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そう、俺は為さねばならない。目覚めた時、漠然と頭に浮かんだ感想だった。でも何をしようとしていたのか、こうして考えているが一向に思い出せない。そもそも、俺は朝起きてまずどうしていたのだろう? 目を開けた時、俺には一切の記憶が無かった。
見覚えの無い部屋だった。そして、奇妙な部屋だった。部屋の真ん中にベッドがあり、それを境に部屋は二分されている。窓側は綺麗に片付いているのに、クローゼット側はひどく散らかっていて、ベッドの足側には玄関に続くと思われる扉があった。
俺は混乱していた。同時に恐怖もあった。自分の置かれている状況が、まるで把握できないのだ。
枕元には鏡が置かれていた。自分の顔を映してみるものの、なんともいえない感じがする。なにしろそこには、自分とは思えない顔が写っているのだから。しかしその顔は俺が眉を動かすと同じように眉を動かし、大口を開けたり唇をすぼめたりすると、これまたその通りに変化する。どうやらこの顔は俺の思い通りに動くらしい。見覚えの無い顔が俺の随意で動く様は、非常に気味が悪かった。
いずれにせよこういう顔をしていたらしい俺は、今や全ての記憶を失っていた。俺は誰で、何をしようとしていたのか。それが綺麗ぽっかりと抜け落ちているのだ。ならば探さねばなるまい。今も強迫観念のように――焦燥感にも似た感情が、俺の胸中で渦巻いている。それは耐え難いことだった。
枕元には鏡の他に、卓上カレンダーと電子時計が置かれていた。今日の日付は十四日。カレンダーの予定は空白だ。しかし前日の十三日には“手術”と書かれていた。俺は病気を患っていたのだろうか? これだけでは分からない。
まずはこの部屋の、綺麗に片付いている方から調べていくことにする。自分のことを知るために部屋を調べるのは当然のことに思えたし、今の俺にとってはこの部屋にあるもののみが俺に繋がる手掛かりなのだ。俺が何をしようとしていたのかは分からないが、まずは俺自身について知ることが先決だろう。
ベッドから降りて、窓側に近付く。白いサイドボードの上に立てかけられたコルク板には、いくつか写真が貼られていた。どれも幸せそうな笑顔を浮かべた写真だが、いずれも一部を真っ黒に塗り潰されていた。まるでそこに、何か見られたくないものが写っていたかのように。とりわけ写真立てに入った一枚の写真は、まわりの景色まで念入りに黒で消されている。この写真が一人で撮られたものなのか、それとも誰かと撮られたものなのかは分からない。だが塗り潰されていないところに映っているのは、紛れもなくさっき鏡で見た俺の顔だ。どうやらここは俺の部屋で間違いないらしい。
サイドボードの引き出しを開けていくと、一番下の引き出しに一冊のノートが入っていた。開いてみると、日記のようだった。俺が書いたものなのだろうか。
二か月ほど前からの日記で、ところどころ日付が飛んでおり、お世辞にも几帳面とはいえない。それに書かれているどの日も一言、二言で終わっており、内容も今日は何をしたかを書いた簡単なメモ、記録くらいで、参考になりそうになかった。ひとつだけ気になる点があるとすれば、それは十二日の次のページが破り取られていることだ。その日以降は空白のため、恐らく破り取られたのは十三日のページだろう。ということは俺が記憶を失ったのは、十三日以降のことになるのだろうか。
それ以上何か手掛かりになるものは見つからなかったため、ベッドを跨いでクローゼット側を調べることにする。
まず目を引いたのは、床に散らばった多数の切り抜きだ。どれも一連の連続殺人事件に関する新聞や雑誌の記事で、俺はこの事件を追っていたのかもしれない。
事件の内容は非常に陰惨なものだった。趣味でこの事件を追っていたのだとすれば、俺は相当な悪趣味だったのだろう。切り抜かれていたのはいずれも“人形師殺人事件”と名付けられた、一連の猟奇殺人事件に関する記事だった。
“人形師殺人事件”。約二か月前から発生している連続殺人で、今月十日の時点でその犠牲者は九名にも上っていた。犯人は被害者を殺害後、その体をバラバラに解体し、分割された遺体を今度はまるでドールのように、球体関節を埋め込んで繋ぎ合せるという。実際、発見者は口をそろえて「最初は死体だと思わなかった」と証言している。それほどまでにある意味では美しく殺人を犯すこの犯人は、やがて“人形師”と呼ばれ、そしてどうやらまだ捕まっていない。
散らかった窓側は、この殺人事件に関する新聞の切り抜きや資料で埋め尽くされていた。そのせいだろうか、ひとつだけ異質な物が目についた。
それは名刺だった。“移植医師”という肩書の、一枚の名刺。これだけがぽつんと、資料の山の上に置かれていたのだ。この移植医師が、何かを知っているのだろうか。枕元のカレンダーに書かれていた手術と、この移植医師は何か関連しているのかもしれない。名刺にはクリニックの住所も書かれている。まずはここを訪ねてみることが、きっと今の俺にできる最善の行動なのだろう。
クローゼットの上着を羽織ろうとして、俺は内ポケットの刺繍に気が付いた。
名前だ。どうやら俺の名前は、ヌイノというらしい。