◆65.遅咲きの花の色は。
波乱を含んだメインディッシュの食事を賑やかに終えた莉仁と妃沙。
若干、妃沙の皿にキノコが、莉仁の更にベーコンが増えたのは想定の範囲内だ。
「妃沙たんはお肉よりキノコが好きなフレンズなんだよねー!」「勝手な事言うな、アホ理事長!」という会話は主に、責任ある立場にある莉仁の為に聞かなかったことしてあげて頂きたい。
一人で食事をすることが殆どだった莉仁は、その場に苦手な物を出されても相手に押し付けるという初めての方法でそれを回避出来たし、妃沙もまた美味しく食事を頂く事が出来た。
今は食後のデザートを……というシチュエーションではあるのだけれど、あいにく妃沙は甘い物はあまり好きではないので柿ピーをくれ、とオーダーしたところ、
承知しました、と翠桜さんなる人物が快く受け入れてくれ、莉仁の前にはチョコレートケーキ、妃沙の前にはバジルの香るアイスクリームが提供された。
極限まで甘さを抑えたバニラアイスの中にバジルのピューレが混ぜられたそれは、さっぱりとしていて食後のデザートに丁度良いものであった。
「何で甘いものが苦手なの? 君がケーキを頬張る姿なんて、ご褒美画像でしかないじゃないか」
キノコが苦手という弱点を晒してしまったことで、妃沙に対して取り繕う事を止めた様子の莉仁。
甘党だと語っていたとおり、提供されたデザートのケーキを美味しそうに咀嚼しながら、美味しそうアイスを頬張る妃沙にニコニコと微笑んでいる。
その笑顔はアイスを啄ばむ妃沙の姿が小鳥みたいで可愛いな、という側面と、彼の大好物であるこの店のチョコレートケーキの美味しさに幸せを感じている、まさに溶けそうな程に甘い表情であったのだが、目の前の鈍チンはそんな甘ったるい視線を受けても何も感じる所はないようであった。
「理事長サマが甘い物に目がなくてキノコが苦手だなんて実態よりは、甘い物が苦手な高校生の方が意外性は少ねェだろ。女が須らく甘い物が好きだなんてルールは何処にもねぇんだから」
「それを言うなら、責任のある立場にいる大人が甘党だって苦手なものがあったって当たり前だと思うけどな。俺だって一人の人間なんだから」
呟くようにそう言った莉仁の表情には、少しだけ寂しそうな色が浮かんでいた。
まぁな、と、こちらも呟き、それ以上の追及を避けた妃沙。だがそれは、莉仁を気遣ってのことではない。アイスが溶けてしまうからに他ならない。
こんな素敵な場所で、他人の目を引く美貌を誇る社会的地位のある男性とデートをしても、どこまでも水無瀬 妃沙は水無瀬 妃沙であった。
そしてそんな、自分を特別視しない妃沙の態度が、莉仁にはとても心地が良かったのである。
と、そこに食後のコーヒーを乗せたワゴンを押しながら翠桜さんなる女性がやって来た。
鼻腔をくすぐるコーヒーの香りは芳しく、とても妃沙の好みの香りであった。
前世からコーヒーには目がない妃沙。美しい所作で自分の前にサーブされたコーヒーにフニャリと幸せそうに愛好を崩す。
そんな彼女の様子を、莉仁と翠桜さんは優しく見つめており、その場はとても温かい雰囲気に包まれていた。
「コーヒーがお好きなのね。しかもブラックで飲んで下さるなんて、淹れた甲斐があるというものだわ。莉仁さんはいつも砂糖もミルクもたくさん入れてしまうのだもの」
「それはまた……こんなに美味しいコーヒーに対する冒涜ですわね」
二人の女性から非難めいた視線を送られ、おお怖い、と呟いて首をすくめながらもカップに砂糖とミルクをたっぷりと追加する莉仁。
どうやら彼の甘党は相当なもののようである。
「それにしても……莉仁さんがこのお店に誰かを連れて来て下さる日が本当に来るなんて。しかもそれがこんなに可愛らしいお嬢さんだなんて……本当に嬉しいわ」
そっとその細い指で目尻を抑える翠桜さん。
その姿はとても慈愛に満ち溢れていて、涙は浮かべているけれど、その表情には何処か安心したような微笑みが浮かんでいる。
そんな彼女の姿に莉仁は少しだけ居心地が悪そうにしているが、妃沙には翠桜さんが心から莉仁を想っているのがしっかりと伝わり、何故だか口をつぐんでしまう。
人が人を想う気持ちは決して馬鹿にしてはいけないという、前世から持っているモットーが妃沙をそうさせたのである。
それは知玲も良く知る妃沙の性分なのだけれど、だったらもう少し知玲の気持ちも理解してやれよ、というツッコミはこの場では割愛させて頂く。
「……あら、御免なさいね、私ったら……。せっかくの楽しいデートの場に、おばあちゃんはお邪魔よねぇ。可愛いお嬢さん、食事は楽しんで頂けたかしら?
