◆80.俺はクラゲになりたい。
楽しいな、と思う自分の気持ちは決して嘘ではない。
莉仁との会話は嘘偽りのない自分の素の言葉だ、心地よく感じない筈もない。
けれど……感じる違和感は何なのか、妃沙は胸に去来する疑問を考えないようにしながら水族館を堪能していた。
だが、結城 莉仁──彼はすこぶる大人で、良い意味でも悪い意味でも人間社会の荒波に揉まれた人生を生きており、その観察眼はなかなかに鋭いものであった。
「妃沙、何か難しいこと考えてるだろ?」
苦笑しながら流し眼を寄越す莉仁が掛けている眼鏡に、キラリと水槽の光が反射する。
別に、と呟く妃沙の手を取る手にキュッと力を込め、莉仁が突然立ち止まった。
「君は本当に嘘が下手だな。目に見える物を一緒に、全力で楽しむのがデートだって言ったのは君だろ?
今、君の目には何が映っている? 水族館の生き物たち? 俺? それとも……知玲君?」
『知玲』の名前は、妃沙にとっては圧倒的なパワーワードだ。
何故このタイミングで莉仁がその名前を出したのかは妃沙にはまるで解っていなかったけれど……ああ、そうか、ここはアイツも好きかな、なんて考えていたのは事実だな、と妃沙は優しく微笑みを落とす。
「アイツも好きなんだよ、水棲生物。この間も突然釣りに連行されてさ……」
「妃沙。それ以上言ったら俺、拗ねるよ。言っておくけど、俺が拗ねたら相当面倒臭いことになると思うけど良い?」
立ち止まったまま、妃沙の手をキュッと握って眉を顰める姿はまるで子どものようだ。
だが、その切ない表情には必死さも感じ取れて、妃沙はふと、今自分がいる状況を思い出す。
そうだ、今日、自分は莉仁と『恋人』という設定だったのだ、なのに他人の存在を想い浮かべて設定を忘れるなんて莉仁に対して失礼だよな、と。
……もっとも、知玲の事を思い出させたのは莉仁自身なので妃沙にはあまり責任はないのだけれど、あえて名前を出した上で今日だけはその存在を忘れさせようというのは莉仁の作戦である。
「おい、ボクちん。俺の目を見ろ」
そう言って、妃沙は両手を莉仁の頬に添えて自分と向き合わせる。
キラキラした碧眼に真っ直ぐに見据えられ、ましてやそれが恋する相手の熱視線である莉仁はもうドッキドキ☆ だったのだけれど、妃沙はそんな事はお構いなしで言葉を続けた。
「おい、誰が映ってるか言ってみろ」
「……俺」
だろ、なんてドヤ顔で微笑みながら少し距離を取る妃沙の表情は晴れやかだ。拗ねるよ、なんて言いながらもう既に拗ねてしまっているような莉仁を相手に、気分は保育士である。
妃沙としては経験していないものの、実は『龍之介』は子どもウケは良かった。
最初こそその強面に怯えて泣きだす子どもは多かったものの、慣れれば同じ目線で、全力で一緒に遊んでくれるオニーチャンに懐かない子どもは少ない。
もっとも、子ども達に龍之介が接する機会は少なかったし、最後まで怯えて近寄って来ない子も多かったけれど、ヤンチャな男の子などは「しょうぶしろー」なんて挑んで来たものだ。
そして、根っからの世話好きで、内心では子ども好きな龍之介は、そんな子達にはとことん構ってやっていたものである。
そんな事実は……実は夕季すら知らないかもしれない。自分が孤児院の子ども達の慰安に尽力しているだなんて、格好悪くて伝えられずにいたから。
「恋人なんだから今日はお前しか見ねぇよ! 設定を無視したり、約束を一方的に反故にしたりなんて失礼なこと、俺はしない。
けど、お前が妙な事を気にして楽しめないならフィールドワークはここで終わりだ。あー、残念だなー、イルカもラッコも見たかったし、もっとお前と……」
「楽しいねェェ、妃沙ーー!! デート、満喫しようねェ、妃沙ァァーー!!」
良く通る声で突然そんな事を高らかに告げる莉仁。
単純かよ、と軽くツッコミながら、何だか今のやりとりで莉仁がどこか吹っ切れたような清々しさを纏っていることに妃沙は少しだけ安心したのだ。
今日、彼女の目的はフィールドワークとやらではない。ただ、この街を、場所を、見聞きするものを、食べるものを楽しみに来ただけで、恋愛のなんちゃら、とか、恋人たるはどんなやりとりを、だとか。
