◇91.いまも、むかしも。
パーン、と良い音が響き渡る会場内。
「面あり一本!」
良く通る審判の声が『彼』の勝利を告げる。
観客席からはワァァーという歓声と盛大な拍手の音が場内を包んだ。
肩を上げ、落とし……フゥ、と一つ息を漏らした様子の選手──東條 知玲は防具の中でそっと口角を上げる。
チラリと観客席を見やれば『今日だけは絶対に観戦に来て』と頼み込み、自分の指定した席に座っている元・婚約者にして最愛の金髪の少女は今、口元に手を当てて感動に打ち震えているようである。
そんな彼女の様子に満足感を得ながら、審判の指示に従い、熱戦を繰り広げた相手に対し最大限の敬意を以て頭を下げる知玲。
今、この瞬間に高等部における知玲の東珱一が決まったのだ。
「ちあきせんぱぁぁーーい!! おめでとうございまぁぁーーす!! 萌菜、知ってたァァーー!!」
一際大きな声で叫ぶピンクブロンドの髪の美少女と、その横で彼女を優しげに見守るガタイの大きな男。
彼だって今まで通りに柔道に邁進していたら、このような称賛の拍手を一身に受ける事は夢ではなかったのに、と少し残念に思って溜め息を漏らす知玲だけれど、今は脱落してしまった彼のことよりも自身が栄光を成し得た事に対する感慨が深いようだ。
自身にプレッシャーを与える為に想い人に『絶対に来て』なんて頼んでしまって彼女には迷惑を掛けてしまったけれど、どうやらその効果は絶大であるらしいと、改めて彼女に対する想いを新たにする知玲。
そして、人目も憚らず号泣している様子からして、彼女の喜びが嘘偽りのないものであることも、その根底にある気持ちに期待を持ってしまうことも、知玲には止める事は出来なかった。
「妃沙ーー!! やったよーー!!」
だから、礼を終え控室に戻るまでの間に、今までしたこともなかったそんなアピールをしてしまったのは……高揚感のせい、ということにしておこうと知玲は考えている。
その言葉を受けて彼女がどう反応したのか、だとか。
自分に対して熱烈な声援を送ってくれたもう一人美少女の存在だとか。
今までの努力のことだとかは一旦置いておいて、今はただ『約束』をどうしようかとワクワクする心が他の全てを凌駕するらしい。
先程の知玲らしからぬ行動もそれが起因してのことだというのは知玲自身、感じていることなのである。
「ちあきさまーー!! おべでどうござびまず……!!」
妃沙の涙は絶対見たくない、だから彼女を護ろうと、そう自分に誓っていた知玲。
だが今、自分の為に流される幸せな涙に、知玲は改めてこの世界に来て良かったな、と思うのだ。
性別こそ変わってしまったけれど……想う気持ちはそのままに、同じ種族として、想いを伝える事の出来る立場と才能と容姿に恵まれたことについて。
その恵まれた才能は妃沙を落とす為には存分に、それ以外には皆無にと誓っている知玲。
だから今、彼が妃沙に向けたきらきらしい笑顔は『妃沙を落とす為』の笑顔なのだけれど……図らずもそれは、会場内にいた女性達の心を鷲掴みにしたようである。
今、知玲は全国の数ある高校生剣道部員の頂点を極めたのである。
彼が妃沙に『絶対に来て欲しい』と強請ったのはその頂上決戦たるこの場で、自分の想いと自分達の関係をもう一段階高めたいと思ったからに他ならない。
そして彼は、それこそ前世から願い続けた『剣道でのこの国一番』の地位が取れた暁には、次なる目標に向けて邁進しようと決意していたのだ。
彼女が外野からのちょっかいに応じてしまうのを黙認していたのも今日でおしまい。
そして……申し訳ないけれど、彼女には自分の覚悟を共有してもらうつもりでもあったので、少しの罪悪感を抱きながら、けれどもこれ以上ないくらい幸せそうな笑顔を浮かべる知玲。
チュ、投げキスを送り、テンションが上がったフリをして微弱な光魔法を五回点滅させてやる。
