◆68.おとといおいで、不思議ちゃん
ようやく迷子を自覚した妃沙。
良い子の皆さまは道が解らなくなったら思い込みで高速移動したりせず、冷静にその場に留まって現状確認をする事をオススメするのだが、今の妃沙にはもう遅い。
今、彼女は非常に焦っており、早く友人達と合流しようと必死だったのだ。
そんな彼女に瞳に、角を曲がる真っ赤な髪が目に入る。
普段の妃沙であれば、それが大好きな葵よりもずっと背が高かったことであるとか、微妙に色合いが違う事だとかに気付けたのだろうけれど、とにかく今、妃沙は焦っていて正常な判断力がない状態であった。
「葵ィィーー!!」
物凄い勢いでその人物が曲がった角を曲がり、その腕をギュッと抱き締め、そう呼び掛けた妃沙。
だが、その声は葵とはまるで違い、低くて、やたらと色気のある男の声で返事をしてくれたのであった。
「……なんだ子猫ちゃん? 積極的な子は嫌いじゃないぜ?」
そう言って妃沙の腕を優しく取ってくれた長身のその青年。
だが彼も、クッサい台詞を投げ掛けた相手が妃沙であったことに、お、と息を飲んだようであった。
「てんとう虫さん?」
「何だ、その認識は……。一応、生徒会長だぞ、俺は……」
ハァ、と溜め息を吐く、泣く子も黙るこの学園の生徒会長・久能 悠夜。
だが、残念な表情は一瞬だけで、次の瞬間には人好きのする、甘い笑顔をその秀麗な顔に咲かせた。相手が普通の女生徒であればイチコロであろう程に麗しい笑顔だったのだけれど……相手はこと恋愛に関してはホモ族の妃沙である、そんな笑顔程度でポッとなってくれるチョロインであれば、知玲がここまで苦戦することなどないのだ。
だがしかし、未だ妃沙との交流が殆どないその王様は妃沙の残念属性などまったく知らない。
彼は今、普通の女子であればイチコロな笑顔と甘い台詞で妃沙を誑かしにかかろうとしていた。
「水無瀬 妃沙、だったかな、子猫ちゃん。一度、聖と一緒に行ったテニスの試合会場でお目にかかったな。覚えていてくれるか?」
「ええ、あの場にいらしたてんとう虫さんと同じ方でしたら、何となく覚えがありますわ」
出鼻を挫かれた悠夜がガクッと肩を落とす。
だがしかし、当の妃沙は今、口元を押さえて頬を染め、彼を直視しないようにする事で精いっぱいであった。もちろん、笑いを堪えているのである。
だって『子猫ちゃん』だ。銀平の中二ポエムが大好物──主に笑いのツボという意味なので、銀平には哀れとしか言い様がないのだが──な妃沙にとり、この手の言葉は面白いという感情しか抱けないのだ。
元々『言葉』というものに対して笑いの沸点が低い妃沙。だから、莉仁のボクちん発言にハマってしまい、つい警戒心を緩めてしまっているという前科がある。
そして、未だ中の人の意識が強いから、自分に対して子猫ちゃんだの可愛い天使だのと言って来る人物に対しては「何言ってんだ、コイツ」程度の認識しか抱けない。
今のところ、妃沙に対して真剣な想い告げられるのは彼女の中身を良く理解している知玲だけであり、彼女もまた、知玲の言葉だけは何を言われても笑いに変換されないのだ。
彼女の中で最大の庇護対象である彼については、その言動をまるごと守ってやろうと決めているので、何をしても何を言っても真面目に受け止める事が出来るのである。
そんな男気を発揮するのであれば、少しはそこに秘められた想いについて察してやってくれ、というツッコミがそこら中から聞こえそうなほどである。
「そんなに照れてくれるなよ。悪戯したくなるだろ?」
だがしかし、天下の鳳上学園高等部の生徒会長を務める程の人物、久能 悠夜はやはり大物であった。
彼は今、妃沙のその仕草を照れている、という風にプラスに変換する事にしたらしい。ポジティブシンキング、ここに極まれり、である。
そしてそんな彼を、妃沙がふと見上げた。その瞳には涙が──もちろん笑いを堪え過ぎた影響である──うっすらと浮かんでおり、興奮したせいで相変わらず頬もうっすらと桃色に染まっていた。
テニス部を引退してから、少しずつ伸ばしていた金髪は肩に掛るくらいの長さになっており、妃沙が不思議そうに首を傾げるとシャギーがかかった横髪がサラサラと顔に掛る。
