◆93.想いは閃光(ひかり)に乗って。
ガラガラ、ドーン! と雷の音が響く度。
「キャー!」という妃沙の声と。
「ハァ……」という知玲の溜め息が洞窟内に響いている。
その理由は、と言えば……
「……ねぇ妃沙、今は女の子なんだしさ、少しは怖いとかビクつくとかって態度を見せてみない? 君の雷好きは前世から知ってるけど、僕は苦手なんだよ?」
「何を仰るのです、知玲様! あの空を切り裂く閃光にドキがムネムネしないなんて可笑しいですわよ! この音さえオペラをも凌駕するスペクタクルロマンですのに……!」
「だから! 僕は苦手なんだって言ってるじゃないか! それにこの大雨じゃ、この孤島から陸には帰れないんだよ?」
「大丈夫ですわ! おそらく雨はすぐ止みますし、時化た海は明日の朝くらいまでは落ち着かないでしょうけれど、この島には天然の食料もあるのですわ!」
楽しそうな妃沙と知玲の横顔を、また大きな音を立てて空を切り裂いた雷の光がピカッと照らす。
うわっと声を上げて思わず妃沙に抱き付いてしまった知玲を、妃沙は「大丈夫、大丈夫」なんて余裕な表情で微笑みながらその二の腕当りをポンポンと優しく叩いていた。
念の為に再確認しておくが、今、知玲と妃沙は水着一枚を身に纏った状態で、その為、知玲に至っては上半身は裸なのだ。
遠泳の後にこの場に来た為にパーカーなんていう気の利いたものも用意していなかったし、狭い洞窟の中で肌と肌が触れ合うこの状況に、健全な男子である知玲が何も感じない筈もない。
なお、こと恋愛に関しては健全すぎる経験しか持たない中身を宿した水無瀬 妃沙は通常営業だ。
必死の努力で平常心を保とうとしている知玲をよそに、花火でも見ているかのようにキャッキャと雷に向けて拍手までしているザマである。
「自然の醸し出す芸術をこんな特等席で拝見出来るなんて奇跡ですわね!」
「イヤもう、あえて言うけどキミには危機感がなさすぎるよね!?」
ピカピカドーン、ザーー! という一連の流れに対する女子高生の反応としてはおかしすぎる妃沙の態度に対する知玲のツッコミは至極当然のことだ。
妃沙にとっては雷はエンターテインメント以外の何物でもないらしいし、知玲もそれは生まれる前から知っていた事実ではあるのだけれど、今現在、可愛らしい容姿を持つ妃沙より、男らしい外見の自分の方が雷に怯えてしまっているという事実を、知玲は払拭したいようである。
「我慢しなくて良いのですよ? 前世から雷の鳴る日はわたくしの布団に逃げて来ていたではありませんか。さぁ、安心してこの胸に飛び込んで……」
「冗談でもヤメテ! 今、こんな状態で君に抱きついたらヤバいことに……」
雷よりも怖いのは幼馴染だとつくづく理解する知玲。
だが相手は天下の鈍チン・水無瀬 妃沙だ。
今、彼女は自分の性別とか、自分達の衣服の事だとかまるで考えていないらしい。
──その証拠に……ギュ、と、上半身が裸な状態の知玲に抱き付いて来たのである。
「き、妃沙!? 今では僕も強くなったしさ!? 前世みたいなことをしてくれなくても……!」
「何をおっしゃいますの? こんなにドキドキなさっているではありませんか。前世から雷が鳴るとこうして貴方を落ち着かせておりましたでしょう?」
ドキドキしてるのは君のせいだよ、なんてツッコミはとても言う事が出来ない程に、珍しく知玲は動揺しまくっている。
当たり前だ、薄着の状態で想い人と抱き合っているのである。
その素肌からは相手の体温を直に感じる事が出来るし、自分を安心させようとでもしているのか、可愛らしく微笑む表情にすら理性を奪われそうだ。
長年『男』として生きて来た知玲だから、高校生となった今ではもう、誰かを想って欲望を爆発させるなんていう恥ずかしいことも……経験済、ではあるのだけれど。
その相手が目の前にいて。
ましてやその時の対象ですらあって。
裸に近い程度の布でしかその身を覆っていなくて。
元々は女子だとか、紳士でいようとか、怖がらせたくないとか。
そういう面倒臭い理性は、見事にパーン、と飛んでしまったようである。
「……君が悪いよ、妃沙。僕を煽った責任、取ってよね?」
そう告げて、自分に張り付いていた彼女の華奢な身体をトン、と押し倒す。
驚いた表情で自分を見上げるその大きな蒼い瞳に、ドクドクと心臓が波打つのが解る。
