◆92.秘密のきちちゃん
「海! 海ですわぁぁーー!!」
キャー! と珍しく歓声を上げて砂浜に走り出る金髪の美少女。
その身体を覆うのは白地に赤いドットが映えるワンショルダーのトップ。裾と肩口に品の良いレースが装飾されている。
下半身は露出の高過ぎない白のレースがふんだんに使われたスカートタイプ。両腰のあたりに飾られた赤い花のコサージュが良い感じのアクセントになっており、肌の白い彼女にとても良く似合っていた。
赤いビーチサンダルを履き、白い砂浜を駆ける姿に人目が注がれるのは、太陽の光を弾くような金髪や華奢ながらも存在を主張する大胸筋、キュッと締まった腰や細くて長い手足などという外見的な特徴もあったのだろうけれど、何よりも太陽のように眩しくその小ぶりな顔の中に咲いた満開の笑顔が老若男女問わず目を惹いて止まないようである。
「知玲様、ほら早く、早く!! 海がわたくしたちを呼んでおりまわよ!」
「こら、妃沙! まだ日焼け止めを塗り終わってないんだから外に出たらすぐに肌が真っ赤になっちゃうでしょ!」
家族が用意したのだろうテントの中から慌てて彼女の後を追って飛び出して来る少年。彼もまた一目見たら視線を外すことが出来ない程の美少年であった。
オニキスのような煌きを放つ黒髪はその白く秀麗な顔と完璧に調和した形に切り揃えられており、整った顔の中央に据えられているアメジストのような瞳は今、大きく見開かれ、テントから飛び出した少女を追いかけている。
パーカーこそ羽織っているものの均整の整った体格といい、良く鍛えられた筋肉といい、陽の光を反射するかのような白い肌といい、まるで彫刻のように美しい少年である。
その彼が、前を走る金髪の美少女をあっと言う間に捕まえ、そっとその腕の中に閉じ込める様は青春映画の一コマのように絵になる光景であった。
「海に入ってしまったら日焼け止めなど意味を成さないではありませんかッ! わたくし、延々と泳ぐつもりで参りましたのにッ!」
「ウォータープルーフの日焼け止めに僕の遮光の魔力を込めてるから効果はある筈だよ。毎年日焼けしてお風呂に入る度にヒーヒー言ってるのは何処の誰? 君の準備が終わらないと僕だって泳げないよ。
遠泳で勝負する話、こんな事で反故にするのは君だって嫌でしょう?」
勝負、という言葉にぷぅ、と頬を膨らませながらも了承の意を表す金髪の少女──水無瀬 妃沙。
「日焼け止めくらい自分で塗れますのに……」
「だーめ。役得なんだからこれだけは譲らないよ。ほら、妃沙。さっさと準備を済ませないと時間ばかりが過ぎちゃうよ?」
悪戯っぽい微笑みをその花の顔に浮かべて幸せそうな微笑みを見せつける美少年──東條 知玲。
自らがチョイスした水着を身に纏った想い人のあまりの愛らしさに戦々恐々としながら、『勝負』というパワーワードで自分の側に彼女を留め置く事に成功した知玲の表情は、妃沙に見惚れる男子達からすれば羨望と嫉妬の気持ちを抱くには充分な程に勝ち誇っている。
だが、剣道という武道で高校生限定とは言え日本一の功績を打ち立て、そしてまた彼女のそんな可愛らしい表情はワザと見せつけているのだという意識のある知玲からしたら十把一絡げな男どもなど相手にもならない。
「僕が隅々まできちんと塗ってあげるから……そしたら遠泳に行こうね、妃沙。僕は負けないよ」
チュ、とその髪にキスを落とす様は只ならぬ色気を醸し出している。
だが、その対象には全く通じていないあたりが──『残念』と言わざるを得ない。
「ハンデなどいらないと申しておりますのに……」
「それじゃ勝負が面白くないでしょ。いい加減、君と僕の性別が逆だって事は認識しようか?」
そんな事を言いながら妃沙の腰──今日は剥き出しの肌に手を添え、テントの中に誘導する知玲。
その甘ったるい雰囲気に思わず赤面してしまうのは当の妃沙ではなく、あくまで周囲の人々であるあたり、まだまだ知玲の苦労は先が知れないと思ってしまうのだけれど。
(──こんな場所でも通常営業の方がきっと……付け入る隙があるよね、妃沙?)
