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ホーテンダリアの眠る夜  作者: 秋月 アスカ
2.ホーテンダリアと少女の人形
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第五章

 最初に二人を襲ったのは、どさり、という乾いた衣擦れの音だった。

 魂の抜けたヨハンの身体が地面に崩れ落ちたのである。


 二人ははっとしてその亡骸に目をやったが、そこに生命の欠片も感じ取れないことを知ると、すぐさま視線を空に戻した。ヨハンという器を捨てた悪魔の黒煙が、ぐんぐんと空に昇って凝縮していく。やがて真っ黒な毛糸玉のように小さくなって、次の瞬間、パッとその場に拡散した。


「! なんだ?」

 悪魔の掻き消えた夜空に、セシルが戸惑いの声を上げる。


「まだよっ、そこにいる!」


 リアンはなおも宙を睨みつけたまま鋭く叫んだ。よくよく目を凝らせば、微かな「もや」となった悪魔がまだその場に漂っているのが見て取れる。しかし「もや」はほとんど闇夜の黒に同化して、気を抜けばすぐに居場所を失してしまいそうであった。リアンの人形を抱える手に自然と力が入る。


「どうするんだ!?」

「どうしようもないわよ!」

 セシルの問いに間髪置かずリアンが言葉を返す。まるでその返事をあざ笑うかのように、「もや」がその場にゆらりと揺れた。


 そして――

 小さく風が吹いた。それは優しく、とさえ言えるほど穏やかに二人の頬を撫でて――直後、その背筋を凍らせた。


「――来るわ!」


 リアンが叫んだ。

 セシルが息を呑んだ。

 ――重圧が、辺り一帯を包み込んで支配してゆく。

 空気が張りつめ、闇夜が揺らぎ、街が震える。

 

「セシルッ、あなたは逃げて!」

 唐突に、リアンがセシルを庇って前に飛び出した。

「なっ……」

 セシルは驚きのあまり言葉を詰まらせた。だがすぐさま目の前の華奢な身体を横に薙ぐように突き飛ばす。男の力で思い切り突き飛ばされたリアンは後方に大きく吹き飛んで尻餅をついた。


「きゃ!」

「バカッ、お前は近寄るな!」

「バ、バカって……バカはあんたよ、大バカセシル!!」

 思い切りわめいて、リアンはどうにか体を起こす。「ほんっとバカ――」

 だがしかし、今は呑気に悪態をついていられるような事態では、到底なかった。

「あぁ、もう! 知らないっ!」

 リアンはなんとも投げやりに言い放つと、手の中にあったアンティーク人形を、あろうことかセシルに向かって投げつけた。哀れ少女の人形は、もちろん成す術もなく宙を舞う。

 目の前まで飛んできた人形をセシルが反射的に受け止めようとしたときだった。


「――ぎゃあああああ!!!」


 闇夜の空気をつんざくような、激しい悲鳴。

 まさにこの世のものとは思えぬほどのおぞましい叫び声が辺りを覆いつくした。

 悲鳴と同時に人形の身体から火花が飛んだ。セシルは思わず人形から後退る。


 ――それが、全てだった。


 受け手を失った人形は鈍い音を立てて地面に転がった。その後は完全なる沈黙が取って代わって広がった。空気も凪いだ。いつもと変わらぬホーテンダリアの夜が、戻ってきた。


「……」

 セシルは訳が分からずその場に立ち尽くしている。それはリアンも似たようなものだった。地面に両膝をついたままの状態で、道に転がる人形を呆然と見つめている。

「……う、まく、いった……の?」

 ぼそり、とリアンが呟いた。

「なんだって?」

 セシルは未だ放心状態から抜けきらない様子だ。

「その、人形が、その」

 リアンもそれは同じらしい。

「うわーっ! うわああっ!」

 二人の間を割って入ったのは、全く別の声だった。少しくぐもったように響く、男のものとも女のものともつかぬ奇妙に中性的な声。まるで生気の感じられない音ではあるが、非常にうろたえ焦っているのが不思議と感じられた。