小さな白い顔に涙の浮かんだ大きな碧眼で上目遣いで見つめられては、いかに天下の女好き・久能 悠夜といえ堪ったものではなかった。
元々、妃沙の容姿は非常に彼の好みなのだ。
そんな彼女が自分の事を全く知らなかったことに野生の本能に火がつき、絶対に口説こうと思っていた相手なのだ、飛んで火に入る水無瀬 妃沙、とはこのことである。
ドン、と悠夜の片手が妃沙の顔の脇に添えられた。
「……良いな、お前。気に入った。俺の女になれよ」
おお、これが噂の壁ドンかと、妃沙は状況も顧みずそんな事に感動しているのだけれど。
今、彼が自分に対して吐いた言葉は、とてもじゃないが聞き捨てならなかった。
「誰が、誰のものになる、ですって?」
俯き、くぐもった冷えた声でそんな事を尋ねる妃沙。
纏う雰囲気は、突然に可愛らしい少女のものからヤンキーのそれに変化している。
だが、悠夜はまた、そんな彼女の突然の変化を面白いと思える程には様々な修羅場を越えて来ている人物であった。
「お前に俺の女になれって言ったんだよ、水無瀬 妃沙。悪い話じゃないと思うぜ? 俺、本命には一途だし」
「なかなか面白いお話ですわね」
ついと顔を上げた妃沙の表情は、今や魔王もかくやといった程にギラギラとした敵意に満ち溢れていた。
それほどまでに、悠夜の言葉は聞き捨てならなかったのである──『俺の舎弟』という言葉が。
妃沙が正しく言葉を理解してくれないことなど周知の事実なのであるが、悠夜はまだ、彼女のその残念な属性の餌食になった事がなかったので知らなかったのである。
そして妃沙は、悠夜の顎をグイ、と取って自分の方に下げて向けさせる。本来であれば、格好良く顎クイをしたい所ではあるのだが、身長差がそれを許してくれなかった。
「おとといおいで下さいな、てんとう虫先輩。生徒会長だからって生徒全員が貴方の舎弟だなんて思わない事ですわ。わたくしは誰の舎弟にもなりません!」
フン、と鼻を鳴らして言い切った妃沙の前で、悠夜の動きが一瞬止まる。
この女は何を言っているのだろう、と、理解が追いつかなかったのだ。だって、舎弟になれだなんて一言も言っていないし、悠夜としては今、恋人になれ、という意味の告白めいた言葉を言ったつもりだったのだ。
言い方は充分に俺様だったし威圧的だったかもしれないけれど、俺の女、という言葉を舎弟、だなんて理解して担架を切って来る女など、今まで出会った事がないので当たり前である。
人を待たせているのでご免あそばせ、と、動き止めた悠夜の腕の下から妃沙が這い出ると、そこには少し前の妃沙と同じく、口元を押さえ、顔を背けている知玲──どうやら笑いを堪えているようだ──が立っていた。
「知玲様、丁度良かったですわ。わたくし、迷子になってしまったようですの。体育館で葵達が待っておりますから、連れて行って下さいません?」
「……ああ、うん、そのつもりで来たんだけどさ……。舎弟……舎弟って……」
「ああ、もう! 時間をロスしているのですから早く、早く!」
知玲の腕を取って妃沙が促すと、笑いながらも知玲はこっちだよ、とエスコートを開始する。
妃沙の表情には演劇部の演目に遅れてはならないという焦りしかなかったし、知玲は未だに笑いを噛み殺し切れずにおり、とても楽しそうであった。
そして二人は、近くに立っていたピンクブロンドの美少女の脇を疾風のように駆け抜け、そして未だ呆然としている赤い髪の王様……悠夜は暫く、その場で固まってしまっていたのだが、ハッと意識を取り戻し、今までにあった事を反芻すると、ニヤリと不敵に微笑んで呟いた。
「……ハッ。面白れぇな、水無瀬 妃沙。久し振りに……燃えて来た」
そうして彼も、何か言いたげなピンクブロンドの美少女の脇を歩き去り、そこに残された少女は一人、グッと拳を握って口惜しそうに唇を噛んでいたのである。
───◇──◆──◆──◇───
時間は少し前に遡る。
妃沙と離され体育館に来ることになってしまった葵から『妃沙とはぐれちまったからアイツを探して体育館まで誘導してくんない?』というLIMEを受け取った知玲は、了解、とだけ返事を送ると直ぐ様、妃沙の捜索を開始した。
行きそうな所は……なんとなく、解る。