出来ればまた、莉仁さんと一緒に来て下さったら嬉しいわ」
優しく微笑みながらそう言って、その場から退出しようとする翠桜さんに妃沙は言った。
「お食事、とても美味しく頂戴致しましたわ。けれど、一番のスパイスは理事長を想っていらっしゃるそのお心なのだと、今理解が出来ました。
愛情は最高のスパイスだなんて良く言われていますけれど……今日ほどそれを実感した食事はありませんわ。こんなにお母様に想われている理事長だから、きっと素敵なのですわね」
本当に御馳走様でした、とニコリと微笑む妃沙の姿に、翠桜さんはいよいよその瞳からポロリと真珠のような涙を落してしまう。
慌てた様子で立ち上がり、その涙を拭っている莉仁の姿は、少ない時間の中で妃沙が見て来た彼の姿とはまるで違う、一人のただの息子の姿であった。
ありがとう、と告げ、翠桜さんがその場から退出すると、ハァァーーと深い、深い溜め息を吐いて莉仁が着席し、ガシガシと頭を掻いている。
「何かマズい事言ったか?」
暫く彼が俯いて黙り込んでいるので、少しだけ心配になった妃沙がそう声を掛けると、莉仁は再びハァァーーと深い溜め息を吐く。
「……妃沙、本当に君って人の心を掴むのが上手いよな。今ので翠桜さんはすっかり君を気に入ってしまったに違いないし……ハァ、これから先がまた思いやられるなぁ……。理事長をしている学園の生徒なら大丈夫だと思ったのに……」
莉仁の呟きは、妃沙には全く理解が出来なかったのでコテン、と首を傾げると、莉仁は突然に顔を上げてバン、とテーブルを叩く。
強めのその衝撃に、テーブルの上に乗ったままのコーヒーカップがカチャン、と音を立てた程だ。
「そういうあざと可愛いの、どうかと思う! 男前なのか可愛いのか、あざといのか天然なのかハッキリしてくれよ!」
「ハァ!? 何言ってんだてめェ、意味解んねェよ!」
突然激昂した莉仁に対し、妃沙もつい喧嘩腰で応じてしまうのだけれど。
不思議とそれは一触即発な雰囲気にはならず、莉仁もまたそのやり取りを楽しんでいるのが理解出来た。
そしてそれを証明するように、次の瞬間には二人ともクシャリと愛好を崩して「アハハ」と爆笑していた。
「あざと可愛いってなんだよ、莉仁。素の言葉が聞こえてんだろ、一応」
「ギャップ萌えってやつ?」
なんだそれ、と再び笑いの渦に包まれる二人。
美味しい食事、互いに素のままでいられる相手との会話。
そんなものにずっと飢えていた二人にとっては、この一時は本当に貴重な時間なのであった。
───◇──◆──◆──◇───
必ずまた来てね、と、うっすら涙すら浮かべられ、優しいハグとオリジナルブレンドだというコーヒー豆すらお土産に持たせてくれた翠桜さんに別れを告げ、妃沙は再び気障ったらしい莉仁の真っ赤な車の助手席にチョコンと納まっている。
彼女の横では、相変わらず満足気な微笑みを浮かべた莉仁が、鼻歌すら歌いながら上機嫌で運転をしていた。
なお、莉仁が語っていた庭園は、思いの外食事に時間を掛けてしまったためにまた今度、となった次第なのだが、果たして次があるのかどうか、妃沙にもそれは解らない。
だが、確かに飯は美味かったし、コイツとの会話も気を遣わなくて良いから楽だし、また来てやっても良いかなと、妃沙が莉仁の横顔を見つめていると、ふと、莉仁がチラリと色っぽい流し目を寄越した。
「そんなに見つめられると帰したくなくなるなー」
「通報すんぞ」
フンッ、と鼻を鳴らして呆れたような視線を送る妃沙に、莉仁はまたブハハ、とらしくない笑いを漏らしている。
だが、しばらくして笑いを治めると、視線は前に向けたまま、やや真面目な声色で言った。
「また頼むよ。俺は寂しい独り身のオッサンだし、妃沙と一緒だと翠桜さんも喜んでくれそうだしな。俺には……そんなことくらいしか、あの人に恩返しをする方法が見つからないんだよ」
