◆86.彼と彼女の話。
「葵! 夏祭りに参りましょう!!」
日本で言う所の梅雨である『桜泪』が明け、気温がグングン高くなりいよいよ夏に向かおうとする季節に差し掛かったある日の午後。
グイ、と両手に拳を握り、大きな碧眼をキラキラと輝かせながら妃沙が親友の葵にそんな提案をしている。
妃沙達の住んでいる首都には夏休みもあるし、その目前の土曜日には大規模な夏祭りが開催されているのだ。
そこには山ほど夜店も出るし、打ち上げられる花火は一度は見なければ死ねないと言われている程に美しいものだという。
この国に生まれ、前世では決して参加出来ずにいた夏祭りなんてイベントには毎年知玲と一緒に楽しく参加して来た妃沙。
今年も自分が発見した特等席で打ち上げ花火を見るつもり満々だ。
今年の浴衣の柄については、先日の女子会にヒントを得て左肩に桜吹雪を模すデザインにして貰っており、今からその夏のイベントをとても楽しみにしていたのである。
……毎年浴衣のデザインが異なるのはあくまで妃沙を溺愛する知玲と妃沙の両親の趣味なのだということは、一応追記しておく。
「え? だってそれは、毎年、妃沙は知玲先輩と一緒だろ? 誘ってもダメ出しされてたじゃん?」
「今年から解禁なのですって! その変わり、大輔様と充様……それから、充様の婚約者の詠河先輩もご一緒に、という条件でしたけれど……。
なんでも、今年は東條家が櫓を立ててそこに関係者が集うらしいですわ。ですから、知玲様の親族も多いと思いますけれど、一番に花火を堪能出来る場所を確保したと仰ってましたし……」
わたくしは葵と一緒に浴衣を着て、最高に綺麗な花火を見たいと思ってしまったので我が儘に付き合って下さいまし、と涙すら浮かべて葵の手を取り、懇願する美少女に否やと告げる事の出来る存在などあろうものか。
正直、恋を自覚し、全国放送で告白めいた大輔の言葉を聞いてしまったからと言って葵に劇的な変化はなかったのだけれど、彼女自身の内心には仄かな変化が生まれていた。
何しろあの全国放送の後、大輔から直接『だいすき』と書かれた白球を渡されてしまっており、今でも葵の部屋の一番目立つ場所に、クリスタルケースに収められたソレが鎮座しているのである。
「浴衣なんか持ってねぇし、似合わないと思うからアタシは普段着で行くけど、それで良ければ……」
「色違いのお揃いを仕立てる予定ですのでそれを着て参りましょう! わたくしプロデュースなのですもの、葵に似合わないはずがありませんわ! 左肩の桜吹雪は譲れないので決定ですけれどね!!」
キャッキャと楽しそうに浴衣のデザインやその機能性について語り続ける妃沙。
前世では知識だけでしかなかったそれが、今世で実際に身に纏ったことで憧れが爆発してしまったようで、生地は汗を吸収するだけではなく風通しの良い涼しい素材を使うから制服よりむしろ涼しいはずだとか、チラリと覗く踝や鎖骨の色気は女子にしか出せないものなんだなどと鼻息も荒く葵にプレゼンをしている。
葵にとり、妃沙と一緒に浴衣を着て夏祭りに出向くなど、少しの気恥かしさはあれど楽しみ以外の何物でもない。
自分に妃沙プロデュースの浴衣が似合うかどうかは謎だけれど、妃沙と、そして美子先輩が一緒なのだと言うなら……少しだけ、現状を打破する為にどうすれば良いか相談してみようかな、なんて考えている。
何しろ、妃沙は知玲や生徒会長という二つも年上の先輩や、チラッと観た限りではもっと年上の理事長にすら興味を抱かせる程の魅力を兼ね備えた美少女であるし、
詠河 美子と言えば、栗花落 充──容姿にも才能にも恵まれた葵のもう一人の親友が溺愛している婚約者だ。
今まであまり関わった事はなかったけれど、釣り目気味の瞳と言い小さな唇といい、全身で充が大好きだと語る態度といい、葵的にも推したくなる美しい女性なのである。
自分の気持ちを認めたことで、あの女子会以前のようなモヤモヤや食欲不振などはなくなっていたし、逆に自分は自分でしかないと考えられるようになり、以前よりも学業にも部活動にも身が入るようになった葵。
