【閑話】紙一重なアイツと私
凛先輩視点の閑話です。ちょっと長め!
紫之宮 凛。その大層な名前が彼女の名だ。
『紫』の漢字を拝する通り、紫之宮家の人間は須らく藤色の頭髪を戴いている。凛に至っては瞳の色まで青紫という有り難い色を拝している。
幼い頃は、それを「そのままだな、おまえ!」とからかわれたりもしたけれど、凛は昔から、マジックアワーと言われる時間帯……青と赤が混じる時間がとても好きだった。
そして、赤と青が混じって生まれるその色は『紫』。
だから自分の好きな色と、誇りあるその名前に対して真摯でいようと、堂々と世間を渡り歩いて来たつもりではあるのだけれど。
「紫之宮さんて、女心には疎そうだよね」
中等部に入ってすぐの頃だっただろうか、クラスの女子からそんな言葉を言われ、意味も解らずキョトンとしていた凛に、クラスメイトがさらに告げた。
「そこらの男子より格好良いしね。けど、妙な所で女を出すから女子には嫌われそう。かと言って自分より格好良い女子が男子にモテる筈もないよね」
アハハ、と笑って告げられたその言葉は、それ以降、凛の心をずっと蝕む事になる。
後で知った事だが、それは、その時すでに姉御肌を発揮し、皆に頼られていた為に一年生ながら生徒会に誘われて書記という仕事をしていた自分へのやっかみから生まれて来た言葉だったらしい。
中等部とは言え、鳳上学園の生徒会というのは頭脳明晰、容姿端麗、高貴な家柄で将来安泰な人々が集う場であったので、生徒達の憧れの集団だったのである。
それを知った後、一年で生徒会は辞してしまったし、申し訳ないとは思いながらも最低限の仕事以外はせず、周囲には興味を示さなかった為に当時の生徒会長なる人物がどんな存在であったかは覚えていないのだけれど、好んで孤立しがちな凛に対し「もっと自由になりな」と声を掛けてくれた事だけはとても良く覚えている。
そんな、今よりは少しだけ尖っていた凛だが、当時から気になる存在があった。
「お前の名字の『紫』の字と、俺の名字の『藤』って同じ色だよな! お前とは気が合いそうだから、いつか絶対俺とダブルスを組もうぜ!」
名字だけで判断し、当時の凛の力量など全く気にせず、そんな事を言いながらニカッと笑った同級生──藤咲 海。
彼はまごうことなき『天才』であった。
ボールに対する反応速度も、相手の裏をかく読みも、正確な球筋も、パワーもテクニックも、何もかもが桁違いで、まずそれが凛の度肝を抜いた。
それなのに、普段の彼ときたらちょっと抜けていて忘れ物はするし良く落し物もするし、勉強はとても苦手でいつも赤点ギリギリで試合に出られないんじゃないかという危機に陥ったことすらある。
でも、彼はいつも楽しそうに笑っていて……とりわけ、ボールを打っている時の彼は踊るような綺麗なフォームからはまるで想像もつかないスピードで球を打ちながら、とても楽しそうに笑っているのだ。
感情表現が豊かな彼だから、相手から一本取られれば悔しさを隠したりせず全力で牙を剥くし、負けた時なんかお察しだ、落ち込んだり怒ったり泣いたりと、それはもう復活させるのにとにかく手間が掛かる。
けれども彼は、雨の日も風の日も……それこそ熱があっても決してラケットを手放さず、毎日楽しそうにボールと戯れていて。
──そんな彼を、手間のかかる弟のようだと、最初こそ思っていた凛だけれど、それは違う、恋なんだと気付くのは決して難しいことではなかった。
きっかけは、海と凛が二年生になってすぐの頃、コーチに呼ばれてお前達でペアを組んでみろと言われたことだったように思う。
だが、その言葉に凛は一瞬、戸惑った。
そもそもテニス部を選んだのは、自分一人で闘える、という所が気に入っていたからだ。
その頃の凛は今とは違い、とても殺伐とした気配を纏ってテニスをしていたのである。そしてその腕前は、強豪と言われているこの鳳上学園では卓越したとは言い難い、平凡なものだと自覚していた。
だから、自分が足手まといになってしまいそうで、その頃すでに全国区で名の知られていた海と同じコートに立つのが怖かった、という側面もあるし、とにかくその頃の海という男は手がかかって面倒臭かったのだ。