何やら含む所のある笑顔を浮かべる知玲の表情は、きっと妃沙が見てもブルリと背筋が震えるほどに邪悪なものであっただろう。
……もっとも、妃沙にはその真の意味は未だ理解出来ないに違いがないのだけれど。
───◇──◆──◆──◇───
その後、物凄い勢いで浜からかなり距離のある島を目掛けて泳ぐ二つの人影については、その時海にいた人々の間でちょっとした話題になったようだ。
人魚だのジュゴンだの魚人間だのと実しやかに噂された彼ら──知玲と妃沙は今、人のいないその島を探索中である。
なお、勝負の結果については二人のの為に触れないであげて頂きたい。妃沙は相当に口惜しがって、戻りは必ず勝つと息巻いていたのをやっと知玲が鎮めたところなのだ。
せっかくの無人島探検などというワクワクするイベントを、勝負の結果で台無しにされたくないという知玲の切なる願いの為にも言及は避けたいところだ。
もっとも、ハンデこそ付けたけれど始めから手を抜くどころか勝ちに行っていた知玲も知玲であるけれども、もし手抜きがバレたらそれこそ絶縁されてしまうだろうことは知玲が一番良く理解っているのだ。
「……本当に綺麗な島だね。これで人の手が入ってないって本当? 奇跡としか言いようがない……」
出発点の浜辺では一悶着あったものの、昼前には出発し、それはもう物凄い勢いで泳いで来た二人なので、時刻は昼少し前といったところ。
体力のない人間ではここまで泳ぎ切るのは難しいだろうし、元々、この海岸は近くに別荘を持っている上流家庭の人々の為のプライベートビーチめいた意味合いが強い場所だ。
彼らのように尋常あらざる泳ぎっぷりをみせる人物など少なかったので、今ももちろん、この島にいるのは知玲と妃沙の二人しかいない。
「自然の恵みに勝る肥料はないという事をまざまざと教えてくれる場所ですわよねぇ……。街や花屋などで見かけたことのある種類の草花も樹木も、ここではその輝きがまるで違うのですもの。
ここには何度か来ておりますけれど、鳥や虫などという生物達と植物の優しい調和が完璧になされていて……以前のわたくしであれば、心が浄化されてしまいそうになってしまうので、少々落ち着かなかったかもしれませんわね」
優しい微笑みを浮かべながら周囲に目を向ける妃沙の姿は、一身に浴びている太陽の光も相まって天使みたいだな、と知玲が目を細めてその姿を見つめている。
そうして想い人を見つめる知玲の姿もまた、世の乙女が目撃してしまったら気絶しそうな程の神々しさを放っていたのだけれど、そんな彼の魅力は『天使』には伝わりにくいようだ。
彼女は今、少しだけ前世に立ち返っていたので尚更かもしれない。
「そもそもが、こんな優しい光の下に立っていられることが奇跡ですのにね。学校にも通わせて頂いておりましたし、昼日中の時間を知らないなんて言うつもりはありませんけれど……。
やはり『綾瀬 龍之介』に付き纏うの闇の方が似合っておりましたもの。だから……柔らかい朝の光の中に連れ出して下さる夕季様には感謝しておりましたのよ」
フフ、と、何処か自虐的に微笑みながらそんな事を語る妃沙の表情に、何処にも面影はないのに『龍之介』の影を見つける知玲。
例えばその口角の角度であるとか、バツが悪そうに少しだけ斜め上を見上げながら語る癖だとか、所々にその面影を見つける事が出来てしまうのだから、知玲の中にもまだ彼の姿は色濃く残っているのだ。
けれどもその姿は妃沙が語る影を背負ったものではなく、むしろ清々しさすら感じさせるものだった。
「文句ばっかり言ってたくせに」
「本心じゃないと見透かしていたからこそ、毎日連れ出していたのではありませんの?」
フフ、という微笑みは、今度は『妃沙』の悪戯っぽいものに替わる。
そんな微笑みを見るにつけ、妃沙であれ龍之介であれ、その存在が自分の目の前にいてくれることに深い感動を覚える知玲。