けれどそこには、自分が本当に困った時には必ず正義のヒーローのように何処からともなく駆け付けてくれる親友、水無瀬 妃沙がずっと側にいてくれるのだと深く実感したからだし、自分ではどうして良いのか解らずにいる『女としての気持ち』の処理の仕方について教えてくれる美子のような心強い先輩もいてくれるのだと実感したのだ。
「……うん。アタシも、妃沙と一緒に花火が見たい。それだけ、だからな……!」
そう言ったっきり、口元を手で覆ってぷい、とそっぽを向く葵の愛らしさに、妃沙も葵と同様に口元を覆って顔を背けているけれど、恐らくその意味合いはまるで違う。
前世と同じ性別でこの世界に転生したとしても葵には恋愛感情を抱く事はないだろうと思っていた妃沙だけれど、恋を自覚した最近の葵の愛らしさときたらない。
もし今の妃沙の中でもう少し『龍之介』の意識が強かったならば、きっと新たな扉を開いてしまっていたに違いないと思えるほどに、そんな葵は本当に可愛らしかったのだ。
だが、今、『水無瀬 妃沙』を支配している自分は決して『綾瀬 龍之介』ではないのだと、時間が経つにつれて妃沙は自覚を深めている。
それは、時に恐ろしく、そして時に酷く甘い感覚で、だが、龍之介であった自分が消えて行くという寂しい感覚では決してなく……例えて言うのであれば『融合』。
水無瀬 妃沙の生活の中に、龍之介が少しずつ溶け込んでいるような、そんな感覚。
そしてそれは、友人達や……既に『夕季』と完全に融合している様子の知玲と共に過ごす度に強くなる感覚だ。
けれど、自分の『素』の言葉が聞こえているらしい莉仁と話したり一緒にいたりする度に、『妃沙』は『龍之介』に引き戻される。
決して戻れないのであれば、妃沙と融合する方が楽に生きられるに決まっているし、それはとても優しくて温かい時間だ。
けれど、真実の自分と完全に決別する勇気も、今の自分には……なくて。
だからつい、莉仁に甘えてしまっているのかな、というのが妃沙の認識であった。
「……妃沙?」
何やら物思いに耽ってしまった妃沙の肩をポン、と優しく叩き、心配そうな表情で自分を覗きこむ葵に、妃沙は何だか胸がいっぱいになってしまった。
……何を考えていたんだ自分は。自分の事なんかどうでも良いだろ、葵の事を一番に考えてやれよ、と、自分を叱咤して力いっぱい葵に抱き付く。
「葵! 夏祭りにはたくさんの夜店が出るという話ですわ! あんず飴、たこやきに焼きそば、じゃがバタにたこ煎餅にクレープにかき氷……! 堪能しましょうね……!」
「なんだよ、ソレ。全部食べ物じゃん! 妃沙、そんなに食えないだろー?」
よしよし、優しく頭を撫でてくれる親友に幸せになって貰いたい。それは妃沙であろうが龍之介であろうが変わらない願いだ。
「葵、当日は貴女の着付け、わたくしと美子先輩が腕によりをかけて行いますからね! 心して我が家にいらして下さいまし!!」
「……え、なんでそうなるの……?」
困惑気味の葵に抱き付きながら、妃沙は浴衣の色であるとか、当日の葵の髪型であるとかに想いを馳せ、すでに心ここにあらずの状態であった。
自分の事を二の次にして心を寄せた相手の幸せの事を一番に考えるその姿は……『妃沙』であろうと『龍之介』であろうと変わらない姿ではあるのだけれど。
……それを表に出せる『妃沙』と、裏で暗躍するしかなかった『龍之介』と、どちらが満たされるものなのかは、妃沙が一番良く理解していたのである。
───◇──◆──◆──◇───
そして当日。
「ンまァァーー!! 葵、葵……! 本当に素晴らしいですわッ!」
「うん、本当に……最高に可愛いわ、葵ちゃん! これでは私はもちろん、妃沙ちゃんですら霞んでしまいそうね!」
浴衣に身を包んだ二人の美少女が、もう一人の赤い髪の少女の姿を舐めるようにして見つめながら驚愕に目を見開き、絶叫めいた言葉を紡ぐ。
そんな言葉を一身に受けた赤い髪の美少女は、バツが悪そうに彼女らから視線を反らし、唇を尖らせて反論を試みた。
