◇88.痕
パーン、パーンと花火の大きな音が鳴り響き、その度に上がる赤や黄色、緑に青といった炎の芸術が見上げる妃沙の白い頬を優しく染め上げている。
その大きな瞳に映り込む花火の輝きは、実際に空に咲いているそれよりずっと綺麗だな、なんて思いながら妃沙を見つめていた知玲だけれど、ふと、彼女がこちらを向いて首を傾げた。
「知玲様、花火をご覧にならないのですか?」
「……ん。正直、花火より気になるものが側にあるから、集中出来ないんだよね」
フフ、と微笑んでスッと妃沙に身体を寄せ、甘えるようにしてその華奢な肩に頭を乗せると、纏め上げた髪からは妃沙が愛用しているシャンプーの良い香りが漂って来るようだ。
何言ってんだと言いながら苦笑を浮かべているであろうその表情は見えないけれど、きっと片眉がピクリと上がっているに違いない。
こんな風に妃沙とゆっくり、二人きりで過ごす時間は知玲にとって至福の時間だ。
だが、直前に見た彼女は、花火なんていう妃沙も大好きな派手な演出がされているというのに何処か浮かない表情を浮かべており……その理由は、何となく察することが出来た。
「……葵さんと大輔君、良い感じになりそうだね」
「……ええ、そうですわね」
呟くようにそう言ったきり、黙り込んでしまう妃沙の心情は、細い肩を通して自分に伝わって来るようだ。
今までにも他人の恋の成就に立ち会ったことはあるけれど、今回の相手は妃沙が最も心を寄せている葵と、同じく初等部からの親交があり、親友と言っても過言ではない程の仲である大輔だ。
いかに鈍チンな妃沙だからといっても、さすがに大輔の気持ちには気が付いていただろうし、素直すぎる葵の気持ちも察していただろう。
だからこそ、幸せになって欲しいと願い、葵を恋の悩みの只中から救い上げた。その結果、大輔と真っ直ぐに向き合うに至り、想いを通わせることになっただろうことは想像に難くない。
「妃沙」
そっと名前を呼んでキュッと手を握ると、ピクリと反応したその手は、珍しく救いを求めるかのように握り返された。
「……知玲様、わたくし、娘を嫁に出す父親の気持ちというものが、何となく理解出来るような気がしますわ」
その言葉に、さすがの知玲も一瞬だけ理解が追いつかず、キョトンとしてしまう。
だが、当の妃沙は至って真面目なようで、不安げに空を見上げたまま、ポツリ、ポツリと言葉を紡いだ。
「葵の幸せを願っているのは、間違いがないのです。
けれど……今までの環境が幸せすぎて、居心地が良すぎて、その環境が変わってしまうのではないかという不安と……何でしょうね、やっぱり葵を取られてしまったような気分なのですわ。
可笑しいですわよね、わたくしは決して葵に恋愛感情を抱いていた訳ではなかった筈なのに……いえ、やっぱり、心の何処かでは葵のことがそんな風に好きだったのかなと、少しだけそんな風に思ってしまうほどに……」
寂しいんだ、とポツリと呟いて空を見上げる妃沙の瞳には、微かに涙が浮かんでいるような気さえする。
花火の光を反射するそれはとても綺麗で、少しだけ切ない色をしていた。
「葵という人が、恋人が出来たからと言って友人を蔑ろにするような人物ではないことは理解していますのよ。
それどころか、今まで以上に寄り添ってくれそうな気さえしますし、葵を大切に思う気持ちも全く変わっておりませんわ。ですからこれは……きっとわたくしの我が儘、なのでしょうね」
知玲は前世でも今世でも『親友に恋人が出来る』という経験をしたことがないから、妃沙のその複雑な心情は想像することしか出来ないし、今ではすっかり『男として』の思考を持っている彼には女性同士の、そんな複雑な心の機微など解らない。
けれど、未だかつて、妃沙であろうが龍之介であろうが、こんなに素直に寂しいという心情を吐露したことなどなかったのだ。
だから、元気のない妃沙とは裏腹に、知玲は少しだけ嬉しくなった。
前世では素直に言えなかったことを言える環境にいてくれること。そして、握り返された手に込められた、自分への信頼。妃沙の中に宿ったのだろう、仄かな独占欲。