テニスの事しか考えていないその脳味噌はいっそ清々しいほどであったけれど、何故だか海が問題を起こす度にその尻拭いが凛に回って来るので、正直迷惑もしていた。
戦略について先輩と話をしていたらやたらと熱い討論になり、最後は喧嘩になって殴り合い一歩手前の所まで行ってしまったのを全力で止めに入ったりだとか。
他校生に絡まれて真剣勝負を受け、それはもう気持ちが良いまでのボロ勝ちをしてしまい、自信を喪失してしまった相手に全力で謝罪と慰めをして回ったりだとか。
後輩に対しても容赦のない練習を課そうとする海を「みんなが海みたいな体力馬鹿じゃないんだからやめて!」と全力で叱り付けたりだとか……そしてそれを受けて落ち込む海をこれまた全力で慰めたりだとか。
海に関わると、何事も全力で対処しなければならなかったので、正直、彼とは距離を置きたいとすら思っていたのである。
海と出会う前の凛は、何処か冷めていて、努力しても何も変わらないなんていう斜に構えた見方をする擦れた中学生であった。
何かに特化した卓越した才能はなかったけれど、何をやらせてもそれなりの結果を残す事は出来たし、その頃からすでに同級生の誰よりも背は高かったし、家柄だって昔から続く名家である。
だから正直、何をしてもつまらなくて。
認められて嬉しくて入った生徒会も、何故だか周囲からのやっかみを受ける事になってしまう原因になってしまったのだ、この世界はクソッタレだと当時の凛は思っていた。
だから、テニス部を選んだのも個人競技だからであるという所が気に入っていて、だがやってみたらそれはとても奥が深くて、技術、スピード、戦術を駆使して一対一で相手と対峙する事の楽しさを密かに感じていた所だったのだ。
それが、今更になってダブルス……他人と息を合わせて試合をするなんて冗談じゃないと思い、断ろう、と口を開けた瞬間に、物凄い力でガシッと自分の肩を掴み、ニカッと爽やかに笑った海が言ったのだ。
「凛! やっと念願叶ったな!! 俺は何にでも全力で向き合うお前のアツい所、すごく気に入ってる! 正直、俺もダブルス向きじゃないと思うけど……お前とならきっと大丈夫だ!」
何にでも全力、だとか、アツい、だか、自分には最も似合わない言葉だと思うのに……ああ、そうか、と凛は今までの自分を振り返って実感した。
確かに、この脳筋な同級生の尻拭いだけは全力で立ち廻らなければならない程に厄介なものばかりだった。
生半可な覚悟では解決できない程の問題を、この男は次々と自分の前に持ち出して来るのである。
男子テニス部の部員達は早々に匙を投げ、元より女子テニス部の面々は知らん顔、コーチでさえ見て見ぬフリをしている状況の中で、コイツは何かあると決まって凛に擦り寄って来るし、必ず凛の目の前で問題を起こす。それはまるで、凛がいれば問題を起こしてもなんとかなるだろう、という悪質な信頼を抱いているかのように。
「……ヤダよ。海、君のお世話をする為だけにペアなんか組みたくない。私は一人でやりたいの」
冷たくそう言い放って肩を掴んでいる海の手をペシッと振り払うと、海はキョトン、と意味が解らないことを言われた、という表情で首を傾げている。
……そんな様子に、ものすごく腹が立ったのだ。だから凛は言ってやった。
「これ以上、君のお世話はゴメンだって言ってるの! もう放っておいてよ! 私は海のお世話係じゃない!」
思いの外大きな声が出てしまったので、その声はテニスコート全面に響いていたのだろう、部員達がピタ、と動きを止め、自分に注目しているのが解る。
だが、珍しく感情を爆発させた凛には自分を止める事は出来なかった。
「私は海みたいにテニスが上手くないし、才能もない! 理解してよ、私は海の足手まといになりたくないの! 海は負けちゃいけない人なんだから!」
言ってしまってから、ハッ、と口を噤む。
……そうだ、自分はいつだって楽しそうにテニスをする海を見ていたいと思った。だから、それが出来なくなりそうな原因は素早く排除しようと全力で立ち廻ってしまったのだ。
そしていつしか、それは『海のテニス』を護る事よりもずっと深い意味を持ってしまっていたことに気付いたのである。
