◆6.きさ、参上!
契約と婚約、という衝撃的なオマケ付きで知玲──中の人、夕季と再会した妃沙──その中の人、綾瀬 龍之介熟年十八歳。
彼はその後、この世界で生きる為の術を、知玲と共に学ぶことになった。
名家の跡取りである知玲と妃沙の婚約は、水無瀬家にとっては最良、いう訳では決してない。
妃沙は水瀬家の一人娘であったし、嫁に行く訳には行かなかったからだ。
だが、そんな大人の事情は「取り急ぎ両家の繋がりを深める為には何よりの手段でしょう。我が家には妹もいますし、いざとなれば美陽が婿を取れば良いことです」という知玲の説得と、子どもの言う事だから、という判断により、割とあっさりと受け入れられてしまった。
確かに両家が繋がりを持つ事は双方ともに望んだ事であったし、妃沙がもし、男児として生まれて来たのなら、ほぼ同時期に生まれた美陽と婚約を、という思惑もあったのだから。
そんなワケで晴れて婚約者となった知玲と妃沙は、共に家庭教師に付き、座学やあらゆる科目の勉学、魔法を学ぶことになった。
そこに知玲の妹の美陽が含まれなかったのは、彼女には殆ど魔法の才能がなかったから、という理由と、彼女が入ると妃沙に絡みまくってしまい、勉強がまるで捗らなかったからだ。
兄にゾッコン(死語)であった美陽は、知玲や妃沙と違い、中身は至って普通の女児であった為、その感情を抑え込んだりする事など考えも及んでいないようで、
妃沙に構う知玲の邪魔をし、時には妃沙を抓ったり叩いたり、という事を繰り返した為、ついには彼らの両親が相談して、その場から外す事が決められたのだ。
妃沙だって今は三歳児とは言え、中身は高校生、その年頃にしては大人びた態度や理解力の高さを発揮させていたし……何よりもその内包する魔力は、この世界でも稀な程に大きかった。
そんな訳で、周囲の妃沙に対する期待も大きく、その教育を優先させようという事になったのは仕方のないことだろう。
もっとも、美陽のそんな嫉妬めいた行動は、彼ら二人にとっては愛らしい子どもの我が儘程度のものでしかなかった。
「美陽様ってお可愛らしいですわよねぇ……!」
「イヤ妃沙、君も大概だからね? いい加減に自覚して」
そんな二人の会話も、日常茶飯事で繰り返されていた。
それに妃沙はまた、改めて受ける教育というものに手応えも感じていた。
目付きが悪かっただけで度々呼び出され、授業をサボることになってしまったことはあるけれど、元々勉強は嫌いではなかった。
元々は心根の優しく、真面目な男だったのだ、今、その外見が見合ったものになり、真面目に学習すれば褒められ、知識も蓄積されて行くのを実感出来れば楽しくない筈もない。
──確かに、性別は変わってしまった。けれど、前世では得られなかった両親からの精一杯の愛情、という物を受け取る事にも、むず痒さを残しながら少しずつ慣れて来ており、自分の立場を認識してしまえば、その優しさや純粋さが周囲に振り捲かれ、絆される人物が多くなるのは当たり前の事と言えた。
また、知玲は二人だけの時に限り「マナー講座」なる教育も施すことにした。
曰く「脚を拡げて座るな」だの、「足音をバタバタと立てて歩くな」だの、「人前でのクシャミや欠伸は出来れば我慢、どうしようもない時は手で隠し、出来るだけ可愛らしく」だのと言った、所謂女の子として生きる為の所作である。
前世では男であり、しかも粗雑に振舞う事を美徳としていた妃沙にとり、これは取得をするのに中々苦労……と言うか、意味のある事に感じなかったので、消極的だったのだけれど……。
反抗したり不満そうな顔を表したりすると、決まって知玲が言うのだ。
「体格も何もかも違うんだから、それなりの振る舞いってものがあるでしょ。それに……二人っきりの時はそのままの『龍之介』で良いから」