そんな一つ一つのことが堪らなく嬉しくて……けれど表面上は酷く真面目な表情を取り繕って、知玲は言った。
「正直、葵さんが恋敵だったらとても勝ち目はなかったから、僕としては大輔様サマ、かな」
「何を仰るのですか、全く……」
しょーがねぇ奴だ、とでも言いたげにフッとニヒルに笑っているつもりであろう『妃沙』の表情は、実際のところポッと頬を染めて可愛らしく微笑んでいる美少女でしかなかったのだけれど。
知玲的にはようやくいつもの妃沙に戻ってくれたので一安心だ。
今、妃沙の表情にはいつもの悪戯っぽい微笑みが浮かんでいたし、その瞳からは寂しさは払拭され、大切な親友の幸せを喜んでいるだけのように見えたから。
「変化は受け入れなければなりませんわね。わたくしは……『今世』をまさしく『生きて』いるのですもの、変化のない生命など有り得ないのですわ」
呟くようにそう言ってキュッと表情を引き締め、再び空を見上げる妃沙の横顔は何処か清々しさすら感じさせてくれるものだった。
『龍之介』の人生は、決してもう変化することがないのだと言われているようで少し切なくもあったけれど、それは『夕季』にも言えることだし、今更考えても仕方のないことだ。
そして『妃沙』が変化を受け入れて共存するというのは、彼女との関係を変化させたいと願っている知玲にとっては大変に好ましい状況であると言える。
だから彼は、妃沙がその『変化』を緩やかに、自然に、優しい気持ちで受け入れる事が出来るように、一番側にいて彼女を支えようと決めているのだ。
その愛情にいつか彼女が気付くように挿し向けようとするちょっとした思惑はご愛敬だ。
「変わらないものだってあるよ、きっと。それこそ、生命を跨いで、姿かたちが変わっても隣にいる僕達が体現しているじゃない。
妃沙、僕は変わらないよ。生まれる前から君が知っている僕だって信じてくれて良い。
性別や名前や容姿は変わってしまったけど……僕は僕だよ。君が妃沙として生まれる前、どんなに優しい人だったか、どんなに僕に心を砕いていてくれたか、その口惜しさや不条理も含めて知ってる。
だからこそ、キミには一番幸せになって貰いたいんだ。生きるって事は楽しいし幸せなんだって、キミには知って貰いたい。そしてその隣には僕がいるに違いないって思ってる」
妃沙、と囁いてその手をキュッと再び握り、片手を妃沙の頬に添えて自分と向き合わせる知玲。
相変わらず少し寂しそうな色を残しながらも……少し朱の乗った彼女の頬が可愛いな、なんて思いながら、知玲はチュッ、とその愛らしい額に唇を落とした。
「恋の成就だけが幸せだとは思わないけど……君にも葵さんが感じているだろう幸せを感じて欲しい。そしてその相手はきっと僕だって……信じてるよ、妃沙」
潤んだ瞳で自分を見上げる彼女の表情は扇情的ですらあって、自分の理性を試しているのかなんて疑念を抱いてしまいそうな程だ。
けれど……彼女の中で少しずつではあっても恋愛の何チャラという物に対する認識が増えて行っている様子なのは、知玲としても大歓迎である。
『龍之介』を幸せにすることは出来なかったからこそ、今度こそ、という意識は……そう、『知玲』として生まれてからずっと変わらぬ決意でもあるのだ。
だからこそ、この世界で転生した龍之介と出会う事が出来ないのなら、女神様に文句を言って再生させて貰い、次の命に期待を繋ごうとすら考えていたし、
龍之介が犬やら猫やらといった存在に転生させられても同様だ。そんなのは自分の望む世界ではないのだから……ちゃんと性別が異なり、側にいられる今世でキッチリ結果を出すしかないと決意を新たにする。
「……良く理解りませんわ……!」
「そういうことにしておいてあげる。焦らなくても良いけど……その間の僕からのアタックは覚悟しなよね」
そう言って妃沙をキュッと抱きしめ、今日の分だよ、と言葉を添えながら「大好き」と耳元で囁く知玲に、妃沙はもう何も言う事が出来ないようだ。
