◆45.やるからには絶対勝つぜッ!
「で、今日は妃沙ちゃんを選手に選んだ理由を話す約束だったよね」
凛とて外の騒動には気付いているのだけれど、気にした所でどうしようもないと割り切り可愛い後輩とのデートを楽しむ事にしたようだ。
一方の妃沙は、そんな騒動には慣れているのか、全く気にしていない様子でブラックコーヒーを啜り、コクンと頷いた。
その様子を見れば、もしかしたら東條 知玲というあの完璧超人めいた男子中学生が彼女という存在をひた隠しに隠し、その情報を操作しているのではないかという気さえする。
こんなに愛らしい容姿の彼女が選んだ飲み物がコーヒー、しかもブラックでそれを嗜むなんて、こうしてテーブルを共にして目の前で目撃しなければ信じる事は出来なかっただろう。
けれど、知玲もまた妃沙という弱みの前では世間には見せない一面があるのかもしれないな、と、凛は自分は見た事のない、慌てふためく知玲の姿を想像してぷくく、と悪戯っぽく微笑んでいた。
「紫之宮先輩、ご存知かと思いますけれど、わたくしはこの春からラケットを握った初心者ですわ。そんなわたくしが代表だなんて……伝統ある鳳上学園中等部テニス部の名折れです。
他に実力のある方はたくさんいらっしゃいますでしょう? 今なら遅くありませんわ、選手の再考をお願い致します」
テーブルの上でキュッと手を握り、眉を顰めて凛を見つめる妃沙。
その悲壮な表情は見るとはなしにその様子を目にした人々や、最初からその様子をガン見している外の出歯亀達から一瞬言葉を奪う程に切実なものであった。
だが、一身にその視線を受けている凛は何処か嬉しそうに微笑んでいるだけである。
「……ね、妃沙ちゃん。私が今から言う事を聞いても、変わらずに部長として認めてくれる?」
悪戯っぽく微笑む凛。そんな彼女に、妃沙は立ち上がらんばかりの勢いで言う。
「当たり前ではないですか! 紫之宮先輩が部長だから、わたくしは部活動を堪能出来ているのですもの! この先、誰が部長になった所でわたくしの憧れの部長は紫之宮先輩だけですわ!」
ありがと、と凛が呟いた所に彼女が頼んだパンケーキが到着する。
彼女が選んだのはフワフワのパンケーキの上にバナナと苺が飾られ、ビターチョコがそれを彩っている華やかなものであった。
運ばれたそれを見て、一瞬だけ乙女らしい喜色をその顔に乗せる凛。彼女だってまだ中等部に通う若い女生徒なのである。
「来た来た! ね、妃沙ちゃんも一口食べてみてよ。あまり甘くないヤツ選んだし……ほら」
はい、あ~ん、と、パンケーキに苺を添え、チョコレートを少なめにかけて妃沙の口元にフォークを運ぶと、条件反射のように妃沙がパクッとそれを咥える。
妃沙の口には少し大きかったのか、リスのように頬を膨らませて咀嚼する様に、凛は思わず目を覆って俯いた。
「……視界の暴力……!」
自分のしでかした事とは言え、妃沙のその姿はあまりに……あまりであった。
そして更には首を傾げ、上目遣いで自分を見上げ、ペロッと小さな赤い、それこそ苺のような舌を軽く出して口元に付いたチョコレートを舐め取る様はおよそ爆発物より危険である。
だが、当の本人は自分がどれだけ危険生物なのかをまるで理解しておらず、コクッとそれを飲み込むと、
「……美味しいですわ! 紫之宮先輩、有り難うございます!」
と、破顔した。
無自覚ほど怖い敵はいないと、この時初めて実感した凛である。
「……で、妃沙ちゃんを選手にした理由だけど……」
このままでは本当にマズいと思った凛が、コホン、とわざとらしい咳払いをして妃沙に向き直る。
その言葉に、妃沙もキュッと表情を引き締め、姿勢を正して話を聞く体勢に入った。
「妃沙ちゃん、貴女には自分が思っているよりずっと才能がある。だけど今は決定的に経験が足りないし……私はね、選手になってテニス部の期待を背負う事とか、色んな相手と対峙する事で妃沙ちゃんに成長して欲しいな、と思ってるんだ。今の貴女は、まるで孤高のヤンキーのようだから」
『ヤンキー』というその単語に、妃沙の肩がビクっと震える。自分の正体がバレてんのか!? と緊張を漲らせた妃沙だけれど、どうやらそれはただの例えだったようだ。
「妃沙ちゃんのテニスはさ、喧嘩テニスって言うか……いかに勝つかが最優先で、テニスの醍醐味をまだ理解してくれてないんじゃないかなって思うんだよね」
「テニスの醍醐味?」
妃沙の問いに、そ、と相槌を打ちながらパンケーキを頬張る凛。一口ごとに満面の笑顔になるその表情は年頃の少女のそれで、妃沙から見てもとても可愛らしいものだ。
外でその様子を覗き見ている出歯亀のうち一名が「ぐぉっ!」と呻いているけれど、妃沙達には知る由もないことである。
「色んな考え方があるとは思うけどね。私はテニスって、パワー、スピード、テクニック……それらももちろん必要だけど、一番はタクティクス、戦術なんじゃないかと思ってるんだ。
だから、パワーやスピードで上回っていても、タクティクスで勝っていたら格下の選手にだって勝機がある。私はね、テニスのそんな所が好き」
フフ、と自嘲気味に微笑む凛に、妃沙は何も言う事が出来ずにいた。
スポーツ観戦に精通し、その筋肉の付き具合で他人の力量を察してしまう事が出来る程の眼力の持ち主だ、性格がどんなに素晴らしかろうと、凛が一流と呼ぶには少し物足りない身体能力である事は理解している。
けれど、実際の試合では彼女はその気迫と作戦、そして読みで他を圧倒してしまい、妃沙ですら未だに勝った事がない相手の一人であった。
「妃沙ちゃんの身体能力は凄いなって思うんだよ。けど、その力やスピードに任せて打つだけのショットじゃ、やっぱり相手に読まれて打ち返されてしまうでしょ?