そんな余計なことは一ミリも考えず、ただ今は水族館を全力で楽しむだけだと……思い込もうとしていたから。
「だったら黙って楽しんでろよ。面倒くせェんだよ、テメーは。罰として次はラッコ水槽に移動だな!」
「ちょっと待てよ!? 妃沙が誤解させる言動を繰り返すせいで……って妃沙きさキサ!? そっちは海のエグい生物展だけど!?」
「な!? 地図が逆だったか……おい莉仁、ラッコ水槽に連れてけ!」
合点招致、お嬢? なんて言いながら握ったままの妃沙の手にキスを落とし、ドヤ顔で微笑む莉仁。
「……なんかお前のドヤ顔、すんげームカつくな」
妃沙がそう言いながら放った軽い蹴りを莉仁は甘んじて受けながら、ニヤニヤと、とても生徒達には見せられない幸せ全開な笑顔を浮かべていた。
理事長としての威厳とやらを発揮させたいのであれば、生徒の前では妃沙と一緒にいるのは危険であるかもしれない。
今、莉仁はフニャリと愛好を崩し……けれども決して厭らしさを感じさせないのが美形力というべきか。けしからんことである。
「理不尽ーー!!」
「うるさい黙れ、ロリコン」
ドゲシ、と年上男子にキックを入れる絶世の美少女の図はなかなかに衝撃的である。
だが、当人たちにとっては通常営業であり、特に妃沙にとってはやましい所は寸分もないので周囲の目などまるで気にならないのであった。
「おねーたんの蹴りなんて痛くないもんー!」
「ならお幸せなお頭脳を持って三途の川に沈めーー!!」
ドゴン、と、とても良い音をたてて妃沙の渾身の蹴りが莉仁の鳩尾にクリティカルヒットし。
「うぐ……!」
幸せそうな微笑みのままそれを受け止め……そう、鍛えられた腹筋でそれを弾き返しながらもなお、食らったフリをする莉仁。
だが、そんなことは妃沙にはお見通しであった。
「……武器には頼らねェ。いつかきっと、この拳でお前を地に撃ち落とす……!」
キュッと眉を顰め、孤高の仕事人Gよろしく、そう莉仁に告げる妃沙。
「待って待って!? 俺達デート中だよね!? いつからこんなデンジャラスな雰囲気に!?」
「クォォーー!!」
水族館の一角で両手に気合いを込め、恐ろしい擬音と共に息を吸う莉仁の仮初の恋人──水無瀬 妃沙。
彼女はもう、天下一葡萄カーイとか純白ブジュツ会に臨む少年漫画の主人公のような様相でそこに立っていたのであった。
───◇──◆──◆──◇───
妃沙と莉仁がラッコをひとしきり堪能し、可愛いカワイイとはしゃぐ妃沙の耳元で「ボクちんの方がかわいーもん!」なんて囁く莉仁に妃沙が思いっ切りその頬を抓るという場面があったり、
時間を合わせて行ったイルカショーでは餌やり体験に元気良く立候補した妃沙が子ども達を押しのけて観客の前に立って楽しそうにイルカ達との交流を楽しみ、莉仁に大爆笑されたり、
やたらと目立つ二人に見惚れてしまうカップルが、少し喧嘩をしたり仲直りをしたりする小さな事件が勃発したりと、その日の水族館はなかなかに活気に溢れていた。
そして、そんな二人が相変わらず手を繋ぎながら大量のクラゲが飼育されている水槽の前を通りかかった所で、その変化は突然に訪れた。
「妃沙、カードが光ってる」
え、と、ポケットに入れたまま忘れていた入場時に渡されたカードを取り出すと、突然にそのカードからパッと閃光が迸り、一定の法則性を持って水槽に近付いて行く。
見ると、それは大きなハートを模した形になっているようだ。
そう言えば、今日、この水族館では特定の場所にカードを持って行くと反応を示すというイベントが開催されてたな、とやっと思い出す妃沙。
そして、その原理はきっと魔法の力を駆使したものなのだろうし、普段の妃沙ならその原理について深い興味を示す筈だし、今日はまた『魔法研究部』のフィールドワークとしてここに来ているのだからどうしてそんな反応を示せるのか、ということに想いを馳せるのは正しい行動であるはずなのだけれど。
……何故だか妃沙は、発生したその反応に夢中になってしまい、原理の追求は後で良いや、なんて考えてしまったのだ。