「な、なんだっ。これはどういうことだっ。まさか、まさかっ」

 わあわあと一人慌てるその声の源が、どうやら件の人形であるらしいと二人が気づいたのはそのときだった。

「おいっ、そこの女、お前一体、何をしたっ」

「……あんた、あの悪魔?」

 幾らか気分の落ち着いたリアンが、そろそろと人形に近寄っていった。

「そうに決まってる!」

「ほんとに?」

「お前が俺を閉じ込めたんだろう、何でお前が聞いてくるんだ!」

「うわぁ……、あ、そう」

「おいっ、俺の質問にも答えろよ! 俺に何をしたんだ!」

 リアンはひょいと人形を拾い上げた。そしてスカートから手鏡を取り出すと、人形の目の前に突きつけてやる。


「……ぎゃー!!」

 なんとも悲痛な叫びが人形から立ち上った。しかしどうにもこもった声なので迫力はあまり無い。


「なんだこれはっ! ただの古臭い人形じゃないか! 俺が今、この中に閉じ込められているだと?」

「おいリアン、どういうことだよ」

 同じく事情が飲み込めないらしいセシルが、堪りかねたようにリアンに尋ねた。

「見ての通り、悪魔の魂がこの人形に収まったわけ。さっき、悪魔があなたの身体を乗っ取りに動いたでしょう。そこへ私がこの人形を投げ込んだから、悪魔はセシルじゃなくて人形に憑依しちゃったのよ」

「お前、最初からそれを狙ってたんだな?」

「もちろん」

「そうか、だからあの時俺を庇うようにして――実際は、その人形を突き出す予定だったのか」

「それなのにセシルってば、考えなしに動くから! イチかバチかで人形を投げつけたけど、あれこそタイミングが合わなければ一巻の終わりだったのよ」

「考えなしって、お前なぁ。何も知らされてないんだから仕方ないだろう。俺はお前を巻き込むまいと思って、わざわざ……」

「待て待て待て!」

 際限ない口論に突入しそうな二人を遮ったのは、またしても例の悪魔であった。こちらはこちらで納得できないことが山積みらしい。

「俺が人形に憑依しただと? そんなこと、あるはずがない! 第一、俺の能力は『憑依』じゃない。『魂喰い』なんだぞ! 魂のないものの身体を奪うなんてこと、できるはずがないんだ!」

「残念でした」

 にやり、とリアンは底意地の悪い笑みを浮かべた。

「この人形はね、ただの人形じゃないの。あなたのお仲間――『この世ならざるもの』の魂が宿った人形だったのよ」

「な、なんだって?」

「私も『もの』に魂はあるのかどうか、少し不安だったんだけど。まあ、同じ『もの』の仲間であるあなたにあるんだものね、そういうことなんでしょう。だからあなたは、『もの』の魂を喰らって、この人形を新しい『器』として手に入れたということになるわけよ」

「そ、そんなっ、そんなことが、あるはず」

 ない、と言いかけ、悪魔は言葉を切った。実際問題として、今ここにいる自分が全ての答えになっているではないか! 悪魔は絶望に打ちひしがれた――のかどうか、その澄ました外見からは読み取ることができないが、とにかくショックを受けていることだけは確かなようだった。

「『この世ならざるもの』が宿った人形――いいのか、こんなことに使ってしまって」

 セシルの問いにも、リアンは冷ややかに頷いただけだ。

「いいのよ。どうせ、高笑いするしか能のないつまらない『もの』だったんだから。黙らないならどうなっても知らないって、最初にちゃーんと確認しておいたもの」

「くそっ、手も足も動かせない。何もできない! お前ら、覚えてろよ。この人形から出た暁には――」

「あら、出られる日なんか来るのかしら?」

「なにっ?」

「今までは、時が経てば『器』と波長が合わなくなって身体を追い出される日が来たようだけど、今の『器』は生き物じゃない。波長もへったくれも無いんじゃないの。私が思うに、未来永劫ずっとそこから追い出されることはないんじゃないかしら」