何故だかその時、妃沙は知玲の中に今まで感じた事のなかった『夕季』を感じてしまい……彼女からその言葉を受けているような錯覚を抱いていたから。
「だから! そう言う事は毎日告げて頂かなくとも事足りるとあれだけ……!」
「僕も言ったよね? 毎日言わないと爆発して壊れちゃうし……そうなったら困るのはキミだよって。だから君との関係がどう変わったって毎日言うよ、妃沙」
抱き締めた彼女の細い首筋にスッ顔を埋め、チュッとその甘い肌を吸って印を刻む知玲。
その言葉と好意にいっぱいいっぱいだった妃沙は、知玲のそんな悪戯に気付くことはなかったけれど、醸し出されるやたらと甘い雰囲気に言葉すら出ず、あー、とかうー、とか声にならない呻きを上げ続けている。
そんな彼女を本当に可愛いな、と実感しながら、知玲は妃沙の甘い香りを堪能しており。
妃沙の表情からは、すっかり憂いが消えていたことには、知玲も気付いていなかったのであった。
───◇──◆──◆──◇───
「あーーーー!!!!」
爆音とも言える音量が周囲を包んだのは、何となく手を繋いだまま夏祭りの会場から妃沙と知玲が出ようとした時だった。
なお、あの後、葵と充からはそれぞれ個室に一緒にいた相手と一緒に帰るとLIMEで報告を受けていたので、妃沙としても幼馴染で隣人の知玲と一緒に帰るのは効率を考えてのことだと認識しようとしている。
では何故手を繋いでいるのか、と問われれば「知玲様が離して下さらないのですわっ!」と即座に返答する用意はあるのだけれど、あいにくと彼らにそんなツッコミを入れるのは面倒臭い自称・ヒロインと残念な理事長くらいのものだ。
そして今まさにツッコミを入れながら彼らに駆け寄って来たのは、まさしくそのうちの一人だったのである。
「妃沙ちゃん、知玲先輩! 何で二人が花火大会に来てるの!? しかも手まで繋いで!!」
叫ぶようにしてそんな事を言いながら、いつものフワフワとしたピンクブロンドの髪を、今日は頭上の高い位置でお団子に纏め、ピンク地に大柄な赤い花の模様が描かれた浴衣を着た人物こそ、自称・ヒロインこと河相 萌菜であった。
良く見れば、その背後にはさも当たり前のように浴衣を着たガタイの良い男が立っていた。スッと伸びた姿勢といい、暑かったのか捲り上げた袖から伸びる理想的なまでに筋肉のついた腕といい、その姿はとても様になっていたのだが、
時代劇好きな妃沙ですらそんな彼の艶姿を堪能出来ない程に、萌菜の勢いは強烈であった。
「ごきげんよう、河相様。貴女達も花火をご覧になってたのですか? 奇遇ですわね。それにしても、浴衣、良くお似合いですわ!」
愛らしいですわー! と彼女の手を取り、キャッキャとはしゃぐ妃沙は通常営業だ。
もはや彼女には気を付けろと言われていることすら忘れていそうな様子であるが、確かにその時の萌菜の愛らしさときたらたまたま通りがかった人々の脚を止めてしまう程の破壊力だったのである。
もっとも、そこに妃沙という美少女が加わっていたのだから脚を止めるのも当然と言えば当然なのだが、当の妃沙に自分が美少女であるという自覚はないので、あくまでその場は浴衣という妃沙的萌えアイテムを纏った新たな美少女の登場にキャッキャしている、残念な美少女なのであった。
「違うって妃沙ちゃん! 今は萌菜のことはどーだって良いの!! 萌菜は何で妃沙ちゃんと知玲先輩が二人でここにいるのかって聞いてるの!!」
残念な自称・ヒロインの口からすらもっともなツッコミを引き出してしまう我らが残念系主人公・水無瀬 妃沙。
そんな言葉を受けて、心底ワケが解らないといった態でキョトン、と首を傾げている。
「何故って……。知玲様とは毎年一緒に夏祭りに参加しておりますし、今年は知玲様のお宅が櫓をご用意下さったので一緒に花火を観賞しただけですわ」
「何でよォォーー!! それは萌菜がしたかったのにィィーー!!」
「河相様が知玲様とご一緒に? 何故ですの?」
「萌菜が知玲先輩の事を好きだからだよォォーー!!」