母親への感謝を語るのとは何処か違う決意が篭った口調でそんなことを言う莉仁を、妃沙は黙って見つめていた。
何か事情がありそうなのは、先ほどのレストランでも感じていたのだけれど、他家の事情になど、簡単に首を突っ込んで良いものではない。
ましてや、親近感を抱いているとはいえ、莉仁はまだ三度しか会ったことのない相手なのだ。妃沙に何も言えるはずがないのだが、当の莉仁はあっさりとその事情を語り出す。
「母親と言っても、血は繋がってないんだ。複雑な事情はあるにはあるけど……俺にとっては紛れもなく、翠桜さんは大恩ある母親だからな。妃沙にもまた会いたがってると思うし……頼むよ」
視線はしっかりと前に向けたまま、今までのおちゃらけた雰囲気が嘘のように真面目な口調で話す莉仁の横顔を見ながら、ああ、やっぱりコイツは大人なんだな、と妃沙は思う。
大人になればなるだけ、複雑な状態というのは増えていくし、ややこしくもなるものだ。
かくいう自分も『転生』なんてトンデモ体験をしてしまって、その秘密は知玲しか知らない状態にある。
もしかしたら妃沙の能力が通じない、というこの男にはバレてしまっているかもしれないけれど──だって知玲ですら聞くことの出来ない素の言葉を彼は聞いているのだ、今はやたらとウケているだけで済んでいるけれど、妃沙の中にいるのが見た目通りの可愛らしい少女ではないなんてことは解っていそうだ。彼に対して警戒心を抱いていない今、取り繕うことはすっかり止めてしまったのだから。
「良いぜ。翠桜さんの料理は美味しかったし、あそこのコーヒーは絶品だ。食事くらいなら何時でも付き合ってやるよ。けど……出来れば次からは掻っ攫うんじゃなくて事前に言ってくれると助かるな」
そう言って、妃沙はまた、知玲のことを思い出す。
放ってきてしまったけど大丈夫かな、なんて、窓の外を見ながら少しだけ心配していると、隣の莉仁がクスッと笑う気配がした。
「君の婚約者様はずいぶんと心配性みたいだもんな」
「……今は『婚約者』じゃねぇけどな」
ポツリと呟いた妃沙。
だがその瞬間、ええぇぇーー!? 叫んだ莉仁が慌てたように路肩に車を止める。
どうやら妃沙の発言に大層驚いているようだが、何をそんなに慌てているのか妃沙には解らなかったので、不思議なものを見るような表情で莉仁を見つめていると、彼はハァ、と溜息を吐いてハンドルに突っ伏している。
「……妃沙。突然そんなビックリ発言をするの止めてくれよ、運転中なんだから危ないだろ!?
俺も理事長就任にあたって生徒達のことは把握しておこうと思って色々調べたけど、君たちが婚約を解消したなんて話は何処からも出て来なかったぞ!?」
ハンドルに手を置いたまま、驚愕の表情で自分を見つめている莉仁。
だが妃沙としては別に秘密にしている訳ではなかったし、親しい友人には自らの口でことのあらましを告げたくらいである。
ましてや知玲にも納得して貰った上で決めたことであったし、新任の理事長が一生徒の婚約解消なんてささやかな事実を知らないくらい当然だろ、と不思議そうな表情で告げると、莉仁はまたしてもハァァ、と溜め息を吐き、ハンドルに突っ伏したまま低い声で唸っている。
そのまましばらく動かずにいるので、妃沙は体調でも悪いのかと少し心配になり「おい、莉仁……」とその肩に手を置くと、突然に復活を果たした莉仁がバッと顔を上げ、その小さな白い手をキュッと握り締めた。
「妃沙、君は少し自分を過小評価しすぎだ。知玲君との婚約を解消するってことは、政財界に多大な影響力のある東條の御曹司と、今、世界が最も注目しているミナセグループの令嬢がフリーになるってことだろう?
なんで高等部入学のこのタイミングで婚約を解消するんだよ!?