 その台詞が、悪魔へのとどめとなった。悪魔は完全に凍りつき――そう見えた――、それからその晩は一言も言葉を発さなかった。


・  ・  ・


 翌日、昼過ぎになってようやくリアンはベッドから抜け出した。


 昨晩はあの後が大変だったのだ。

 完全な亡骸となったヨハンの身体をセシルが背負い、丘の上のアスハルト家まで運ばねばならなかった。そして変わり果てた息子を見た両親は、覚悟していたこととはいえやはり大きく取り乱し、彼らをなだめるのにも苦労した。ようやく彼らが落ち着いてから、今度はこれまでの経緯を説明するよう求められ、その後に御礼という運びとなって、家路についたのは明け方も近い時刻だったのである。


「おはよう、リアン」

 一階骨董屋の、リアンの定位置である一人がけソファに身を沈め、さて一息ついたという頃合になって見計らったようにターニャがやって来た。はっと目の醒めるような彼女の赤毛が、今のリアンには眩しく映る。


「おはようって……もう昼過ぎじゃない」

「あら、だっていかにも眠そうな顔してるわよ」

「だって眠いんだもの。で、どうしたの」

「うん、例のアスハルト家の息子さんが亡くなったって、正式に発表されたの。それで今日、この後葬儀を行うって。だからリアンが何か動いたのかなと思ってね」


 まるで自分が野次馬のようだと思っているのか、ターニャにしては控えめに呟いた。しかし、考えてみればヨハンの話を持ってきたのも彼女、それを封じる人形を持ってきたのも彼女。事の顛末を知る権利は十分あるように思われた。そこでリアンは、結局ヨハンに悪魔が憑いていたこと、それを払ったためにヨハンは死んだこと、その悪魔は預かっていた人形に封じ込めたのだということ――をかいつまんで話してやった。


「そんなことがあったのね。リアンもお疲れ様。でも流石よね。やっぱり『もの』はリアンに任せるに限るってことかしら」

「なによ、この間は『あんまり首を突っ込みすぎるな』なーんて言ってたのに」

「それはそうだけどさぁ。だけど本当に、おかしな事件だったわよね。『この世ならざるもの』に人が身体を乗っ取られるなんて。そんなこと、絶対あり得ないと思ってた」

「それは私もびっくりしたわ」

 そして恐ろしいとも思う、とまでは、口にしなかった。下手なことを言ってターニャを怖がらせても仕方がない。


「――あれ、リアン喪服着てるの?」

 山積みの本やら何やらが邪魔をしてターニャからは見えていなかったようだが、確かにリアンは黒いワンピースを纏っていた。

「ヨハンのね、葬儀に……やっぱり行かないと」

 いかにも物憂げな様子でリアンは溜息をついた。

「ターニャが代わりに行ってくれてもいいんだけど」

「私が何の代わりになるってのよ!」

 と、そこへガランガランと扉の鐘が音を立てて、新たな来客を知らせる。

「あ、セシル」

 ターニャ越しに見れば、自衛団員の礼服をきっちり着込んだセシルの姿が目に入った。昨晩はほぼ徹夜であったというのに、そんな様子は微塵も見せずしゃんと背筋を伸ばして立っている。つくづくタフな男だと、リアンは思う。


「何? そのカッコ。正装なんかしちゃって」

「これからヨハンの葬儀があるだろう。自衛団からも何人か出席する」

 そういえばそういうものだったかとリアンは納得した。元ホーテンダリア領主の家系の、跡取りが亡くなったのだ。その葬儀となればそれなりに大掛かりなものになるのだろう。ふと気がついて黙ったままのターニャに目をやると、微かに頬を染めてセシルをちらちらと見上げては目を逸らしている。ははあ、なるほど。