「……妃沙……」
囁いて顔を近づけ、思う存分に甘い雰囲気を纏いながらその小さな唇を堪能しようとした所で……
「止めて下さいまし、知玲様……」
──笑ってしまうではありませんか、と、雰囲気ブチ壊しの爆笑を放つのもまた、知玲の想い人・水無瀬 妃沙、その人なのであった。
───◇──◆──◆──◇───
床に押し倒された、いわゆる『床ドン』の状態。
妃沙は水着一枚を纏い、知玲の顔を見上げて爆笑している。
目に涙すら浮かべて笑い続ける彼女に、知玲もなんだか気分を削がれてしまい、そっと押し倒した状態から身を起こした。
当然、面白くはない。真剣な気持ちを馬鹿にされたような……妃沙がそんな人ではないと良く知ってはいても、そんな気分になってしまったのだ。
「……僕は真剣なんだけどな。妃沙、君ってこんな風に人の真剣な気持ちを嘲るような人だっけ? なんだか……少し悲しいよ」
身体を起こした妃沙の前では、しゅん、と項垂れた知玲が何故だか正座の状態で解り易く落ち込んでいる。
千載一遇のチャンスをモノに出来なかったことか、今まで知らなかった妃沙の一面を知ってしまったような切なさとか、彼の心中はとても複雑だったのである。
だが、そんな彼の様子に、あわわ、とようやく事態に気付いた妃沙が泡を食って両手をブンブン振っている。
彼女だって知玲にこんな表情はさせたくないし、そして彼を馬鹿にするなんてもっての他なのだ。
だから、彼女があんな真剣な場面でつい大笑いをしてしまったのには、別の理由があった。
「ち、違うのです、知玲様! 先日、さきほどの状況に良く似たシチュエーションを体験しておりまして、その時の事をつい思い出してしまったのですわ!」
──そうして妃沙が語る『良く似たシチュエーション』。
それは先日、葵と妃沙の絡みが見たい、と、充の姉である雫と、何故だか莉仁と行った繁華街で出会った神野藤 ミカなる人物が学園に乗り込んで来たのだ。
学園の生徒にもファンの多いSHIZUこと雫はこの学園の非常勤講師も務めているので学園内にいるのは不思議ではなく、妃沙とその周囲を『ネタの宝庫』と呼んでは度々こうして襲来するので、妃沙もその周囲も慣れっこだ。
だがその日は、学園の日常を切り取る為にカメラマンを呼んだ、と言ってミカと一緒にやって来ており、開口一番にこう言った。
「スランプなの! 次のネタは美しき百合なの!! 美少女同士の絡みが今の私には必要なの!!!!」
雫の背後では土下座すらしそうな勢いで充が手を合わせて妃沙達に謝罪の意を示していたのだが、妃沙も葵もSHIZUのファンであったので、自分らに出来ることなら何でも、と請け負った結果。
教室内での壁ドン、体育館での床ドン、昇降口での脚ドン、挙句の果てには顎クイやらキス寸前のシチュエーションに至るまで事細かく注文を付けられ、写真に収められてしまったのだ。
その写真を世間に公表することは決してないということだったので、妃沙と葵はノリノリで注文通りに演じていたのだけれど、さすがに床ドンの状態で見つめ合うのは少し恥ずかしくて。
「……妃沙おまえ……こんなに可愛い顔してたっけ?」
「葵こそ……いつの間にこんなに素敵な表情をするようになっていらしたんですの?」
微笑み合い、見つめ合い、後に二人であの時は恥ずかしかったよなーと話しながら大笑いしたあの日のことを思い出していたからに他ならない。
──その話を聞かされた知玲は、ガクーッと解り易く肩を落として妃沙の目の前で更に深く項垂れている。
「つまりは、その時の状況を思い出して、今、まさに真剣な本番に臨んだ僕とのシーンでつい笑ってしまったと、そういう訳だね?」
「……ええ、あの……申し訳ないのですがそういうことですわ……。しかも、その時に葵が言ってくれた言葉がまた最高で……」
「彼女は何て?」
「……お前を一番理解し護る騎士はアタシだよ、と……。わたくし、不覚にもトキメいてしまったのですわ……」
ガクーーッと、更に深く、解り易く肩を落としてその場に蹲る知玲。
無人島に二人きり、しかもお互いの衣服は水着一枚という状況で必死で醸し出した甘い雰囲気。
それを邪魔したのは、まさかの『親友枠』にいたはずの少女であった。
しかも、記憶違いでなければ、彼女は先日、無事に幼馴染であるこの国期待の野球選手・颯野 大輔と想いを通わせ恋人同士になったはずである。