だがその事実をこの朴念仁に伝えるのは癪だったのでそのまま黙っていると、その言葉を告げられた当の本人は、相変わらずワケが解らない、という表情のまま首を傾げて、不思議そうな声で、言った。
「なんで? 言ったじゃん、いつか絶対ダブルス組もうって。俺、凛としかやりたくないっつーか……出来るとも思えねぇ。けど、ダブルスはやってみたいから、お前じゃなきゃ駄目なんだ」
心底意味が解らない、という表情でそんな事を問う海に「なんで私なの?」と問えば。
彼はあの……太陽に歯を煌めかせる満開の笑顔で言ったのだ。
「凛のテニスが好きだから!」
その言葉に……思わず絶句した。
テニスは、確かに楽しかった。けれど、自分の才能のなさに絶望もしていて……なのに諦める事が出来なくて、誰よりも早く朝練に来てしまったり、授業中でもコースの打ち分けについて考え込んでしまったり。
何故だか自分の『本気』を知られるのが恥ずかしくて、ひた隠しにして来た自分のテニスを……この脳味噌が筋肉で出来てでもいそうな同級生に認めて貰えるなんて。
彼のテニスは自分の理想だ、スピードも、テクニックも、読みも、そして運ですら、凛の憧れを刺激して止まないのに……その彼が、自分のテニスを『好きだ』と言ってくれた。
嬉しくないはずなんてない。ないのだけれど……当時の凛はとてもひねくれていて。
「……やるからには、私に頂上を見せてくれるんだよね?」
そう言った凛の言葉に、海は、今まで見て来た中で一番の笑顔を見せてくれた。
その笑顔は本当に輝いているようで、凛にはとても眩しかったのを覚えている。
「当たり前だ! お前となら絶対に頂点に立てるさ!!」
そうして、海と凛のペアは始動した。
個人戦では、とてもではないけれど他校はおろか同じ学園の生徒達にすら敵わないと自覚していた凛だけれど、海とのペアは自分でも想像出来なかった程に楽しかった。
海の問題を全力で解決して来た事が功を成したのか、海の思考回路は理解していたし、次の動きや狙いすら肌で感じる事が出来る。
だから、自分が次にどう動けば良いのか、どのように海を導けば相手の裏をかけるのか、そんな事すら凛の瞳には見えるようだった。
……そして、一人の『冷めていて死んだ魚のような瞳』だった少女の瞳に光が宿り……そしてそれを齎してくれた相手に恋心を抱くな、という方が無理な話だ。
この頃から徐々に……そして急速に、強く、凛は自分の心に宿る想いが『恋』であると自覚しながら、部活に励むようになったのである。
───◇──◆──◆──◇───
そうして一年が経ち、最上級生となり、更には部長という大役を担うようになった凛。
その時には既に昔の冷めていて世界はクソッタレだなんて思っていた彼女の姿は何処にもなく、何にでも全力で挑み、好きな物は好きだと素直に言える凛へと変貌していた。
恋心に関しては、相変わらず気付いていないフリをしていたけれど、周囲には丸解りであった。
だが、本来はそんな風に人生を全力で楽しむ事を由としていた凛なので、海に偽りの自分を破壊されてからというもの、本来の自分を取り戻す事が出来て楽しかったし、幸せであった。
そして、そんな彼女が最後の試合を終えた後、当時、男子部員の中では一番目をかけていた後輩の玖波 聖から呼び出され、告白をされたのだ。
「凛先輩、僕は貴女が好きです。出来ればずっと貴女の側にいたい。だから……この手を、握り返してくれませんか?」
人形めいた美貌を誇る後輩、玖波 聖。
正直、彼の気持ちが自分に向いていることには……何となく気付いてはいたのだ。けれど、応えることが出来ないのならば必要以上に彼と関わるべきではないと、頭の中では理解していた。
けれど、昔の自分──冷めていて、世界はクソッタレだなんて思っていそうなフシのある聖を、凛はどうしても放っておく事が出来なかった。
彼のテニスの才能は群を抜いていたから、その才能を開花させてやりたいなんていう老婆心も働いていたのかもしれない。