「……何言ってんだよ。妃沙や美子先輩の方がよっぽど女らしいし……アタシがこんな可愛い浴衣を着たって女装した男にしか見えねェだろ」
恥ずかしそうに頬を染めてそんな事を語った所で愛らしいとしか言い様がない。
実際、妃沙と色違いの、白い下地に左肩から胸にかけて青い桜の花びらを散らした模様の浴衣に深緑色の帯、黄色い帯紐には赤い玉飾りが飾られた装いの葵は、そのスラリとしたスタイルの良さに加え、
妃沙と美子があれやこれやと試行錯誤を重ね──それこそ、葵の髪型や化粧はどうするかという問題を話し合う為に二人は何度も連絡を取り、充も交えて打ち合わせを重ね、挙句の果てには知玲の妹の美陽を拉致して髪型や化粧の模擬練習までして来たのだ。美陽にしてみれば良い迷惑である。
だがしかし、そうして完成した赤い髪の美少女の破壊力といったらなく、陽に焼けた肌に白と青の浴衣はとても良く映えたし、元が良いから最低限の化粧で、という結論には達したものの、目元に白い飾りラインを入れてみたり、軽く施したファンデーションに薄いオレンジ色のチーク、そして艶やかにグロスが光る唇は葵の魅力を最大限に高めてくれていると言っても良い出来だったのである。
ショートの髪は複雑に編み上げ、アクセントとして髪を上げた妃沙とお揃いの簪を挿して照れくさそうにする表情も相まって、妃沙はもうスマホで写真を撮ることに余念がなかった。
「自信を持って、葵ちゃん。貴女は本当に可愛いわ。恋は人を美しくするのよ」
優しく微笑み、「最後の仕上げ」と囁きながら、美子が葵の髪に飾られた簪の脇に白い花を飾ってやる。
可憐に咲いたその花は浴衣との相乗効果も抜群で、また一段と可憐な魅力を加えていた。
「……別にアタシは……恋なんて……」
「そうねぇ……。恋に自覚なんて必要ないのよ。ある日突然訪れて、自分を支配してしまうものだから」
フフ、と微笑んで花の位置を調整しながら、慈愛に満ちた表情でそんな事を語る美子に、妃沙も葵もキョトン、と首を傾げている。
美子と言えば、充に溺愛されて幸せそうに微笑んでいる姿しか知らなかったので、その言葉に含まれた悲哀めいたものを、恋に目覚めたばかりの葵と未だに知らずにいる妃沙では理解が出来ずにいたのであった。
「そんなに不思議なことじゃないでしょう? 私は充君よりも五つも年上なのよ? その上、出会った当時の充君は女の子顔負けの可愛らしさだったし……私は素直に気持ちを出す事の出来ない、生意気な女の子でしかなかったもの」
相変わらず葵の髪を弄りながら、遠い過去を思い出すかのように視線を何処か遠くに向け、その瞳に慈愛の色を深める美子。
その姿はもう、充からの愛情を少しも疑っている様子はなかったし、自分の気持ちにも確たる自信を持った、愛に満ちた一人の美しい女性の姿であった。
「妃沙ちゃん、貴方と初めて出会ったのも、知玲様の婚約者だった貴女に嫉妬した私が呼び出したからだったわね。思い出すだけで恥ずかしいわ……あの時は本当にごめんなさい」
ポッと頬を染め、恥ずかしそうにはにかみながら呟くようにしてそんな事を言う美子。
だが、そんな言葉を掛けられた妃沙は、と言えば、ああ、そんな事もあったっけな、という程度の認識でしかなかった。
更に言えば、妃沙はあの時、美子に呼び出されたことよりもその特徴的な髪型……縦ロールに目を奪われていたし、謝られるような事は何一つなかったという記憶しかなかったのだけれど、美子の中ではずっと、嫉妬に駆られて何歳も年下の少女を呼び出して詰問してしまった事件のことは、心の中でずっと蟠っていたのである。
「いえ、それは……ずっと昔のことですし、あの出来事が充様と美子先輩の出会いのきっかけになったのだ、という程度の認識しかございませんわ」
妃沙の言葉に、美子は色っぽいまでの苦笑を浮かべて言った。
「そうねぇ……。確かにあれが充君との出会いのきっかけではあったけれど、出会った当初の私達の関係は最悪だったのよ?