「それで、何でここに?」

「お前も夫妻から葬儀に呼ばれていただろう。だが、お前のことだから顔を出さないつもりじゃないかと思って立ち寄ってみたんだ。――まあ、その格好を見るとちゃんと出席するつもりではあったようだが」

「いいえ、危ないところでしたよ。私が諭しておきましたけど」

 ちゃっかりとターニャ。

「もうっ、子供じゃないんだから自分のことは自分でちゃんとするわよ。――さあさあ、もう出かける時間でしょ。行きましょう、遅刻なんてできないわ」

 言いながら、リアンは立ち上がった。さっさと支度を整えると部屋の隅に置いてあった例の少女の人形を取り上げる。それを見て、セシルとターニャは共に顔を歪ませた。

「リアン、その人形、まだ持ってたの?」

「というか、お前ずっと手元に置いておくつもりか?」

 飾って気持ちのいい物でないのは、リアンが一番分かっている。しかしそう簡単に捨てるわけにもいかないではないか。

「こいつには葬儀に一緒に参加してもらいます。何の罪悪感もなく人の命を奪ったけれど、残された人がどれだけ辛い思いをしてるのか、その目でしっかり見てもらおうじゃないの。――大丈夫、『宵迎えの鐘』が鳴るまではこいつもただの人形よ」

「いい年して人形を抱えて葬儀に出るなんて、聞いたことないわ」

「式の間、俺の側には寄らないでくれよ」

 その言いようにはリアンはむっと唇を尖らせた。

「ふん、お二人ともさっきからずいぶん気の合うことで」

 セシルは話が分からぬというように眉を寄せ、ターニャは慌てたように真っ赤に顔を火照らせた。


 葬儀はリアンが思ったよりもずっと質素なものだった。

 しかし夫妻の落胆ぶりは見るも哀れで、特に妻カミラの悲しみようは他の参列者の涙を誘わずにはいられなかった。埋葬される直前まで棺にすがって涙を流し、息子の名前を呼び続けている。


「……分かるでしょう、これほどまでに人は誰かを愛することができるのよ。どうしてそこまでってあなたは思うかもしれないけど。でもだからこそ、人は尊いものなんだって……思ってもいいんじゃない?」


 埋葬の棺を囲う人垣から少し外れた木陰に立って、リアンはぽそぽそと人形に話しかけた。もちろん人形から答えは返ってこない。だが何となく、人形の中の悪魔も神妙な気持ちでこの景色を見守っているような感じがした。


「誰かを愛する、だから尊い……か」

 自分の台詞を反芻して、リアンは少し苦笑した。

「おい、葬式で何をにやついてる」

 いつの間にやら側に立っていたセシルが、ひじでリアンの腕を小突く。

「にやついてるんじゃないの、ちょっと感傷に浸ってたのよ」

「はあ? お前が?」

「人のこと何だと思ってるわけ。それより、自分に近寄るなって言ったのはそっちじゃなかった?」

「……だからって、お前は列から離れすぎだ。最後の見送りくらいちゃんとしろよ」

 ほら、と背中を押され、リアンは否応なく埋葬の輪に向かって足を進めた。

 ゆっくりと、太陽が空を茜色に染めて地平線の向こうへ沈んでいく。この地方の古い葬式では、ちょうど埋葬の時間が夕暮れ時になるよう考えられているのだという。太陽が大地に身を横たえ一日の終わりを迎えるように、死者にも安らかな眠りが訪れるよう、そして必ずまた天高く昇ってくれるようにとの願いが込められているのだそうだ。


(でも)

 リアンは静かに夕日を見つめた。

(この街は、太陽が沈んでもまだ眠らない。いいえ、宵を迎えてからが本当の目覚めの時――)


 そう、ホーテンダリアは、眠らない。

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