とにかく凛は、聖を構いに構った。次代の強豪・鳳上学園テニス部を任せるのは彼しかいないと思っていたから、出来るだけ周囲と溶け込む事が出来るに様にと心も砕いたし、周囲との調整も図った。
だが、一年ではそれはどうにも出来ず、そこに現れた非常識生命体である超絶美少女、水無瀬 妃沙。
彼女の存在は本当に規格外であった。
その美貌もさる事ながら、テニスの才能も抜群、それでいて素直で負けず嫌いで、テニスの試合にもそれは色濃く表れる。
そして、凛にとって難攻不落であった聖の心をも開かせるという偉業を成し遂げ、このまま聖の心が妃沙に向いてくれれば……なんて淡い期待を抱いたのだけれど、どうやら彼女は凛の同級生である東條 知玲の婚約者であるらしい。
興味を抱いてそれを知玲本人に確かめれば、知玲はそれを否定するどころか拡散してくれと言うし、彼の口から飛び出す「妃沙」という単語にさえ、愛情が籠っているようである。
妃沙を誰かに斡旋するというのはどうも無理らしいと理解するのは一瞬であった。恋をしている自覚がある凛にとり、他人のそれも理解出来るようになっていて──そして知玲のそれはとてもあからさまだったから。
とにかく今、自分は可愛がっている後輩の聖から告白を受けている立場であり、目の前では聖が悲壮な表情で片手を差し出して頭を下げている。
……けれど凛は、どうしても自分の口から、聖に「ごめん」とは言いたくなかったのだ。
それは奢りであり、残酷な事なのかもしれないけれど……今現在、恋をしており、その気持ちが相手には届いていないらしいと実感している凛には、どうしても言えなかった。
「……私も、好きだよ、聖……弟みたいで……!」
困った様に眉を下げて、なんとか泣いてしまうのは堪えながらそう告げた凛を、聖は今にも泣きそうな表情で……それでも「わかってますよ」とでも言いたげな清々しい表情で見つめていた。
「……貴女みたいな姉さんなんてお断りですよ」
「そっかー!」
アハハ、と、わざとおどけて明るい声を上げた自分の気持ちを、この後輩は理解してくれているのだろう。
そして彼は、寂しそうに微笑みながら、こう言った。
「この僕をフッたからには、絶対に幸せになって貰いますからね」
聖のその言葉が、まさか卒業式のこの瞬間に続いているとは、まるで考えもつかなかった。
今、彼女は、目の前に立った海の口から、こんな言葉を聞いたのだ。
「俺はお前が大好きだぁぁーー!! 紫之宮 凛、俺と付き合ってくれぇぇーー!!」
最初は、何の冗談かと思った。
けれど、ペアを組んで来た藤咲 海、彼はそんな冗談が言える程の高尚な脳みそは持ち合わせていなかったし、自分に向き合う表情は酷く真剣だ。
そして周囲の部員達は、何処かそれを知っていたような気配すら漂わせ、自分達を生温かく見つめている。
焦って何も言えずにいる自分に、海はアツい言葉を色々と投げかけてくれる。
……何? これは現実? 海が私を好きだと……そう言っている?
凛には何だか、ワケがわからなかったのだけれど。
海はそのまま言葉を続け、結婚を前提に、だなんて非常識極まりない言葉を口にしているではないか。
「……馬鹿、海。私がいなきゃ駄目な男になんか……ならないでよね! たまには私をリード……してよね!」
つい、涙を落としながらそう言ってしまったのはご愛敬だ。
中学生の、それも直情型で脳筋で馬鹿な海の言葉を全面的に信じるなんて愚行は出来なかったけれど……でも、好きな人に好きだと言われて嬉しくない人間なんていないのだ。
その青紫の瞳から、真珠のような涙をポロっと零した凛の瞳に、美しいフラワーシャワーと『congratureitions!』なんて言う変な綴りのメッセージが飛び込んで来る。
この学校で魔力を持っている人間なんてごく僅かだ。そして、この場においては一人しかいない。
「みんなありがとーー!! 愛してるっ!!」
駆け寄る傍ら、この演出をするのに一役を買ってくれたのであろう聖にはきちんとウィンクと投げキッスを送る事は忘れない。有り難う、という気持ちを込めたそれは、バッチリ聖に届いたようで、いつもはクールな聖が、うっ、と息を飲み、仄かに頬を染めて、凛を見守っていた。