言っておくけど、高等部は今までのぬるま湯みたいな環境じゃない。全国から多数の生徒が集められているし、教師の数も比べ物にならない程いるんだ。
そんな、何処にどんな奴が潜んでいるか解らない環境の中でこそ、知玲君との婚約は隠れ蓑になるんじゃないか。それをどうして……!」
真剣なその瞳には、今までのようなおちゃらけた様子はまるでなく、心から妃沙を心配してくれているのが解るものだ。
だが妃沙だって、思い付きや一時の気の迷いで、知玲を傷付けると解っていながら婚約を解消しようなんて言った訳ではないのだ。
むしろそれは、彼女にとっては今しかない、というタイミングだったのだと、キッと莉仁の瞳を強い意思を以て見返している。
「だからだよッ! 今までよりずっと出会いが増えるから知玲を解放したいと思ったんだ。アイツは……自分なんかよりずっと真っ直ぐで強くて……光の中で生きて行かなきゃいけないヤツだ。
過去の亡霊に縛られて、いつまでも俺の側にいたら見えるべき世界も見えなくなっちまうかもしれないだろ! 俺は……自分が怖いんだよ。真っ直ぐなアイツの瞳を受け止めることが、段々当たり前になって来て……」
ああ、何で自分はこんな場で、良く知りもしない相手に対してこんな気持ちを吐露しているのだろうと思うのだけれど、もう遅い。
溢れだした気持ちは今や涙となって妃沙の瞳に浮かんでいる。
拭おうと上げた、もう片方の手すら莉仁に握られて……今、妃沙は狭い車内の中で、何処か獣のような獰猛さを纏い出した大人の男と向き合う羽目になっていた。
「……そんなに、知玲君が大事?」
問われた、その声。
けれど、妃沙の答えは決まっている。
「……命を賭けて守るって誓った相手だ。婚約なんかどうだって良いんだ、本当は。ただ、今はこういう関係の方が、知玲の為にも俺の為にも良いと思っただけだ」
強い決意の光を乗せて自分を見つめる妃沙の瞳に負けることなく、莉仁もまたその瞳にギラリと危険な光を乗せる。
「……ふぅん? 俄然、燃えて来たな……」
そう言って、莉仁は両手を取った妃沙をグッと自分に引き寄せ、片手を解放するや否やその手をそっと妃沙の後頭部に添える。
そしてそのまま……チュ、と、音を立てて秀麗なその唇を、妃沙の唇の脇のポワポワとしたその部分にそっと落としたのである。
「……おいロリコン、今直ぐ通報してやるから離せよ」
「……ねぇ妃沙、君は本当に情緒が足りないよ……」
ガクッと肩を落とす莉仁。
彼の計画では、ここでビックリして言葉を失った妃沙に、更に甘い言葉を囁いて大人の余裕を見せつけるつもりだったのに、実際に彼女の口から出て来た言葉は『通報』だ。
どうやら全く動揺していない訳ではなさそうだけれど、なるほど、長きに渡って妃沙の隣に婚約者として君臨していたあの少年からは想像以上のスキンシップを受けて来たらしい、と理解する。
そうでなければ、こんな場面では身体が固まったり悲鳴が出たりするのが、今までの莉仁が見て来た女性達が見せてくれた反応だったのだ。
目の前の少女の中にいる人物がただの可愛い高校生ではないことは、その口調からハッキリと理解しているし、もしかしたら性別すら違うのかもしれない、という確信めいた予感はあるのだけれど、
だが、どうだろう。中身はどうであれ、身体は可愛い女子高生、そしてその心根は……酷く素直で真っ直ぐで、底抜けに優しい。
「あー、降参! もう良いや、君に手を出したらロリコンって言われるのは目に見えていたし、おちゃらけたオニーサンとして信頼を得ようと思ってたけど……止めだ、止め!」
惚れるな、という方が無理な話だと、莉仁は思う。
初めて出会った大学生の頃から、初等部にいた彼女のことをずっと忘れられずにいたのだ、世間がどう思おうと構うもんか、と決意を新たにしたのである。
「知玲君との婚約を解消したなら遠慮することもないか。妃沙、覚悟して」
──遅く咲いた初恋は暑苦しいよ、と、ニヤリと微笑んで告げる莉仁。
「……おーこわ……」
呟いてぷい、と窓の外に顔を向けてしまった彼女の頬は、少しだけ染まっているように見え、莉仁はいたく満足したのであった。
──結城 莉仁、三十歳。遅すぎる初恋の花が今、咲き乱れようとしていた。
◆今日の龍之介さん◆
莉「遅く咲いた恋の花は……情熱の色をしていた」(キメ顔)
龍「……は? お前、突然何言ってんの? ついに頭でも沸いたかよ?」
莉「キャッチコピーだもーん! 作者がやれってゆーからぁぁーー!!」
龍「そーかよ。まぁ、無駄に美形だしハマってはいるけどな……」(そっと顔を反らす)
莉「クッソ、俺だけじゃ不公平だ! 次回、知玲君にもやってもらうからなッ!!」