何しろ、充くんは大好きな妃沙ちゃんをイジめた私に敵対心がバリバリだったし、私は私で大好きな知玲様を独り占めしようとしている妃沙ちゃんと、その周囲の人々に対して一切の信用も置いていなかったしね。
でも……最初に心を砕いてくれたのは充君だったのよ。でもこれは私と充君の大切な思い出だし、今日の主役は葵ちゃんだから、この話はまた今度、機会があれば、ね」
悪戯めいた微笑みを乗せてそう語る美子には、女性という同じ性別を持つ妃沙と葵ですら背筋が震えるほどの色気を感じてしまった程だ。
当時小学生であった充が陥落してしまったのも解るような気はするけれども……きっと、彼女らも知らない更なる魅力を彼女は兼ね備えているのだろう。
そうでなければ、何処かスレた小学生であった充が心を砕くどころか心酔してしまうことにはならなかっただろうし、そして彼女も、当時のトゲトゲした雰囲気を払拭してこんなに優しく微笑む女性に変化することなどなかっただろう。
「葵ちゃん、恋が生まれてしまったのなら共存するしかないと、私は思う。
その先にあるのが、諦めることなのか、忘れることなのか……あるいは成就させて一生胸に抱いて生きていくかは相手にもよると思うけど、勝手に消える事はきっとないと思うのよ。
忘れようとすればする程、その棘は胸の奥底にまで刺さって行くの。私も……最初はこの気持ちを認めようとはしなかったし、忘れようとしたこともあったわ。そうして距離を取ってしまって、充君に泣いて怒られたこともあったわね。
ねぇ、葵ちゃん。恋は絶対に一人では出来ないことなの。必ず相手がいるものなのだから、自分と相手の『二人分の気持ち』は重く感じるかもしれないし、初めての気持ちはきっと怖いでしょう。
でもね、これ以上ないくらい、幸せを感じる事が出来るものでもあるのよ。もし砕けたらその時は……妃沙ちゃんや私がきっと支えてみせるから」
キュ、と葵を優しく抱きしめる美子。その上から妃沙も勢いよく抱き付いて来る。
未だに恋愛のなんちゃらというものについて理解が及んでいない妃沙には、こうしたスキンシップで葵を励ます事しか出来ないと思っているようだ。
だが、その周囲は間違いなく妃沙に『好意』を抱いている人物が取り囲んでおり、妃沙がどう抗おうとその只中に放り込まれてしまうのは時間の問題だという漠然とした不安もあったので、大好きな葵を励ます、という縦前を嵩に着て自分の不安をも紛らわせようという作戦であるらしい。
そしてそんな妃沙の不安ですら美子は感じ取っており、二人の可愛い『鳳上のアリストロメリア』を優しく抱きしめて言った。
「……大丈夫よ。怖いものなんかじゃないことは私が保証するから。泣きたい時には側にいる。幸せな涙も共有してあげる。
だから、ねぇ……可愛いお花ちゃんたち。きっと幸せになってね」
団子状態で抱き合う乙女たちの姿はとても見目麗しいものであったのだけれど。
今、彼女らは支度の為に水無瀬家に集合しており、本番の夏祭りはこの後、大輔を除いた関係者全員で繰り出すことになっている為に、知玲はもちろん、充もその場にやって来ていた。
今日の主役たる大輔は全国大会の真っ最中であるので練習に余念がなく、部活が終わってから会場に直接来る事になっており、今や学園のみならずこの国期待の選手に成長した大輔だ、本人もその事は充分に理解していたし、野球を疎かになどしたら、それこそ葵に愛想を尽かされるので彼も必死だ。
今は、大切な恋心より部活に重きを置いており、周囲もそれを応援しているのである。
その為、麗しい光景をジト目で見ているのは知玲と充という……やや恋心を拗らせつつある二人の高校生男子であった。
「……知玲先輩、美子まで人タラシな妃沙ちゃん化したら責任取ってくれます?」
「……ごめん充君、それは保証適応外にしてくれる? 妃沙が影響を与えたもの全ての補填をしていたら首が回らないよ……」
「……御苦労、お察しします……」
乙女たちを呼びに来た男子二人が、部屋の入り口で溜め息を吐きながら麗しの光景を眺めていたことなど、彼女達は知る由もなかった。
◆今日の龍之介さん◆
龍「…………」
葵「どした?」
龍「……なんだろ、美子先輩から圧倒的ヒロイン感が……」
美「ちょっ!? そんなはずないじゃない、ヤダァ!」
(美子、頬に手を当てて遠くへ走り去る)
龍「……かわいい」
葵「……かわいい」
充「なんだかタダゴトじゃない圧を感じるよ二人とも!? ダメダメ、美子はボクのだから!!」