そして凛は、何故だか心を奪われてやまない後輩──水無瀬 妃沙に飛び付き、その華奢な身体をギュッと抱き締め、その甘い匂いを堪能した。
妃沙の匂いはとても甘くて……ああ、これは完璧超人の東條 知玲、彼女の同級生である彼の理性を奪って然るべきだなーなんて思いつつ、何処か昔の凛を思わせるような悲壮な覚悟と、他人とは深く関わるまいとしているような雰囲気を纏っていた後輩がこんな風に自分に関わってくれ、こんな素敵な演出をしてくれた事を心から嬉しく思っていた。
……それは、恋が成就したことよりもずっと、凛の心を震わせる出来事だったのである。
「……お前さ、あの時、一世一代の告白をした俺のこと一瞬忘れてただろ?」
その後、無事に『恋人』として付き合うようになった海。相変わらず残念無念な脳みその持ち主ではあるのだけれど、さすがに人生の一大イベントであった告白を台無しにされたあの日の事は覚えているらしい。
「妃沙ちゃん、元気かな? 東條君からはたまに聞いてるけど……やっぱ、自分の目で元気で元気な妃沙ちゃんが見たいなー!」
「……ちょっ!? お前、知玲と繋がってんの!?」
「うん。だって私、東條君の知らない妃沙ちゃんを色々知ってるしね。良いカモだよ」
「金取ってんのかよ!?」
「やだなぁ、ただの高校生がそんな事するわけないでしょ。昔の思い出と引き換えに今の妃沙ちゃんの様子を教えて貰ってるだけだって。もっとも、東條君も卒業しちゃったから、学園での様子はなかなか入って来ないけどねー」
ああ、残念、と呟く凛。
握ったその手がピタリと立ち止まるのを察知し、振り返る。
「……妃沙ちゃんとか知玲だとか……ついでに言えば聖だの銀平だのってさ。お前の口からは、ちっとも俺の名前が出て来ないよな」
頬を膨らまし、まことに残念なことに、今ここにはいない相手に対して殺気を漲らせる凛の恋人、藤咲 海。
付き合うようになってから、彼のこんな嫉妬心の放出は何度も見て来たので今ではもうどうすれば彼が落ち着くのかは理解している。
それは……凛にとってはとても恥ずかしい手段なのだけれど……一度、それを行使してしまって以降、海は凛がそうしなければ絶対に浮上しなくなってしまっていた。
「……馬鹿。私の一番はずっと……海だけだよ」
チュ、と、海の頬に唇を当て、わざと音を立ててキスを落とし、あっという間に距離を保つ凛。
だが、凛より素晴らしい身体能力を保持する海は、決まって逃げようとする彼女の手を引き、自分に引き寄せるのだ。
そしてそれは……凛の『わざと』が発動しているからだ、なんてことは、きっと単細胞な海は死ぬまで気付く事はないだろう。
まがりなりにも名門テニス部で部長を張っていた彼女の身体能力は、常人と比べるまでもなく機敏であったし、彼女は嫌な物は嫌だと言える性格なのだから。
だがしかし、彼女の恋人は天下御免の残念男、手元に凛を抱き込んで尚、残念な言葉を吐いてくれるのは日常茶飯事であった。
「凛、俺、本気でお前のこと好きかも」
付き合っているにも関わらず、そんな残念な言葉を言って来る海。最初こそがっかりしたけれど、今では凛もその方が良いか、なんて思っていたりする。
この直情型で脳筋な恋人が自分の気持ちをしっかり認識してしまったら、その突撃を受け止めるのは骨が折れるな、と考えているので、そうならないように柔らかく違う方向に誘導している所なのだ。
それに……こんな風に、改めて気持ちを実感し、伝えてくれるのはくすぐったいながらも嬉しくもあったのである。
「そだね。君は自分の気持ちを隠すなんて器用なこと出来るような人間じゃないしね。それよりさ、今度のダブルス決めの試合の事なんだけど……」
会話がピンクに染まりそうになった時点でテニスの話題を振るのは凛の常套手段である。
だが、今日の海はなかなかに強敵であった。
「……凛、俺、お前が好きみたい」
「だから知ってるってば! じゃなきゃ付き合わないでしょ! それより私は、高等部でも海とダブルスを組めるように作戦を立てたいんだってば!」
「馬鹿お前、そんなの、俺がバーンって打ってお前がパシンと落とせば百発百中だろ? それより、付き合ってるなら俺にだってやりたい事がいっぱいあるんだけど」