身体年齢的には年上である莉仁がずっと見せてくれている素直な反応に感化されたか、なんて、自分の幼児還りを心配する妃沙だけれど、隣でその光景を見ている莉仁は、相変わらず子どものように瞳をキラキラさせている。
「妃沙、見て! 光に反応して特定のクラゲが集まって来てる……発光するのか、あのクラゲ。見て、ほら、光に寄り添うようにクラゲが並んで発光して……」
「……すげぇ。水槽にでっかいハートが浮かび上がったな」
その光景に、思わず周囲もホゥ、と息を漏らしている。
ちなみに、妃沙達が受け取ったこのカードはこのイベント最大の『当たり』であった。
他のカードはちょっと音が鳴って少しだけイルカが寄って来るとか、係員と一緒にペンギンとお散歩が出来るだとかいう、そのグループ限定の仕掛けが多かったのだけれど、妃沙達が受け取ったカードの効果はまるで違った。
カードから飛び出した光は硝子を通して水槽の中に大きく映り込み、光に反応し、自らも発光するクラゲが次々とその場に並び、大きなハートのマークを水槽内に演出してみせたのである。
深海に棲むクラゲばかりが集められたその水槽は今や光るハートだけが浮き上がる事態となっていて、その美しさは観客の言葉を奪う程であった。
「綺麗だな」
呟いて、珍しくキュッと莉仁の手を握る掌に力を込める妃沙。
どうやら彼女も目の前の美しい光景に感動して、その気持ちが現れてしまっているようだ。
「……ああ」
いつも饒舌な莉仁も、今はその光景に深い感動を覚え、言葉が少なくなってしまっている。
彼も魔法研究部の顧問として、希少な魔力持ちとして、魔法の研究は日々行っていたし、この演出には少ながらず魔力が使われていることは解っていたのだけれど、彼もまたその原理の追求は後回しにしたかった。
クラゲが発する桃色の光を浴びて隣に立つ少女の笑顔は何物にも代えがたいくらい輝いていたし、可愛くて綺麗だったし……本当は誰にも見せたくないくらい愛おしいものだったのだけれど。
これは恋敵も知らない自分だけの笑顔なのだと思うと、なんだか優越感すら感じてしまう。まったく、恋というのは人を素直にしてしまうな、と苦笑する莉仁である。
「ねぇ、妃沙。クラゲになりたいって思った事……ないか?」
思わず口をついて出た言葉。
脳も血も涙も、心臓すらなくユラユラと漂うクラゲの生態を羨ましいと思う時の自分は決まって少し疲れていた時だったので、弱音を吐いてしまったような気になって少しだけバツが悪い気持ちになる莉仁。
だが、その彼の愚痴めいた言葉に応えてくれた想い人の言葉は、莉仁ですら敵わないと思わせる程に大人びたものであった。
「あるぜ。本能に従ってユラユラと漂って、血も涙も……脳も心臓も捨ててたゆたう波に身を任せ、運が悪ければ飯も食えないような生活は羨ましいよ。
今の自分が嫌いなワケじゃねーけど、何も考えたくねェなと思う瞬間も……あるんだ。自分に執着されるのはあんまり慣れてなくてな」
呟くようにして告げられた妃沙の言葉。
真っ直ぐに水槽を見つめながら語るその瞳は何処か憂いを含んでいて、莉仁の心に甘く突き刺さる。
どんな状況でも決して嘘はつかないという信念を自らに課している妃沙だから、その言葉は正しく真実なのだけれど、きっと『妃沙の言葉』ではなく『龍之介の言葉』で聞こえている莉仁だからこそ、その切なる胸の内が理解出来るのだろう。
世間一般から見れば、美少女で、良家の生まれで、様々な才能にも恵まれ、その上魔力なんて稀有な力を持っている彼女はとても優遇されている存在なのだけれど、その環境は彼女にとって必ずしも幸せではないのだと、妃沙は今そう語ったのだ。
そして『執着』している側の莉仁は、少しだけ自分の気持ちが迷惑なのではないかと弱気になってしまった。
「……好きだと言われるのは怖い?」
そんな不安げな莉仁の言葉に、向日葵みたいな満開の笑みを寄越す女子高生を永久に自分だけが知る牢獄に閉じ込めてしましたいと思うのは、奇しくも知玲と同じ思考回路であった。
彼女の笑顔は人の心に少し、強すぎる作用を齎すようである。
