第一章
ホーテンダリアは不思議な街だ――。
訪れる旅人たちは、揃って去り際にそう口にする。
居心地はいい。昼間は多数の街頭商人たちが明るい声を出しながら練り歩いているし、若い女性たちが連れ立って買い物をしている姿などは、他の街ではなかなかお目にかかれぬ光景だ。夜は夜で、そこかしこにある陽気な飲み屋の灯火が、客の笑い声を乗せて路地を優しく照らし出す。
住人たちは外の人間にも愛想がいい。一つの宿に数日も留まっていれば、宿の隣の住人から差し入れが届くことすらそう珍しいことではなかった。
だが、一体なんだろう。
この漠然と胸に広がる、拭いきれない不安の影は。
それは、「宵迎えの鐘」が街に鳴り響く時に一層強く胸を打つ。
「宵迎えの鐘」は、ホーテンダリアの慣習の一つである。
毎朝七時から一時間ごと、街一番の高さを誇る時計台の鐘が鳴る。
それは夜の七時を差すまで繰り返され、以降は次の朝日が昇るまで沈黙を保っている。
「宵迎えの鐘」とは、一日の最後、夜七時に鳴る鐘のことを指す。大きな音で、三回。数秒の間を置いて、再び三回。それが何故だか、旅人たちの心をかき乱して止まないのだ。
しかし、それこそ一週間もこの街に滞在すれば、不安の正体を知ることができる。
闇に包まれた街の中で不意に沸き起こる小さな違和感。さっと側を吹きぬけるそよ風のように、ほんの一瞬、曖昧に存在を主張する何者かの気配。それが単なる気の迷いではないと確信するのに、大した時間はかからない。やがて誰もが気付くだろう――この街には、「この世ならざるもの」たちがひっそりと息を潜めているのだということに。
夜、「宵迎えの鐘」の後で、彼らは静かに街を侵食し始める。
誰もいない街角から響く女の歌声。無邪気に走り抜けて忽然と消えてしまう子供の背中。独りでに開いては閉まる空き家の窓。
不可思議なのはそれだけではない。この街の住人たちは、そんな彼らに恐れという恐れをまるで抱いていないのである。
笑顔の住人たち、その横を通り抜ける「世にあらざるもの」たち。
この街では、光も闇も同じように受け入れられてしまうのだ。それが、旅人たちには得も言われず恐ろしい。
だが、どうしてなのだろう、嫌いにはなれない。
ホーテンダリアは、不思議な街だ――。
・ ・ ・
どさり、と年季の入った古本の山を机に置いたところで、リアンはむっと顔をしかめた。
ほこりの量がすごい。
むわんむわんと遠慮なしに舞い上がる無数のほこりは、あっという間に狭い部屋を一巡して、やがてまた落ち着いた。
「あーあ、こんな古臭い本ばかり置いていたら、いくら掃除したってすぐ部屋が汚くなっちゃうわ」
リアンは不機嫌そうに呟いた。
軽く部屋を見回しただけでも目に入る、ガラクタの山、山、山。
ガラクタ――いや、ここは彼女の名誉のために、「骨董品」と言い直しておくべきか。
とにかくこの部屋には、ありとあらゆる「骨董品」が所狭しと並べられていた。
もう動かない古時計。怪しげな知識を授ける錬金術の指南書。ビードロの瞳だけがなお美しい碧眼の人形。大陸の形が微妙に間違った木製の地球儀……。
いずれも、「今」という時代に身を委ねるのをやめてしまった、時の放浪者たちである。
リアンは山積みの古本を一冊ずつ手に取り、気だるげな仕草で本棚に仕舞い始めた。
全部は戸棚に入らないだろうから、残った分はこのまま放置だ。そういう適当な片付けを続けてきたせいか、部屋は整理整頓の「せ」の字も無いほど恐ろしい様相を呈している。これが骨董屋だからまだ味のある空間と言えないこともないのだが、そうでもなければ、味も何も無いカタストロフィだと人は断言したであろう。
棚に立てかけた本の背表紙が読み取りづらい。
少し目を細めて、部屋全体が薄暗がりに包まれていることにようやく気がついた。もう日がほとんど沈んでいる。残りの本を詰め込めるだけ詰め込んで、リアンは部屋に数ヶ所置いてあるランプに灯をつけて回った。それから窓辺に腰かけ、頬杖をついて往来の様子をぼんやり眺める。
心なしか、急ぎ足で通りを行く人々。普段のこの時間と比べれば、確実に出歩く人の数は少なかった。
理由は分かっている。「宵迎えの鐘」の鳴った後まで街を出歩くのは、今のホーテンダリアではあまりに危険だからだ――生死に関わる程に。
もともとホーテンダリアは、他の街とは気質が異なる。
他所ではおとぎ話の一つでしかない「怖い話」が、ここホーテンダリアでは現実に起こりうるものとして住人たちに認められている。
夜になれば、「この世ならざるもの」たちが姿を現す。それがこの街での常識だ。もはや住人たちは、多少の怪奇現象には慣れっこだ。たとえ一人きりの裏通りで「ねぇ」と耳元に囁く声を聞いてしまっても、飛び上がって逃げ惑うような輩は存在しない。
それなのに、近頃のホーテンダリアときたら。