テニスの話題を振ればまんまと乗って来てくれる扱い易さだけが海の長所であったのに、今日はなかなか頑強にピンクフィールドから抜け出そうとしない。
むむ、と、悩んだ凛は、そこに何者かの関与を察知した。
「……ねぇ海、何か最近、恋人たるはこんな事をすべき、なんて、誰かに吹き込まれたりしてないよね?」
ほぼ確信を得ながら、自分の恋人にそう問えば。
「何で知ってんの? 銀平と知玲がさ、恋人とはこんな事をするんだって色々教えてくれたんだ。
銀平は薔薇の花で埋め尽くされたバスタブに一緒に入るのがマックスだって言うし、知玲は相手を抱き締めたまま眠るのが至上なんだって。
だから俺、考えたんだけど……お前とは、そういう恋人っぽいことを全然してないなって……」
ポッと頬を染めてそう語る海を余所に、凛は背後で自分達を観察しているっぽい確信犯達に殺意すら抱いた。
だから「海、そういうのはもっと大人になってからね? 私、ちょっと用事を思い出しちゃった」と告げ、自分達の関係を面白半分で変えようとしくさる迷惑な友人達に、ラケットを持って突撃する。
「銀平ィィーー!! 東條くんーー!! 自分らの恋愛が進展しないからって、私達で遊ぶの止めて貰えるかなァァーー!!??」
めったやたらにラケットを振り回し、テロリストに襲いかかる凛。
背後で彼らの動向を見守っていた知玲と銀平は「ごめんってば!」「落ち着け、凛!」なんて言いながら防戦一方だ。
だが、知玲も銀平も……そして、攻撃を放っている凛ですら、これは照れ隠しだと認識しているので、危機感はまるでない。
だがしかし、一人、取り残されていた一番幸せであるべきはずの藤咲 海──彼の残念な思考回路は自分の彼女を救うべし、という一点にのみ支配され、何やら背後にいたらしい彼の友人たちに自分の恋人が攻撃を加えるのを正当防衛だと認識してしまったのである。
「凛は俺が守るっ!!」
だから男らしいその宣言は、銀平と知玲はおろか、凛にとっても迷惑なもので……実際、この場に於いては知玲の次に身体能力の高い海がラケットを振り回すのは、他の生徒にとっても迷惑行為でしかなかった。
「わ!? 海、何処がどうしてそんな行動になるのかは何となく想像出来るけど、関係ない人にまで迷惑を掛けるのはやめよっか!?」
こうなった海を止められるのはもはや凛だけだ。
早めに練習を始めたいからという理由で、生徒のまだ疎らな時間帯に登校して来ている彼らである。この騒動が終われば、知玲は道場に、海と凛はコートに。
そして、高等部ではテニス部ではなく生徒会に入ると宣言した銀平は自分の教室か図書室で資料を纏め、来る生徒会役員選挙の為の資料作りに励むはずであった。
「海、私の為に動いてれるの、すごい嬉しい! 今ならダブルスもものすごい成果を出せそうだから、早くコートに行こう、海!」
さぁ、さぁ! とやや強引に海の腕を取って、二人はテニスコートの方向に消えて行った。
ここから先は二人の時間だな、と、微笑んで二人を見送る知玲と、充分な実力がありながら、テニス部には入らないと宣言した銀平がその場に残る。
「……リア充め、爆発しろ」
呟いた銀平の言葉に、知玲も深く頷きながら妃沙が高等部に入学して来たら、自分達もこんな風にイチャイチャ出来るかなぁ、なんて考えていたのである。
もっとも、知玲の想い人はそう簡単に篭絡できるような相手ではなかったし、何やら厄介な事件が起きそうな予感しかしなかったけれど、幸せそうに笑う海と凛の姿は、いつか自分も、という希望を抱かせてくれるものであった。
だが、そんな知玲と妃沙も、未だに想い人とろくに会えていない銀平からすれば充分にリア充であり、羨ましい限りである。
何しろ、知玲の弁当には今でも毎日美味しそうな卵焼きが必ず入っているのだ。
「……お前も爆発しろ」
だから、知玲にすら聞こえないほどの小声で銀平が呟いたのは、彼の魂の叫びであったのかもしれない。
……銀平、強く生きろ。
◆今日の龍之介さん◆
龍「凛先輩にもこんな時代があったんだな……。末長く幸せにな!」(グスン)
銀「俺の扱いィィーー!!!!」