「いや、それは純粋に嬉しいぜ! 今まではその気持ちに応えてしまったら迷惑がかかってたけど、『妃沙』の言葉は迷惑なんかじゃないって葵も知玲も言ってくれるしな」
「ちょっと待って妃沙、知玲くんにも応えているつもりなの!?」
「応えてんだろ? ほぼ毎日卵焼きを作ってるし、アイツのワガママは絶対に無下にしないし」
「いやいや、気持ちに応えるってそういうことじゃないし……それきっと、俺が頼んでもそうなるヤツだよな?」
まぁな、と応える妃沙に、恋敵ながら知玲くんも大変だな、なんて同情めいた気持ちを抱く莉仁。
翻ってそれは莉仁にも言える事なのだけれど、元々が水無瀬 妃沙奪取レースにおいては非情に不利な立場にいるので、今更その程度の不利が追加されたところで対したことはない。
また、結城 莉仁という男は自分のカードが弱手であればあるほど、それをどう引っ繰り返すかを考え、それを成し遂げることに望外の喜びを感じるところがある人物なので、今の状況もとても楽しんでいるのである。
そんな莉仁に、つい、と瞳を上げ、挑発的な微笑みを浮かべながら妃沙が言った。
「俺はさぁ……周囲にいる人間を須らく守りたいと思っちまうフシがあるんだよな。でも今は少しその対象が増えすぎて手が回らねぇから、莉仁、お前は自分の身は自分で何とかしろよ?」
冷たいなぁ、なんて言いながら、莉仁はこの子は何処まで男前なんだろう、と少しだけ自信を失いそうになってしまう。
人々の平和は自分が守る、なんて少年漫画のヒーローではないか。
その可憐な容姿は少女漫画のヒロインを張れそうなものなのに、その実態はヒーロー属性バリバリだなんて惹かれないはずもないよな、と改めて実感する。
そしてその根底にある限りない優しさに、ほっこりとした物を感じてしまうのである。
「……別に良いよ。俺は自分の身くらいは自分で守れるし、出来れば俺は妃沙の隣に立って同じ物を見ていたい。そして、ピンチの時にはお互いに背中を任せ合えるような……相棒みたいな関係が理想かな」
その言葉に、妃沙の片眉がピクリと上がる。
守る、守られるという関係ではなく、隣に。ピンチの時は背を向け合って助け合う関係というのは、ある意味妃沙の理想だったからかもしれない。
コイツなかなか良いこと言いやがるじゃねぇかと、認識を改めかけた妃沙。
だが、莉仁は何処までも莉仁のままであった。
「ところで妃沙、そんな相棒的な俺に今度ご飯を振舞ってよ。俺の好物、唐揚げなんだ」
「却下」
オオォォーーと再びくずおれる莉仁。その絶望の唄は周囲を巻き込み、不幸にも偶然に居合わせた一般人を巻き込み、世界を絶望に染める上げるのではないかという勢いであった。
そしてまた、次の瞬間に妃沙が告げた言葉は恋する男子の心を焦土に変えてしまう程の破壊力を持っていたのである。
「味の好みは知玲のしか知らないから、お前の飯は作れない」
「って何だよそれ!? 胃袋掴んじゃったら男子高校生なんかひとたまりもないだろ! 捨てて、今すぐその胃袋捨てて!!」
「ンなこと出来っかよ! だいたい、俺は知玲の胃袋なんか握ってねェ! 気っ色悪ィこと言ってんなッ!!」
「妃沙、ねぇ、俺、卵焼きは甘い派で嫌いな食べ物はキノコだよ!」
「知るかッ! 好き嫌いなくしてから言いやがれワガママ王!!」
いつの間に霧散したのかは解らないが、美しい演出がされていたクラゲの水槽の前でそんな残念な口論を交わす美形二人。
ただし、口調とは裏腹にとても楽しそうな雰囲気に、水槽の中のクラゲ達の様子も何処となく幸せそうにユラユラとたゆたっていたのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「あー、この水族館にはフライド・エッグはいないんだな。見たかったのに、残念……」
莉「え? 何で目玉焼き???」
龍「どうせクラゲになるなら強ェのが良いよな! ライオンタテガミとかさ」
莉「……は? 鬣?」
龍「クロッソタとかになって生態系を体験してみるのも良いな。まだ謎多き種類だし」
莉「……クロッ……ソ……?」
龍「……お前、何も知らないんだな」(溜め息)
莉「君が妙に詳し過ぎるだけだと思うぞ!!」