五回の点滅に込められた意味は転生前の知識によるもので、正しく意味を理解した妃沙には最大限の動揺を、そしてそれ以外には何のことやら、と思わせるには充分なアクションであったらしい。
「キザ」
口だけで頬を染めながら文句を言う彼女は、彼も良く知る水無瀬 妃沙そのものだ、
その可愛い表情をもっともっと知りたいな、とクスリと笑いながら知玲は控室に戻って行った。
一方で、観客席の妃沙と、兄の雄姿を見届けに来ていた知玲の妹・美陽は未だに感動の只中にいるようである。
「ハァ……格好良かった、お兄様……さすが私のお兄様……」
「長きに渡る努力が実る瞬間に立ち会えるなんて……神様など信じていないわたくしですら感謝を捧げたくなってしまいますわね……」
ホゥ、と溜め息を吐き、ウットリとした表情を浮かべる少女たちだけれど、その意味合いはまるで違う。
ブラコンの美陽がその雄姿に見惚れるのは当然のこととして、妃沙のその表情はその言葉通り、それこそ生まれる前から剣道に邁進して来た彼を知っている彼女にとり、この優勝は生命を跨いで成し遂げられた、彼と……そして『彼女』の努力の集大成なのだ、感動しない筈もなかった。
「美陽様……本当に本当に……あの方は素晴らしいですわね……」
もうその姿のない道場に視線を向け、スッと白い頬を伝い落ちる涙にキラリと光が反射する。
いつもなら「当たり前よ!」だとか「アンタにお兄様は渡さないわ!」なんて憎まれ口を叩いてしまう美陽だけれど、その横顔の圧倒的な美しさに言葉を失いただ見つめることしか出来ずにいる。
……そして、そんなシリアスで美しい光景から少し離れた場所では。
「もー、離してよ、誠くん! 知玲先輩におめでとーって言いに行くんだから!!」
「……俺から離れないでくれ、萌菜……」
……何だか解らないが甘ったるい雰囲気が漂っていたのである。
───◇──◆──◆──◇───
その日、一番の功績を残した事を高らかに告げられ、涼やかで良く通る声で知玲が返事をし、優勝杯を受け取った表彰式。
この日で主将である知玲の引退が決まっていた為に、剣道部の面々はもう涙でグシャグシャになりながらその健闘を称えていた。
そして、部員ではないのに何故だかそこにいる知玲の幼馴染にして元・婚約者の水無瀬 妃沙、彼女もまた涙でその愛らしい顔をグシャグシャにしていたのだけれど、そんな顔すら愛らしいとか、尊いだとか言われながら何かと注目を浴びていた。
なお、そんな知玲に対して「ちあきせんぱーーい!」と何処からともなく甲高い声が聞こえ、甘い香りを感じたような気がする、という怪談めいた話が所々で聞こえたのだけれど、知玲の側に該当するような少女の突撃はなかった、と追記しておく。
そしてその謎の少女の傍らには大男が寄り添っていたという話もあり、幻の女子高生と共に不思議話の一つとして伝わっていた。
「……ねぇ、妃沙」
表彰式からの帰り道。
距離的にも安全面からも車を使うと思われたその道程を、妃沙と知玲は並んで歩いていた。
美陽一人を車に乗せ、妃沙の手を取った知玲の表情はとても真剣で、歩いて帰ろうと言われた言葉に、妃沙は頷くことしか出来なかった。
もともと、この試合だけは絶対に見ていて欲しいと言われた時から、知玲が何か言いたげだったのは感じていたのだ。
そしてまた、知玲の願いはどんな事でも叶えよう、その為に尽力しようと誓っている。
現状、彼が抱える一番の願いが自分にしか叶えられない事には気付いていなかったけれど、その気持ちに嘘はないのだ。
だって彼女はそれこそ生まれる前からコイツを守ると決めているのだ。
その相手が真剣な表情で自分を見つめているのに、瞳を反らすことなど出来ないのは当たり前なのである。
「僕はまた一つ、前世では出来なかった事を成し遂げた。こうやって……僕らは未来に進んで行くんだなって実感する度にさ……幸せで……少し、怖い」
チラリと妃沙に視線を寄越し苦笑する知玲。