携帯が発するGPSを探知しても良かったのだけれど、そうするまでもなく、知玲には妃沙の行動が解るのだ。
どうせ地図を反対に見て勢いで爆走し、行き止まりに差し掛かって「迷子になってしまいましたわァー!?」なんて絶叫しているに違いない。
長年の付き合いだ、そのくらいのことを予想出来ない知玲ではないのだけれど、とにかく目立つ存在の妃沙だ、出来るだけ一人にしておく時間は短いに越したことがないよな、と思い、彼女がいると思しき方向に走っていたのだけれど、そんな知玲に声を掛けてくる存在がいた。
「……あの! 東條 知玲先輩ですよね? 私、今年から高等部に入学した、河相 萌菜っていいます! 中等部まではご一緒出来ませんでしたけど、私、ずっと東條先輩に憧れてて……!」
ふと目をやれば、妃沙のお陰で美少女には見慣れている筈の知玲ですらおや、と思う程の可愛らしい女生徒が頬を染め、両手で拳を口元に当て、自分を見上げている。
(──せっかく可愛いのに、そのあざとい仕草は逆効果だなぁ、残念……)
思わず内心で思ってしまった程に、そのぶりっ子めいた仕草は、知玲にとってはあざとい以上の効果をなさなかった。
確かに、可愛らしいのだ。その仕草もとても似合っているし、手の角度も、上目遣いも、言葉の一つ一つを取っても、とても可愛いとは思う。
やたらと目立つピンクブロンドのフワフワとした髪は小振りな白い顔を彩っており、とても華やかな雰囲気だし、自分を見上げる金色がかった琥珀のような瞳はとても大きくて、うるうると潤んでいる。
口元は手で隠れてしまっているけれど、ここまで整った容姿で実は口裂け女でしたー! というオチはないことくらい知玲にだって解る。この世界はやたらと美形が多いのだ。
そんな彼女が今、鈴の鳴るような震える声で自分の前に立ち、憧れていました、なんて健気な言葉をくれているのだけれど……元の性別が女である知玲にはそんな演技が通用する筈もない。
ましてや今、とても知玲は急いでいるのだ。副会長という要職にある以上、生徒達には須らく同じ対応をしなければならないと思ってはいるのだけれど、本能が彼女を拒否してしまうのは仕方がないだろう。
それ程までに、萌菜、と名乗った少女のあざとさは女の嫌いなそれであったのだ。
「有り難う、光栄だよ。入学おめでとう、河相さん。これからこの学園を満喫してくれると嬉しいな」
そうとだけ告げて、再び妃沙がいると思しき方向に走り出そうとする知玲だが、ギュッ、とその腕に萌菜と名乗った少女が抱き付いて来る。
高校生にはあるまじき質量を伴った胸部、どうやらわざと腕に当てられているらしいそれだが、あいにくと知玲にそんな作戦は全く通用しない。
だが彼女は、キラキラとした笑顔を知玲に向け、更に言った。どうやら相手の状況を思いやるという能力には著しく劣った人物であるようだ。
「……嬉しい! 知玲先輩が萌菜の名前を呼んでくれるなんて……! 憧れてた世界そのまんま!」
今の会話の何処に『東條先輩』から『知玲先輩』に呼び名を変化させ、一人称の『私』を崩して名前呼びに変わる要素があったのだろう、と、知玲が思わずジト目になる。
余談だが、女性であった前世から知玲は自分を名前で呼ぶ女というのが苦手だった。幼い頃はまぁ良いとしても、高等部に入ってまでそんな一人称を使う人物がいたことに驚きすら覚える程である。
彼の妹の美陽も初等部卒業までは自分の事を「みはる」と呼んでいたのだが、中等部入学にあたってそれを改めさせたのは他でもない知玲であった。
せっかく可愛らしく生まれ、多少のわがままはあれど素直で大切な自分の妹が、一人称ごときで下方評価を下されるのは勿体ないと思ったのである。
そして美陽も知玲のそんな言葉を真摯に聞き届け、今ではすっかり「私」という一人称が定着しているので胸を撫でおろしている知玲だ。
ところが、目の前の少女は未だに自分を名前で呼んでいる。ないわぁ、と、思わず溜め息を吐く知玲だが、自分の腕を取った少女は何やら興奮状態にあるようで、意味の解らない言葉を捲くし立てていた。
「本当は出来るだけ早くこの学園に来たかったんですけど、萌菜、一般家庭に生まれちゃったし、高等部から編入して来た美少女っていう設定ですもんね?