そしてまた、妃沙にとっても、どんなに時間を経ても変わらない、ヘタレたり意外と我が儘だったり……そしてそれを自分にしか見せない強情さだったりが、まさしく守ると誓った存在そのもので、守り切れなかった前世のリベンジの機会を与えられた奇跡に人知れず感謝をしているのだ。
妃沙としては二人っきりのこの島で、そんなシリアスな雰囲気を作ってしまうことは出来れば避けたかった。
前世よりもずっと素直なこの口は、良く考えもせず本音を垂れ流してしまう傾向があるから注意しろよ、と自分を戒めていたところなのである。
「知玲様、実はこの島にはわたくしの秘密の場所があるのです。
知玲様がいらっしゃらない間、美陽様と何度も遠泳に挑戦したのですけれど、美陽様もここに辿り着いた事はないのでご案内するのは貴方が初めてなのですわ!」
こっち、こっち、と、やや大げさな笑顔で知玲の手を取り、その場所に案内を開始したのはだから、そんな自分を隠す為のものでもある。
聡い知玲の事だから、もしかしたら妃沙のそんな心情にも気付いているかもしれないけれど、表面上は気付く様子もなく楽しそうに笑う妃沙を優しく見つめる幼馴染といった態だ。
「本当に素敵な場所なのですわ! 前回来た時に少し細工をしたのですけれど、あれがそのまま残っていたらきっと知玲様もお気に召して下さると思いますわ!」
「……それは楽しみだけどさ、妃沙、今度からこんな場所に一人で来るとか絶対に止めてよね……。話を聞く度に背筋が凍りそうだよ……」
「何を仰いますか! 秘密基地なのですもの、一人で来なければ意味がないではありませんか!」
ぷくっと膨れる妃沙の表情は本当に可愛くて。
「……そんな場所に僕みたいな危険人物を案内して大丈夫だって自信は何処から来るんだろうね?」
「前世から来ておりますわねッ! 知玲様が危険だなんて、一度も思った事はありませんもの!!」
言葉だけを捉えれば、男として全く意識されていないのだとガックリと肩を落とすものかもしれない。
だが、そんな可愛くない言葉を告げる妃沙は、知玲から全力で顔を反らし、表情こそ見えないけれど耳の先端に乗った微かな朱色がその心根を物語っているように思えて、知玲の心に幸せが宿る。
「早く見たいな。妃沙、早く連れて行ってよ!」
「承知しました。それでは全力で参りましょう!」
微笑んで視線を交差させた直後、二人の表情がキュ、と引き締まる。
──全力で駆ける。
今までの甘い雰囲気を払拭する程のアスリートめいた決意をその胸に秘め、妃沙と知玲は無人島内を物凄い勢いで駆け抜けていったのである。
……ラブコメの雰囲気を全うするのは、二人にはまだ早いようである。
───◇──◆──◆──◇───
そうして二人がやって来たのは、ちょっと見ただけでは入り口が解らないような小さな洞窟だ。
入り口はごく自然な形で木の葉や草などで隠されており、どうやらそれを施した犯人は「秘密基地なのですから当たり前ではありませんか」と、ドヤ顔で鼻の穴を膨らませて語っている。
妃沙が丁寧に木の葉や草を取り除くと、人一人がようやく通れる程度の入り口が現れ、さほど深くないその道を進んだ先には、思わず息を飲む景色が広がっていたのである。
「……これは……凄いね……!」
妃沙に比べればあまり感情表現が豊かではない知玲でさえ、思わず感嘆の声を上げてしまうような絶景。
小高い陸地から見える海の色はキラキラと青く輝いており、周囲の白い壁に反射して光を放っている。
小魚の一匹も住まわないその海水は本当に透き通っていて、快晴の空を切り取って地上に落としたように美しい。
そして何より、彼らが入って来たのとは逆方向に開けた大きな穴からは太陽の光が差し込み、その先にある白い浜辺とのコントラストも相まって、まるで海の中から浜辺を見ているような気持ちにさせる、不思議で美しい空間であった。
「綺麗でしょう! ここに来る度に、少しずつあの窓が大きくなっておりますのよ。ここに入り込んだ水は特に青色が残る性質のようですわ。
魚などの生物も入り込んでこられない程の微量な隙間から、少しずつ少しずつ海水を取り込んで出来上がった洞窟なのです」