確かに、妃沙が葵に対して看過できない程に心を寄せていたのは知っていたけれど、一番大切な場面を邪魔する程のものであったのかと、知玲は一人、臍を噛む。
「……葵は葵で、自分を取り巻く環境が少し変わってしまったことで、わたくしとの絆が弱まるのは絶対に嫌だと悩んでいたそうなのです。ですからその……わたくしに対する愛情を表に出したいと言って」
遥 葵ィィーー!! と恨めしげに項垂れて床をドンドンと叩く様は、天下の鳳上学園の女生徒達をキュンキュンさせている副会長の姿だと断定するには少々難しいようである。
だが今、妃沙の心を占めている割合としては彼女を無視出来ない事もまた深く理解しているのだ。
もちろん、こと恋愛レースにおいて彼女は敵ではないけれど、時々こうして自分と妃沙の関係に邪魔になる程に、妃沙は葵に心を砕いている。
前世では『友達』だの『親友』だのというものに無縁だった妃沙だ、今世を生きている中で、恋人が出来てもなお、自分に心を砕いてくれる同性など葵くらいのものだし、その性格も言動も、知玲ですら見習いたい程に男前であることは知っていたのだけれど。
「……ねぇ妃沙、なんでそれを今思い出すの? 本当にすごいよね君は……」
……僕の戦意を喪失させることに関しては世界一だと告げる知玲。
そして、我らが残念な主人公は、それをとても肯定的に受け取ったようである。
「お褒めに与り光栄ですわ!」
「イヤ、褒めてねぇから!!」
そうですか? と悪戯っぽく微笑む妃沙の表情を見て、知玲は自分がハメられたことを悟る。
曲がりなりにも男として過ごした経験を持ち、今もその中身は男子の意識の方が強い妃沙だ、こんな密室で薄着の女子と二人きりになれば感じる衝動に対し、経験も理解もあるのだろう。
知玲のそれがただの生理的な欲求ではないことはほんのりと感じていながらも、それを軽くいなしたのは、危険を察した訳ではなく、知玲に対する気遣いなのかもしれない。
……もっとも、知玲にとっては余計なお世話と言わざるを得ないものだけれど。
「……降参! まったく君は、どうあっても僕を大切にしてくれて……正直、大切にされ過ぎて苦しいくらいだよ、妃沙」
「差し当たり、天候が回復するまではここで二人で雨宿りするしかありませんし、気まずいよりは楽しく過ごしたいではありませんか。けれど……」
囁くようにそう言って、ピトッと知玲に身体を寄せる妃沙。
言葉とは裏腹なその態度に、思わず知玲が息を飲むのもお構いなしに、再び悪戯っぽく微笑んだ妃沙が言った。
「気温が下がって参りましたし、風邪をひいてしまってはこの後の避暑も楽しめませんものね。少しだけ……こうしていてもよろしいですか?」
自分を見上げる上目遣いのその表情に知玲が何も言えずにいるのを肯定と受け取ったのか、妃沙がそのままコテン、と彼の肩に頭を乗せ、振り続ける雨と、少し遠くなった雷を見つめている。
そしてポツリと呟いた。
「雨も雷も……元いた世界と変わらない。貴方の優しい温もりも……よくこうして、貴方の肩に頭を乗せて眠っていたことを思い出しますわ」
「……朝のバスの中? あの時間が……僕も本当に好きだったよ」
うん、と小さく声を漏らし、妃沙も前世で一番好きだったのは、優しい朝の光に包まれたあの時間だったなぁ、と思い返す。
自分と同類の奴らは夜行性が多いから、ヤンキーぶる必要がなかった、あの時間。
夜遅くまで活動していた次の日なんかは早起きは辛かったし、弁当も止めちまおうかと思ったこともある。
けれど、毎朝飽きもせず明るい声で自分を呼ぶ彼女を……とても眩しいものを見るような気持ちで見つめていた。
幼馴染だからとか、側にいてくれる唯一の人だからとかそういう理由で守りたかった訳じゃないよな、と、龍之介に立ち返りながら物思いに耽る妃沙。
叶わない願いだとは解っている。
だけどもう一度……夕季に逢いてェな、なんて考える妃沙の瞳から、ツルリと一筋の涙が零れ落ちた。
「……妃沙?」
「なんでもありませんわ」
隣にいる知玲の中から消えて行く夕季の気配。
けれどその精神は、消えたのではなく融合されているのだと理解はしている。知玲の中に夕季はいるのだと。
そして、本当に夕季に逢いたいのは『妃沙』ではなくて『龍之介』なのだ。