あら、と小さく呟いた妃沙が、そっと片手を口元に添える。
昔から知玲は良くモテたし、それこそ初等部にいた頃はファンクラブすらあったくらいだ、彼が女子に人気があるということくらいは認識していた妃沙だけれど、萌菜のような美少女から面と向かって知玲への想いを口にされたのは初めての経験であったので、一瞬、言葉を失ってしまう。
驚いたように目を見開き、片眉をピクリと動かす様を、萌菜の勢いに押されて何も言えずにいた知玲は満足気に見やっていたし、萌菜の後ろの『せいくん』とやらもフゥ、と溜め息を吐いて見守っていた。
「……そう、なのですか。河相様が知玲様を……」
「そうだよ! それで、知玲先輩も萌菜の事が好きになる予定なの! だから邪魔しないで、妃沙ちゃん!!」
涙すら浮かべてグッと自分に迫る萌菜にたじろぐ妃沙。
彼女の内心にチクリと何かが刺さったような気がしていたのだけれど、気付かないフリをして「そうなのですか?」と知玲に問えば、彼は困ったように肩を竦めて頭を振っている。
だが、そんな様子にますますヒートアップした萌菜は、妃沙の襟首を掴んだまま叫ぶようにして喋り続けていた。
「雑誌だって見たんだからね! 妃沙ちゃん、莉仁様と一緒に写真に写ってたのに何で今日は知玲先輩!? 以前にも言ったけど、ハーレムルートは萌菜の特権なんだから!」
雑誌、とは、以前に莉仁と行った場所で出会ったミカなる女性に撮られた写真が掲載されたものだろうか。
確かにあの後、妃沙宛に『あの時はありがとー! 今度は一対一で撮影させてね!』という手紙が添えられた雑誌が送られて来ており、ご丁寧に付箋の貼られたページには莉仁と妃沙の写真が掲載されていたし、当然知玲にも見つかってしまい、事のあらましを丁寧に説明しなければならない事態に陥った事は記憶に新しい。
だが、あの雑誌がどうしたというのだろう、と、またしてもキョトン、と首を傾げている妃沙。
そんな彼女の態度がどうやら萌菜的には大層面白くないらしく、ぷぅ、と頬を膨らませて両手を腰に当てて仁王立ちをするという、前時代的な態度で妃沙の前に立ちはだかっており、そういった漫画ちっくなものに耐性のない妃沙は笑いを抑えるのに精いっぱいで、口元を隠し、彼女から顔を背けている。
──だが、その首筋には、先程知玲が付けたと思しき紅い印がその白い肌の上で存在を主張するかのように咲き誇っていたのだ。
そして、その意味を正確に察したのは、残念な自称・ヒロインではなく、その背後に侍っていた大男一人であった。
「……萌菜、どうやら作戦が必要な状況になっているようだぞ」
険のある低い声でそう言い、素早く萌菜の前に立ちはだかると、その視界から妃沙を隠してしまう。
「誠くん、どーゆーこと?」
「お前にはまだ早いかもな……。だがいずれ教えてやる。今日は引こう」
知玲せんぱーーーーい!! と叫ぶ萌菜を大男は抱き抱えてあっと言う間に妃沙と知玲の前から去って行った。
後に残された妃沙は、美少女にあるまじき態で口を半開きにしながらその様子を眺める事しか出来ずにいたのだけれど。
「相変わらずけたたましい子だねぇ……」
上機嫌でスッと妃沙の横に立ち、彼女の首筋を認めた知玲は、なるほど、良い感じに痕になっているなとほくそ笑んでおり、
その理由も、突然に萌菜とせいくんが去って行った理由もチンプンカンプンだった妃沙は一人、目を白黒させることしか出来ずにいたのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「なぁ、知玲ィー。なんか首筋に虫刺されみたいな痕があるから軟膏塗ってくれね?」
知(ウッと声を詰まらせる)「え……ああ、うん……」
龍「なんでこんなとこ刺されたのに気が付かなかったんだろ? 俺、結構ビンカンなはずなんだけどなぁ?」
知「アハハ。君に気付かれないくらいに自然に刺すなんて……有能な虫だね?」
龍「まぁな。だが次はねぇ! 見つけ次第叩き潰す!!」
知「……」(そっと身を引く)
龍「??」