今、彼らは海から入り込んだという海水が貯まった湖のような場所に張り出した岩場に立っている。
彼ら程度の華奢な体躯の人間であればもう一人くらいは立てそうだけれども、身体の大きな人物がいたら二人がやっと、という程度の面積しかないその場所に、妃沙は「どうぞ」と草で編んだと思しき座布団を敷いて知玲を誘った。
「細工って? 何か魔法でも使っているの?」
だとしたら少し残念だな、と表情から見て取れる知玲。
魔法という便利な概念が身近にある世界でこそ、自然そのものの美しさを体感したいなと思っていたので、ここに魔力が使われているのは残念だと思ったのだ。
ところが妃沙は、その言葉を待ってました、と言わんばかりの表情で笑い飛ばしてみせた。
「知玲様ならそう仰ると思っておりましたわ! ご安心下さいな、景観そのものには全く手を触れておりませんから。
ただ……この景色をずっと見ていたくて座っていたらお尻が痛くなってしまったので、草で編んだ座布団の用意と、それを置く場所を少々平らにした程度ですわ」
ドヤ顔でそう告げ、自分も座布団の上にチョコンと座る。
なるほど、知玲が誘われた場所は良く均されており、その上に座布団を敷けば長く座る事も出来そうだ。
自然に魔力を介入させないという妃沙の拘りと、こんな細やかな気遣いはさすがの妃沙、というところだろうか。
「君の秘密基地なんでしょう? 座布団が二つあるのはなんで?」
その答えは何となく察する事が出来るような気がしたけれど、妃沙の口から言わせたくてそんな意地悪な質問をしてみる。
すると彼女は、思った通りに頬をポッと染め、ぷい、と顔を反らして唇を尖らせてながら、それでも嘘は吐けないのだろう、吐き捨てるようにして言った。
「いつか知玲様がこの避暑に参加される事があれば、絶対にお連れしようと思ったからですわッ! 悪いですかッ!?」
プハハ、と盛大に吹き出す知玲の声が洞窟内に響き渡る。
その隣で照れくさそうに体育座りした膝に顔を埋め、妃沙はあー、とかうー、とか唸る事しか出来ない。
なお、この観覧スポットは本当に狭いので、距離を取ろうにも隣に座ることしか出来ないのだ。妃沙としては全く計算外である。
「いや……嬉しいよ、妃沙。君が用意してくれた最高の空間でこの景色を見る事が出来るなんて……僕は本当に幸せ者だね。
……ねぇ、妃沙、いつまでも顔を伏せていたら勿体ないよ? 景色は刻一刻と変わって……おっと……」
最後に呟いた知玲の言葉に、何処か不穏な気配を感じた妃沙が顔を上げる。
そして、彼女の瞳と耳に入り込んで来た景色は。
──ガラガラーードーーン!! という雷の音と。
──ザーーーー!! と物凄い音を立てて流れ落ちる雨の景色。
「ち、知玲様!? ここは高台ですし浸水の心配はございませんけれども……これでは、泳いで帰るのは……」
「……無理だねぇ」
オーマイガーッ! と、ムンクの叫びめいた表情で叫ぶ妃沙と。
余裕しゃくしゃくな表情で、むしろラッキー? なんて呟く知玲の表情には酷い剥離がある。
──突然の大雨に浜辺に返る手段を奪われ、無人島に残された二人の高校生。
そのシチュエーションは、知玲にとっては最高にバッチ来いな状態であるのに対し。
「豹変し過ぎですわ、お天道様ァァーー!!!!」
何処に向いているのか解らない妃沙のツッコミが洞窟内に響き渡ったのであった。
◆今日の龍之介さん◆
龍(鼻の穴を膨らませて)「どーだ、知玲、オレサマが創り上げた秘密基地は!!」
知「いやいや、本編でも言ったけど、本当にもうこんな所に一人で来るのは止めてよね!?」
龍「バカかお前! 誰かに言ったら秘密基地じゃなくなんだろ!?」
知「君こそバカァ!? プライベートビーチじゃないんだから他の人だってこの島のことは知ってるよ! 今まで出会わなかったのが奇跡なんだからもう絶対に……」
龍「……そう、なのか?」(悲しそうな上目遣い)
知「……ウッ、二人の秘密に……しよ? ね?」(冷や汗)