「宵迎えの鐘」が鳴り響けば、それこそ薄気味悪い程に人の姿が見えなくなる。
特に、男の姿はぱっと数えられる程度になってしまうのだ。それというのも、数週間前から現れた「この世ならざるもの」があまりに恐ろしい性質を持っていたからであった。
と、そのとき不意に、扉の開く音がした。
ガランガラン、と鈍い鐘の音が狭い部屋に響き渡る。
「あ、いらっしゃい」
「客じゃない」
入ってきたのは、自衛団の黒い制服を身にまとった一人の若者だ。帽子の影で表情はよく見えないが、それでも明らかに不機嫌な面持ちをしていて、またそれを隠そうともしていなかった。
「本当に来てくれたのね、セシル」
「仕方ないだろう。近頃不審者が店の周りをうろついているから見廻りに来てくれ、と頼まれたら」
「それがお仕事だもんね」
「でなければ、誰が好き好んでこんな気味の悪いところへ来るか」
セシルと呼ばれた青年は、何の遠慮もなく、忌々しそうに吐き捨てた。
この骨董屋よりも、むしろリアン自身を苦手にしているようである。だがしかし、当のリアンは全く気にする様子もなく、さらりと澄ました声でセシルを促した。
「まあとりあえず、そんなところに突っ立ってないで入りなさいよ」
「いや。特に変わったこともないようなら、すぐ失礼する」
言葉も少なく、セシルは踵を返そうとする――が、もちろんリアンは許さない。
「変わったことなら、これから起こるんですけど」
「これから? どういうことだ」
「今、説明してあげる。ほら座って。温かいお茶でも出してあげるから」
「……」
本当にしぶしぶ、といった様子で、セシルは部屋の真ん中までやってきた。手近にあったイスを引き寄せ、浅く腰かける。それから部屋を逡巡し、小さく溜息をついた。
まもなくリアンがトレイを持って戻ってきた。
「はいどうぞ、私お手製のハーブティーよ。体の芯まで温まるから、秋の夜長の夜警にはぴったり」
「お前お手製? なにか変なものでも入ってるんじゃないだろうな」
「失礼な」
「で、何なんだ。不審者がうろついてるとか言ってたが、近頃は泥棒も姿を見せていないはずだろう」
気の進まない様子ながらも、セシルは問いかけた。しかし確かにその通りだ。泥棒だって、今頃は戸締りを完璧にして自室に閉じこもっているに違いない。
「うん。泥棒じゃなくてね。花嫁衣装着た若い女の不審者なんだけど」
――ガシャン。
セシルは乱暴にカップを置いた。明らかに動揺している。なるべくさりげなく告げたつもりだったのになあ、とリアンはこっそり肩をすくめた。とはいえ、その反応はまあ予想の内だ。
「お前……、はめたな」
「なんのこと?」
「いい、帰る」
立ち上がりかけたセシルの腕を、がしりと掴む。
「なによ! 一人暮らしのか弱い女の子が不審者に困ってるっていうのに、自営団の人間がそれを見放すわけ?」
「なにがか弱い女の子だ! 安心しろ、お前は害虫並の生命力の持ち主だろう。どんな世界でも一人で生きていける。保障してやる。だから放せ」
「放さないわよ」
ぴしゃり、と氷よりも冷たい声音が部屋に響いた。
こういう声を出す時のリアンは、非常にタチが悪い。何かよからぬことを企んでいるに違いないのだ。そのことを身をもって知りつくしているセシルは、溜息を一つついてリアンに向き直った。
「またお前、事件に首を突っ込むつもりか」
「仕方ないじゃない、私くらいしか『始末』できる人間がいないんだから」
リアンは拗ねたように肩をすくめた。
「というと、今回の件は、どこかから依頼が来てるのか?」
リアンは時たま、「この世ならざるもの」に手を焼いた街の住人から依頼を受けて、事件の解決に動くことがある。彼女には、何とも説明のつけられぬ不思議な心得があるのである。成功すればそれなりの報酬を貰えるので、もっぱらリアンの収入源は骨董品の売り上げよりもそちらにあると言えるだろう。しかし今回は、気のなさそうに首を横に振るばかりだった。
「そうじゃないけど」
「一銭にもならないのに危ない仕事に手を出すなよ」
「私もなるべくただ働きはしたくないんだけどね。でもだからって、このまま放っておくわけにもいかないでしょう」
もう何人も被害者が――死人が出ている状況なのだから。
セシルもいくらか真面目な表情になって、再び椅子に腰掛けた。
「今回は一体どうするつもりだ」
「うん、順を追って話すわ」
夜の帳が下りるころ。
先ほどよりも随分闇が深まった。
いつの間にか街には数々の灯りがともされ、淡いオレンジ色が薄暗い通りを照らし出している。
あと一刻ほどもすれば「宵迎えの鐘」が街に響き渡ることだろう。そうすれば、人の領分を越えた「何か」がざわざわと動き出す。
ざわざわ、ざわざわ。
それは、もうすぐそこまでやって来ている。
リアンはそっと窓の外に目をやり、どこか遠くをじっと見据えた。