……そう、甘やかして来るのである。妃沙が『龍之介』と呼ばれると仄かに耳を紅く染め、喜んでいるのが知玲には丸解りだった。
男には戻れないという理解はあるのだが、まだ心の何処かで『龍之介』を捨て切れずにいるようで、元の自分を認知してくれる知玲の言葉は嬉しいらしい。
けれど、妃沙も少しずつ意識と身体を融合させ、女の子らしい振る舞い、とやらを仕方なく覚えて行った。
全く、女性というのは本当に面倒臭いものですわねっ! と、度々その愛らしい口を尖らせてはいたけれど。
だが、上手に生きていく為に必要な事、と言われてしまえば従わない訳にもいかない。
そうして、妃沙は未だ子どもながら知性と偽りの品性と穏やかな優しさを称えた、立派な令嬢めいた存在に育ちつつあった。
だが、そんな妃沙を自慢気に思いながらも人一倍危機感を抱いていたのは、一番側にいた知玲だ。
だから彼は、度々妃沙に言って聞かせていた。
「良い? 妃沙、僕との約束を忘れないでね。君と僕は婚約中だし、周囲の人間は誰であろうと簡単に信じちゃいけないんだからね?」
「何をおっしゃいますの。自分の事は勿論、貴方の事も護れるようになろうと、こうして日々、勉強や魔法の練習や、面倒臭いマナー等を学び続けているのではありませんか」
「だから妃沙、そういう殺し文句をサラっと言うの止めて! いい加減、その姿でそんな言葉を吐く事の爆発力を自覚してよねっ!」
性別は変わったと、自覚はしている。
けれど、自分の容姿が好ましいものであるという自覚は……前世からの刷り込みが余りに根深く、未だ深く理解は出来ていないようだった。
だからこそ、彼女は誰にでも愛らしく微笑み掛けるし、優しさや善意、というものに慣れていないせいか、ちょっと上手い言葉にはすぐに騙されそうになる。すぐに人を信じようとしてしまうのだ。
それは名家の一人娘で美少女で希少な魔力持ちという存在である妃沙にとり、非常に危険なものであると言っても良い。
それが解っていたからこそ、知玲も強引な手立てを以て契約と婚約、というものを履行したのだけれど。
(──妃沙に全く自覚がないんじゃ、僕がどんなに目を光らせていても危ないっていうのに──)
フゥ、と溜め息を吐いた知玲。
そんな彼の心配が現実になってしまったのは、それから更に二年後、知玲が小学校に通うようになり、妃沙の側に居る時間が減ってしまった、ある日の事だった。
───◇──◆──◆──◇───
「水無瀬 妃沙ちゃん? 今日は運転手の方が急病で、お迎えが変わってしまったの。お姉さんがお家に連れて行ってあげるから、この車に乗ってくれるかな?」
見覚えのない優しそうな女性が、そんな風に言って自分を迎えに来た。
知玲と、知らない人には付いて行かない、という約束をしていた彼女であったので、突然そんな事を言われても、と困ってしまう。
けれど、いつまでたってもいつも彼女が通っている幼稚園に迎えに来てくれていた運転手さんは来てくれなかったし、その時既に膂力には不安があったものの、魔法については須らく学んでいた妃沙。
イザとなりゃ魔法を使って逃げれば良いか、くらいの簡単な気持ちで、その誘いに乗ってしまったのだ。
けれど、その車は例によって家からは反対の方向に走って行くし、運転しているのはなんだか前世でお馴染みだった悪人ヅラの男。ご丁寧にグラサンまで掛けており、なんだか懐かしさすら感じてしまう。
(──この世界でも悪人ヅラの基準って変わらねぇのかな?)
呑気にそんな事を考えている彼女の横で、最初に声を掛けて来た女が何処か吃驚した様子で自分を見ている。
「……貴女、度胸が良いのねぇ? 流石にこれだけ自宅と違う方向に来ているのだから不安でしょうに」
「キャー! こわーい! わたくしをどうするつもりですのぉー!? ……とでも言えばご満足頂けるのかしら?
