくどいことをしたのだがね」
なり代わった偽物の医師も、このヌイノだった。自分自身を探し回る二つの人形を、ヌイノは嘲笑いながら観察していたのだ。
「しかも、バックアップまで持って来てくれるとは嬉しい限りだ」
「バックアップとは、これのことか?」
イラルは懐から〈ヌイノ〉の記憶媒体を取り出した。ミロイの金庫にあったものだ。
「それは、ヌイノの……いえ、それこそがベンテの記憶媒体だったのね」
「その通りだ。だが、なぜお前がこれを処分しなかったのか、今なら分かる。お前は言っていたな、〈どこか期待していた〉と。お前はヌイノを通してベンテを見ているようで、その実ヌイノのことも見ていた。その逆もまた、真実なんだ。だからお前は自分の感情が分からなくなった。本当に愛しているのはベンテか? それともヌイノなのか?」
そうでなければ、ベンテの人格には本当に何も残らない。イラルは、自分も間違えばあのようになっていたかと思うとやりきれない気持ちだった。しかしミロイは、イラルの問い掛けに答えることはなかった。
「そのバックアップ、素直に渡してはもらえないかな?」
ヌイノの言葉に、イラルは記憶媒体を膝で叩き割ることで答えた。音を立ててハードディスクが真っ二つになる。ついにベンテの記憶は、イラルだけが持つことになったのだ。
「おや、意外に荒っぽいんだね。困ったことをしてくれる」
「じゃあなんだ、オレを解体して脳髄から記憶を引っ張り出すか?」
イラルの言葉に、ヌイノは首を振る。
「君から引っ張り出さなくても私が入ればいい。この肉体を捨てて、私の記憶と人格をその人形の体に移植するのさ」
ぞっとするような笑み。それはまさしく、何人もの人間を無残に解体してきた猟奇殺人者の顔だった。
「悪いがオレの身体は満席だ」
「だったら、無理やりにでも詰め込むしかないな」
ヌイノはベンテからナイフを奪い取ると、そのまま喉を切り裂いた。おびただしい量の飛沫を上げ、ベンテの体から力が抜ける。
「あ、ああ! ああああ! もうあなたの中の誰が誰でもいい、そのナイフでわたしを切り裂いて!」
倒れ伏すベンテを足蹴にし、ミロイはヌイノにすがった。その瞳は恍惚に濡れ、頬は赤く染められている。
「いいや、そんなことはしない。君はさんざん私たちの邪魔をしてくれたんだ。私たちは君の玩具ではない」
怒りの感情だった。ヌイノはすがりつくミロイを引き離すと、懐からメスを取り出してその足元に投げ捨てた。
「気持ち良くなりたいなら、一人でどうぞ」
ミロイはそのメスが“人形師殺人事件”で使用されたことを知っていた。まるで盛りのついた雌のように、彼女は狂喜してそれを手に取った。
「狂ってやがる」
悦楽的に自傷行為を行うミロイを見て、イラルは吐き捨てた。
「さあ、どうする。私としては、次の身体であるその人形を傷つけたくないのだが」
「たとえオレが自分自身で胸にナイフを突き立てたとしても、人形なら修復できるんだ。そんな言葉は嘘にもならん」
イラルは右ポケットからダガーを取り出すと、鞘を外して構えた。抜き放たれた白刃が、ヌイノを冷たく見据える。
「怖いな、それでどうするつもりかな?」
「オレはお前らの贖いをする」
イラルの言葉を、ヌイノは一笑した。
「贖いか。だが君に私が刺せるかな? いくら私の記憶を持つとはいえ、君自身は人を刺したことはないだろう」
「やってみせるさ」
ダガーを振り上げ、イラルは駆け出した。振り下ろされた刃はしかし、空を斬った。間髪入れず、イラルは返す刃でヌイノの首筋を狙う。ヌイノはそれを距離を取ってかわした。
「残念、惜しかったね」
「余裕そうだな。だが、理解しているか? 有利なのはお前じゃない、このオレだ。刺し違えれば、残るのは人形の方だ」
事実、イラルに対するヌイノの動きは制限されていた。人形であるイラルに対して、ヌイノは生身の人間。損傷に対する重みが違い過ぎる。たとえヌイノがイラルを刺したところで、それは同時に致命的な隙となってしまう。文字通り刺し違えられるのだ。
またヌイノにとって、例えば獲物からの予期せぬ反撃などはそれこそ慣れたものだったが、イラルのような最初から戦闘を目的とした相手への対処は、初めての経験だった。
「ほら見ろ、もう後がないぞ」
「……やるね」
ヌイノは壁際近くまで追い込まれていた。ダガーを振り回しているだけのようで、イラルは実に冷静だったのだ。
じりじりと、二人は距離を測って睨み合っていた。ヌイノにとって最善の手は、直接手を下すことなくイラルを無力化することだ。間違ってもナイフで戦ってはいけない。
だが地の利はヌイノにあった。ヌイノはこの数日間、この木造の廃工場を拠点にしていたのだ。内部がどうなっているかなど、知り尽くしている。
「どうした? 怖気づいたのかな?」
「言ってろ」
膠着を破ったのは、イラルだった。逆袈裟に振りかぶったダガーで、ヌイノに斬りかかる。ヌイノはそれを一歩下がって避けた。しかし、それこそがイラルの狙いだった。
イラルは体を反転させながら、左ポケットに隠していた催涙スプレーをヌイノの顔に向けて噴射した。すべてはこれを喰らわせるための布石だったのだ。
しかし、ヌイノはその動きを読んでいた。イラルの腕を弾き、スプレーを回避する。すかさずヌイノは、隙の生じたイラルの背後を取った。
「しまっ……」
イラルは身構えた。しかしヌイノの反撃は、ほんの些細なものだった。だがそれでいて、最大の効果を発揮するものだった。
ヌイノがしたことは、イラルの背中を押して突き飛ばしただけだ。しかしその先には、老朽化で脆くなった床があったのだ。
「罠にはまった気分はどうかな? 切り札が催涙スプレーとは少し驚いたが、どうせならもっと上手く隠すべきだったね」
「くっ……畜生め」
足をとられたイラルを拘束することは、ヌイノにとって造作もないことだった。ヌイノはイラルの首筋にナイフを押し当て、勝ち誇ったように笑った。
「さて、どうしようか。四肢を落とせば少しはおとなしくなるかな?」
だが、ヌイノは気付いていなかった。イラルの言葉に隠されていた意図を、ヌイノはまるで考慮していなかったのだ。
刺し違えれば、残るのは人形の方だ。
ヌイノのうなじには、メスが深々と突き立てられていた。ヌイノが殺人に使い、ミロイが悦楽に浸っていた、そのメスだ。
突き立てたのは、喉を切り裂かれながらも動いた“人形”だった。
「まいったね……これは」
それが全ての決着だった。