思えば、彼が──特に『知玲』になってからはこんな風に弱音を吐く事はとても少なかったから、感じている不安がいかほどの物なのか、想像するだけで背筋が凍りそうになる程だ。
だが、当の本人はそんな弱音を口にしたことで吹っ切れたのか、今度は爽やかにハハッと微笑んでみせた。
「たぶん、一度失っているから、これから創り上げる事が怖いんだ。そして今も君が隣にいてくれることが幸せ過ぎて……それもちょっと怖い、かな。また失ったらどうしようとか、つい考えてしまうから」
今では完全に『夕季』と融合している実感がある知玲だけれど……心の何処かでは、本当に幸せになって欲しいのは『龍之介』である、と感じている事にも気付いている。
龍之介が妃沙に転生して、恵まれたその人生の中で笑い、前世では出来なかった事を全力で楽しみ、自分の気持ちに素直でいてくれる事は本当に嬉しい。
それは確かに『龍之介』が感じている幸せで、妃沙と龍之介は二人で一人だと……解っているのだけれど。
恵まれている環境にいる妃沙と違い、龍之介は誤解を受ける事しかなくて。
家庭環境だって決して恵まれているとは言い切れなくて。
それでもそんな自分の環境に文句一つ言わず、たった一人で世間に抗い続け、そして……自分の側にいてくれた『彼』。
あんなに優しい人が幸せになれない世界を、ずっとクソッタレだと思っていたのに、今の自分よりずっと非力だった前世の自分には何もすることが出来なくて。
だから、この世界でだけは。
今度こそ。
そんな気持ちを胸に、『妃沙』を護ろうと邁進して来たのだ。
妃沙の幸せは龍之介の幸せだと言い聞かせて。
婚約を解消してからというもの、彼女の周囲に寄って来る男達が彼女との距離を詰めていて……本当は、理事長と写っていたあの写真にだって激しく動揺したくせに、表面上はそこまでの動揺を彼女に見せたりはしなかった。
生まれる前からずっと一人の人だけを好きでいるのだ、知玲だって恋は一つしか知らない。
だから、嫉妬をするとか、束縛したいとか、そういうマイナス面を見せたら嫌われるんじゃないかとか、今更彼女の側にいられなくなったらどうしたら良いんだとか……考え出すとキリがなくて。
結果、部活に逃げた。剣道をしている時だけは、そういう雑念を忘れていられたから。
だが今、高等部での全国制覇という一つの目標を達してしまい、その雑念を払う術がなくなって、自分の思考が闇に引き摺られてしまうのでは、という不安が知玲の胸に去来していた。
「知玲様!」
そんな彼の心の内を知ってか知らずか、思いがけず明るい声を出して妃沙が自分の名を呼ぶ。
キュ、と握られた手は、前世で感じていたものよりはずっと小さかったけれど……温かさは増しているような気がする。
「眉間に皺が寄っておりましてよ? 優勝者がそんな表情をしていては、負けてしまった選手たちはどんな表情をすれば良いか迷ってしまうではありませんか。
笑っていて下さいまし、知玲様。ずっとずっと……。最期に見た夕季様の泣き顔を忘れてしまえる程に。今世も前世も……あなたには笑顔が一番お似合いですわ!」
カラッと笑うその様は、口角の角度といいその思考回路といい……そしてピクリと上がった片眉といい『綾瀬 龍之介』そのままで。
ああ、君はここにいたんだね、と、実感した知玲は、瞳に浮かぶ涙を彼女に見られたくなくて……ギュッ、と彼女を抱き締めた。
「……僕が悩んでいたの、気が付いていたの?」
「当たり前ですわ! どれだけ側にいたと思っているのです? どうせ、優勝を遂げてしまったら次の目標はどうしよう、とか、剣道という逃げ場を失ったらどうしようとか、そんな事を考えておいでなのでしょう?」
ポンポン、と知玲の背を優しく叩く振動を感じる度に、心が落ち着いて行くのが解る。
「貴方の夢は剣道だけではない筈ですわ。そして、剣道は貴方から逃げたりしない。わたくしだって側にいる。だから今はただ……」