ずっと我慢してたんですぅー! せっかくこの世界に知玲先輩がいるのにお逢い出来ないなんて……本当に寂しかったぁ! でも、こうして逢えたんだもん、萌菜のこと、ちゃんと見てくれますよね?」
「……うん、ごめん、ちょっと君が何を言ってるのか解らない」
舌ったらずの話し方も、やたらと甘い匂いも、いきなり腕を胸に押し付ける言動も、そして訳の解らない言葉も、知玲にとっては苦手な要素しかない。
もっとも、知玲には唯一と決めた相手がいるのだし、どんなに可愛らしい女の子が近寄って来ようと靡くことなど絶対になかったのだけれど……それでもこの子は苦手だな、と思ってしまう程に、萌菜と名乗った少女の言動は知玲を苛立たせるものでしかなかったのである。
「ごめんね、今、ちょっと人を探しているから……。河相さん、オリエンテーション、楽しんでね」
感じた嫌悪感を隠し、爽やかな笑顔を浮かべ、それでもやや強引に腕を振りほどく様はさすが、といった所だろうか。
心に決めた人がいるとは言え、自分が副会長という立場にあり、不安でいっぱいであろう新入生を無碍にすることなどあってはならない、と努力した結果であるのだが、さすがに少しだけ苛立ちは表に出てしまったようだ。
だがしかし、萌菜、と名乗った少女はなかなかの強敵で、その鈍感さ加減は妃沙以上、と言っても過言ではなかったのである。
「キャー! 嬉しい、萌菜を案内してくれるんですかぁー?」
「いや、だからどうしてそうなるの!? 言ったよね、今、人を探してて……」
再び知玲がそう言った瞬間、萌菜の眉がキュッと下がり、その大きな瞳にみるみると涙が浮かぶ。
「……探しているのって、水無瀬さんですか? やっぱり婚約者だから萌菜より大切なの? あの子ならさっき、あの角を曲がった所で悠夜先輩と良い感じに……」
「有り難う!!」
妃沙の貴重な情報を提供してくれた事には感謝しかなかったので、そうとだけ言って知玲がその角を目指して疾走する。
近くに妃沙がおり、そしてそこに女好きで有名で面倒臭い性質であると良く知っている生徒会長──久能 悠夜がいると聞いては、知玲としては一刻の猶予もなかった。
その為、目の前で泣きそうな表情を見せていた少女のことなんか一瞬でどうでも良くなってしまったのである。
ましてやその少女には苦手意識しか抱いていなかったのだから、大切な妃沙と苦手な少女、どちらを優先するかなど、それこそ尋ねるのも馬鹿らしい程に、知玲にとっては決定事項であった。
そして、知玲が角を曲がった瞬間。
「俺の女になれよ」
壁にドンされながら口説かれている知玲の大切な人──水無瀬 妃沙。
あ、と彼が口を出す間もなく、顎グイで自分に視線を向けさせて、妃沙が放った言葉。
「舎弟になんかなりませんわ」
さすが妃沙、色男もかたなしだな、と知玲が笑いを噛み殺していると、そんな彼に気付いた妃沙が近付いて来て、自分を体育館に案内しろと言う。
元々その為に来たのだ、知玲に否やのあろう筈もなく、知玲はこの時、自分に声を掛けて来た萌菜のことなど少しも覚えてはいなかった。
「なんで体育館に行こうとしてる君がこんな所にいるの? 真逆なんだけど」
「……う、うるさいですわっ! 半か丁かの賭けに負けただけですわっ! 良いから早く案内して下さいましっ!」
了解、お姫様、と妃沙の小さな白い手を取り知玲が疾走して行く様を、萌菜はずっと唇を噛みしめながら見つめており。
「久し振りに……燃えて来た」
赤い髪の王様すら自分を無視して通り過ぎて行ってしまう様子に、萌菜は呆然と立ちすくんでいた。
だが次の瞬間には立ち直ったのか、きゅるん、と可愛らしい笑顔を浮かべて呟いた。
「攻略対象者が最初から萌菜にメロメロだなんて、ある訳ないもんネ! 萌菜のバカバカ、焦っちゃダメだゾ!?」
コツン、と自分の頭を軽く叩き、テヘペロ、と舌を出す様は確かに可愛らしいものではあったけれど。
誰も見ていないその場で一人コントのようにそんな仕草と言葉を呟く姿は、ただの頭のイタい子、であった。
◆今日の龍之介さん◆
龍「なぁ、さっき、何か甘ったるい匂いがするものがなかったか?」
知「ああ、何かいたかな。それより舎弟……舎弟ってさ……」(笑)
龍「あのダンダラテントウが俺の舎弟になるってなら考えてやらないこともねぇけどな」
知「……いや、ないでしょそれは……」(引)
悠&萌「「自分達をスルーするのやめて!?」」
龍&知「「???」」