……騒いだ所で自分の身が危険に晒されるだけですし、それならば黙って経路を観察することや、現状打破について考えを巡らせた方が建設的ではなくて?」
冷たい視線を女に寄越し、そんなことを言い放つ妃沙。
その姿はまるで子どもらしくはなかったし、可愛らしくもなかった。
……まぁ、中の人は元・男子高校生であるし、少々のピンチを感じている今、日頃は多少気を付けている年相応の対応というものを表に出している余裕はないのである。
「……変な子ねぇ、本当に……。まぁ、安心して。貴女を害するつもりはないわ。依頼主がどうするつもりかは知らないけれどね。大人しくしてくれているのなら、私も楽だし」
驚いたように目を見開き、フッと溜め息を吐いて妃沙を見やる女性。
その姿は、つい、妃沙が信じてしまっても仕方がないと思える程に、優しげな女性の姿そのままだ。
悪意、というものについては耐性がある妃沙。だから彼女は言った。
「何かを楯に取られて協力せざるを得ない状況なのだとしたら、状況打破に協力しますわよ?」
……自分が誘拐されかけているという立場であるというのに、全く男前な事である。
だが、妃沙の中の人──龍之介の経験から言って、この女性のような人間が悪に加担するのには、何かしら理由があるものだと知っていた。
そして前世に於いて彼は『女子供には絶対に手は出さねぇ』という自分ルールを課しており、その誓いは転生した今でも引き継がれているらしい。
「敵の敵は味方、と言うではありませんか」
ニヤリ、と不敵に微笑む妃沙。
いかに目付きが悪かろうと、前世の『龍之介』の姿であったならば、心強い味方を得たとばかりに相手も安心する事だろう。
そしてもしかしたら、この場合のように相手が女性であった場合、その頬にポッと朱を乗せることにもなったかもしれない。
「……本当に変わっているわね、貴女」
だがしかし、今の彼は五歳の美少女。
信憑性を与える事もドキドキさせることも出来ず、ただ、相手をドン引きさせる効果しかなかったようだ。
だが、妃沙にもまた、そんな事は一切関係ないと見え、表情を消したまま、この時ばかりは酷く大人びた瞳で彼女を見やる。
「事情があるならお話なさいまし。本当に悪い人間にしか罰は与えたくないんですのよ、わたくし……そしてその分、真の悪役には罪を倍被って頂きますけれど」
フフ、微笑む様はまさに悪役令嬢のそれであった。
そんな妃沙の突然の変化に、女性は困惑した様子だったのだが、車が突然、路肩に寄せられて急停車をするではないか。
「どうしたのよ!?」
焦った女性が運転席の悪人ヅラの肩を掴むと、彼はサングラスを外し……その奥の思いの外円らな瞳から大量の涙を流している。
「……もう止めようよ、ねーちゃん! オレだけならともかく、ねーちゃんを悪事になんか巻き込みたくねぇんだよ、オレ……!」
突然号泣し出した悪人ヅラ。
……どうやら妃沙の中の人の魅力は、転生を果たした今でも尚『アニキ』と呼ぶべきモノであり──同種には強くその魅力が作用するようであった。
───◇──◆──◆──◇───
号泣したその男は、そのまましばらく復活する兆しを見せなかった。
そんな様子を眺めながら、困ったわね、と女性がフゥ、と溜息を吐く。
だが妃沙は、良い機会とばかりに、再度女性に向かって言った。
「良いからお話なさいまし。これでもわたくし、魔力持ちで多少は魔法も使えますから、協力出来る事もあるかもしれなくてよ?」
今や妃沙は、自分の持論に加えてこの男の反応もあり、この二人になんらかの事情があるのだと確信していた。
悪事に加担せざるを得ない状況というのは、殆どの場合、当人にとってのっぴきならない立場に立たせられた場合が多い。
前世ではそう言った人間を何度も見て来たし、自分も、陥れられて、あわや悪の道へ急降下、という瀬戸際に立たされた事だってある。
優しそうに見える女性と、先ほどの反応から、存外素直で良いヤツなのだろう事が解った二人組。
自分を攫おうとするには、余程の事情があるのだろう、と思ったのだ。今まで手荒な事をされていないという事実もその認知に一役を買っている。
そして妃沙は、己の欲望の為に人を脅し、悪の道に引きずり込み、己の手を汚さずに高みの見物をする輩、というのが大嫌いだった。
だが、そんな妃沙の思考をよそに、魔法、という言葉を聴いた運転席の男が奇跡の復活を遂げる。
「マジ!? すげー、魔法って本当にあるんだな! なぁなぁ、何かやって見せてくれねぇ?」
「ホホホ、よろしくてよ」
そんな彼の素直な反応に気を良くした妃沙が、爪の先にポッと炎を灯してやると、男は「うぉぉーー!!」と声を上げ、瞳をキラキラと輝かせた。
(──うぉぉーー! これこれ、これこそ俺が求めていた反応だぜっ! 全く、今の周囲の人間ときたら上品過ぎてつまらねぇもんな!)