ふと、妃沙が身体を離してグッと知玲の両肩を掴み、自分と向き合わせる妃沙。
涙が浮かんでいるだろう自分を見られるのが恥ずかしくて顔を反らそうとする知玲の頬を素早く両手で挟んで視線を自分に固定させる。
見れば、妃沙の瞳にもまた大量の涙が浮かび、次々にその綺麗な瞳から零れ落ちて白い頬を伝っている。
「おめでとう、だけを受け取って下さいまし、知玲様。貴方は素晴らしい功績を残した。すごいことを成し遂げた。褒められて良いのです、誇って良いのです……だから、自分のことも褒めてあげて下さいまし。
貴方が自己肯定が下手な分はわたくしが埋めますわ。どうか誇りを持って前に進んで下さいな。道はこれからも続いているのですから。ずっと……ずっと」
お互いに涙でグシャグシャになりながら、それでも二人の表情に爽やかな微笑みが乗る。
フゥ、と一つ、大きな溜め息を吐いた知玲がスッと妃沙の頬に手を添え……そしてあっと言う間にその小さな唇にキスを落とした。
「……な!? 知玲様、復活が速すぎませんか!?」
「妃沙のお陰だし……それに、好きな子にそんな風に言われて滾らない男なんていないでしょ?」
「貴方はいつでも唐突過ぎるのですわッ! そういう事はせめて断りを入れてからとあれほど……!」
「ご褒美だもん! 今日は僕を甘やかしてよ、妃沙」
甘えないで下さいまし、とポカポカと自分の胸を叩いているこの可愛い生物は『水無瀬 妃沙』だ。
けれどもその中には生まれる前から恋焦がれた『綾瀬 龍之介』が棲んでいる。
一人の身体で二人を守り、幸せに導いて行けるお得物件だな、と、復活を果たした知玲は少しだけ悪戯っぽく微笑んでいた。
「やっと学生らしい夏を送れるしなー。ねぇ、妃沙知ってる? 来週、東條・水無瀬合同の避暑で海に行くんだって。
部活があったし、僕は今まで行けなかったけど、今年からはやっと行けるし、楽しみだなぁ、海なんて久し振りだね」
フフ、と楽しそうに微笑んでいる知玲の表情から憂いが消えた事に安心しながら、妃沙がまったく手間のかかる奴だと言わんばかりに溜め息を吐いている。
「聞いておりますわ。少し泳いだ所に無人島がありますのよ。誰も住んでいないのが信じられないくらい、美しい浜辺と豊かな自然に溢れている素晴らしい島なのです。
海への避暑はわたくしも久し振りなので、あの場所を訪れるのを楽しみにしておりますのよ!」
「そうなんだ。じゃあ、案内は妃沙に頼もうかな」
「お任せ下さいまし!」
すっかり憂いの晴れた表情で手を繋ぎ、海に想いを馳せる二人の姿はまるっきり青春真っ盛りの高校生のそれであった。
「ところで妃沙、水着は僕が選ぶからね」
「え? 新しく買う予定はございませんし、前回までは学園指定のスクール水着を持参していたのですけれど……」
「却下ァァーー!! スク水、駄目、絶対!! どれだけ萌えを創出するつもりなんだよ、君は!
あぁ、もう避暑まで時間がないのに忙しいな……。水着と一緒に熱中症対策グッズも良さげな物をたっぷり用意しないとだし……」
「ちょ、知玲様、目がイッチャッてますわ! 戻って来て、戻って来て下さいましィィーー!!」
騒がしく夜道を移動する二人。
この男女は今のところ幼馴染という関係にあるのだということを信じてくれる人は……少ないかもしれない。
◆今日の龍之介さん◆
龍「まだ着られるんだからスク水で良いだろ? 泳げりゃ着る物なんて何だって……」
知「スク水、ダメ、絶対! 君に水着を選ぶセンスなんか皆無なんだから僕に任せなさい!」
龍「……いつになく強気だな。まぁ、今回は『知玲おめでとー』ってことで……」
知「……ねぇ、そう思ってくれるなら水着だけじゃなくてさ……」
龍「何だよ? 次回からちょっとだけお前にご褒美のターンじゃん?」
知「ネタバレ、ダメ、絶対ッッ!!」