叶うなら、もう一度。
龍之介として夕季に逢って、伝えたい言葉が、感じたい温もりがあったなぁ……と、願っても仕方のない事を考え続ける自分にフ、と苦笑を落とす。
「何を考えているんだろうね、妃沙……いや、今は『龍之介』かな。その諦めたような笑い方は妃沙じゃないよね。
大丈夫だよ、ここには僕しかいないから、無理して妃沙でいなくても良い。以前にも言ったけど……僕は妃沙のことも龍之介の事も選べないし、どっちも大切」
コテン、と、自らの肩に載せられた妃沙の頭に自分の頭を乗せる知玲。
彼の瞳もまた、振り続ける雨と時折響く雷のその先に過去を見ているようである。
「諦めないでよ、妃沙。僕を側にいるのに何も出来ないなんて情けない存在にしないで。そんなの……前世だけでたくさんだ。
もう傷付かないで。君はさ……大人しく僕の隣で楽しそうに笑っていれば良いんだ。本当はね、龍之介にだってそんな風に笑っていて欲しかったけど……前世の僕は非力だったね」
妃沙の手をキュッと握り、もう片方の手で自然な素振りで瞳に浮いた涙をそっと拭う。
もうすっかり融合したと思っていた筈なのに、龍之介に釣られるようにして心の表面に出て来た『夕季』の後悔や絶望や……そして焦がれた恋心は、今の知玲には少し重くて。
自分はいつのまにか、ぬるま湯のように幸せなこの環境に甘えていたんだな、とすこしだけ後悔する。
夕季だって決して不幸ではなかったけれど、とにかくこの世界での自分は将来を約束された良家の御曹司で、前世よりずっと身体能力にも容姿にも恵まれている。
だからって手を抜く事はなかったけれど……それでも、前世よりずっと楽に目標を達成して来たのではないかと思うのだ。
何故だか妃沙には、それを見透かされているんじゃないかと怖くなる。
そしてそんな自分に見切りを付けて、他の……もっと努力を続けている人の所に行ってしまったりしたらどうしよう、なんて恐怖が心を支配して、思わず握った手に力を込めてしまった。
「何をおっしゃいますの。前世よりもずっと、今世の貴方の方が努力をなさっているではありませんか。
周囲からの期待、良家の御曹司という重圧、そんなものを受けても立派に結果を残しているのですもの。
それに、夕季様だってきっと、あの事故がなければ国を制する程の結果を残していた筈ですわ。どちらの貴方も、非力なんてことは決してございませんわ。非力なのはいつも……わたくしの方」
キュ、と握り返された手の温もりから、龍之介の後悔が流れて来るようだ。
けれども知玲は、例え本人とは言え、龍之介を否定されるのはまっぴら御免だった。
「……何を言うの。君が本気で世界を目指したら、どんなジャンルでだって素晴らしい結果を残せたはずだ。だから……妃沙、今度こそ諦めないで才能を開花させてよね。
僕はね、龍之介にも妃沙にも……その溢れる才能に、何処か嫉妬しているよ。優しい心根も、曲がったことが大嫌いな性分も、目の前のことにすぐ夢中になっちゃう無邪気さも、僕にはとても眩しい。
そしてね、そんな君を誰にも見せたくないって気持ちと、これが僕の大切な人だって自慢したい気持ちがせめぎ合ってて……もう、毎日大変だよ。葛藤して悶えて……好きで、好きでしょうがない」
ばーか、と呟いた妃沙の声の中に、龍之介の存在も確かに感じる事が出来る。
優しいその言葉に、深い幸せを感じる知玲と、現世でもこんな風に言う事が出来るんだな、と新たな発見に少しだけ驚いている妃沙。
二人の周囲には、相変わらずの雨音と雷の音が聞こえていたけれど、彼らを包む空気はとても優しいものなのであった。
──過去には戻れない。その絶対的事実があるからこそ、今を大切にしなくちゃな、と、図らずも二人とも同じ結論に達していたのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「知玲お前、大丈夫なの?」
知「何が?」
龍「ホラ、男には色々あんだろ。心配すんな、生理現象だし。何だったら見ないフリしてやっから……」
知「ワーワーワー!!!! 何を言い出すんだよキミは!? そういうことばっか鋭くなくて良いから!!」
龍「えー、でもだって、ツラいだろ……?」
知「……雰囲気ブチ壊し。マジでデリカシーの欠片もない。なのにどうして僕は……」
龍「?」