上機嫌になった妃沙は、狭い車内でも差し支えのない程度の魔法をと考え、今度は指に光を集め、空中に徐々にそれを移す事で光で文字を書いてみせる。
『きさ、参上!』
……鼠小僧か何かか、と、側で見ていた女性は胡乱気な表情だ。
だが、運転席の男はますますその瞳をキラキラと輝かせ、興奮した様子で運転席から身体を乗り出している。
「すっげー、すっげー! オレ、魔法って初めて見た! 魔法って呪文とか唱えて使うものじゃないんだな!」
「高い効果をもたらす魔法の中には、勿論そう言った準備が必要なものもありますわ。けれど、火や水、風や光といった自然界の物をごく少量取り出す分には、呪文など必要ないのですわっ!」
「すっげーー!! なぁなぁ、オレ、佑士って言うんだけど、オレの名前も書ける? 人偏に右に武士の士で佑士!」
「お安い御用ですわっ!」
美少女らしからぬ態で、若干得意げに鼻の穴を膨らました妃沙が『佑士、見参!』と空中に書いてみせてやると、佑士と名乗った男がうぉぉーーと声を上げながらパチパチと盛大な拍手を送る。
「すっげー、すっげー! なぁ、ねーちゃん、魔法って本当にあるんだな!」
そう言って妃沙の傍らに座った女性に目を向けると……彼女は今、とてもではないが『優しそう』等とは言えない、こめかみに青筋すら見えそうな形相で腕を組み、それでもなんとか笑みを残そうと頑張っているようだ。
「……アンタ達、今の状況がどういう物だか解ってるの!? 佑士、アンタは誘拐犯で、妃沙ちゃん、貴女は誘拐されようとしているご令嬢なのよ!?
何を呑気に魔法なんかで遊んでいるの! 二人とも危機感を持ちなさい、危機感をっ!」
……妃沙まで怒られてしまった。
だがしかし、片や生まれて初めて魔法に触れた好奇心旺盛な男子と、そしてもう一方は、こちらも生まれて初めて自分の魔法に素直な賞賛を与えてもらった元・男子高校生。
お姉さんの怖い態度程度で、その興奮が冷めよう筈もない。
「えー」「だって、ねぇ?」と顔を見合わせ、二人共ぷぅっと頬を膨らませている。
「だって魔法だぜ、ねーちゃん。扱える人間なんて本当に一握りで、しかもソイツらはお高く止まっててオレらみたいな一般人じゃ、見せて貰うのに金取るヤツだっているんだろ?
ねーちゃんも書いて貰えば良いじゃん、昔の通り名で『紅い稲妻・参る!』とかさぁ……」
「あら素敵! 書きましょうか?」
佑士と妃沙がそんな事を楽しそうに言っていると、ブチッ、と何かが切れる音が……確かに響いたのだ、その狭い車内で。
そして女性が、一瞬俯いたかと思うとそのまま肩を震わせ、幽鬼の如く次にその顔を上げた時には……妃沙が出会ったと思しき『優しそうな女性』の面影は見事に消え去り、憤怒の形相でスウ、と大きく息を吸う。
「佑士、てンめェェェェーーー!! その名は二度と口にするなと言ったろうがぁーー!! それに妃沙、てめぇもちったァ己の立場ってモンを弁えた行動しろやァァーー!!」
車体を震わせる程の大音量。
妃沙は思わず、「キャッ!」とここに来て初めて可愛らしく叫び、小さな手を耳に当てる。
だが女性はそんな妃沙の様子を気に留めた様子を見せず、そのままの勢いで前に座る佑士の胸倉を掴んでグラグラ揺らし、時にはその頭を引っ叩いているではないか。
(──な、なんだ!? 突然キレやがった! 女は魔物とは良く言うけど……怖過ぎるだろ、コレは!?)
尚も自分の前で繰り広げられる地獄絵図。
最初の人の良さそうな温和な笑顔などなかった事のように、今では女性は目を吊り上げて半狂乱の態で佑士に攻撃を加え続けている。
前世で、身近にいた女達──夕季にも表には見せない裏の顔があったし、龍之介の母親もまた、昔はヤンチャであったらしく、怒るとそれはそれは怖かった。
(──女って怖ェェーー!!)
改めてそんな実感を抱く妃沙だけれど……
彼女もまた、そんな周囲の人間に負けず劣らずどころか……とんでもない二面性を秘めた『女性』であることは、ご存知の通りである。
◆今日の龍之介さん◆
「キャー! こわーい! わたくしをどうするつもりですのぉー!?」(ダミ声)