色んな相手と対峙してその『読み』を学んで、もっと強くなって欲しいと思ってるんだ。私は、もっともっと妃沙ちゃんにテニスを楽しんで貰いたい。選手に抜擢したのも、実はそれが一番の理由なんだよね」
部長失格だよね、とペロッと舌を出すその表情は悪戯っぽくもあり、ある側面を見れば扇情的でもあり……。
今ではだいぶ『妃沙』の性別に感覚が引き摺られている『龍之介』を以てしても惚れてまうやろ、と思う程に魅力的なものであった。
凛への憧れは、テニスのプレーや技術はもちろん、真っ先に目に付くその容姿とサバサバとした性格にとても憧れてしまう妃沙だ、思わず言葉を飲んでしまっている隙に、凛は言葉を続ける。
「妃沙ちゃんが可愛いからってだけで贔屓してるワケじゃないからね? 妃沙ちゃんがそうして経験を積んで行けば凄い選手になると思ったし、海も顧問もコーチもそれは納得してくれてる。
でも私は……今のままじゃ、妃沙ちゃんが本当の意味でテニスを楽しめないんじゃないかと思って。
だから、選手になって、もっと上手くなって、色々な作戦や読みも学んで、試合に勝つ喜びとか負ける悔しさだとかをもっと知って欲しいと思ったんだ」
真剣な表情で自分を見つめる凛に何も言う事が出来ず、妃沙は黙ってその言葉を聞いている。
その真剣な様子に、自分の言葉は彼女の心に確かに届いているのだと確信した凛は、優しく微笑んで言った。
「勝つ事だけが全てじゃない。例え負けてしまっても、その過程がきっと貴女を成長させてくれる。
それに……鳳上の名声を高める為には妃沙ちゃんみたいな美少女を担いだ方が手っ取り早いしね?」
パンケーキを食べ終え、セットのアイスティーを飲みながら、凛がアハハと楽しげに声を上げて笑う。
そんな彼女の面前で、妃沙はまったく、この部長はしゃーねぇな、と微笑んで溜め息を吐いた。
「あんまりエコ贔屓すると他の部員に嫌われてしまいますわよ?」
「いやいや、部員の総意だからね!? 私を悪者にするの止めてくれる!?」
どうだか、と呟いて破顔する妃沙。
だが、自分の成長を想って心を砕いてくれる相手に感謝の念を抱かない筈もない。そして、元々高評価だった凛の評価は、妃沙の中で爆上がりで、今や葵や充、大輔といった友人たちにすら届きそうな勢いだ。
なお、知玲は最初から妃沙のリストには入っていないので圏外である……もちろん、良い意味で。
「紫之宮先輩。わたくし、テニス……というか、運動系の部活は中等部のみと決めていますの。ですから、この三年で必ず結果を出さねばならぬと少し焦っていたようですわ」
苦笑してそう告げる妃沙の表情は、女子中学生と言うには少し悲哀が籠り過ぎている。
だが、その言葉は『妃沙』というより『龍之介』の意識が強いものであるので、前世からの年齢を含めれば三十歳という年齢に達している彼女が放つのも当然であった。
「結果を出す事だけが全てじゃない……目から鱗でしたわ。わたくしは自らを高める為にここにいる、その事を忘れてしまっていたようです」
気付かせて頂き感謝しますわ、と、深く頭を下げる妃沙に、いやいやいや、と、凛は慌てて手を振る。
周囲の注目が集まっているのは実感しているのだ、その場所で、美少女に頭を下げさせるなど、後でどんな事態に陥るのか、まるっきり予想外である。
「妃沙ちゃんが成長したらウチの学園のテニス部が強くなるだろうっていう邪な考えがあるんだから感謝とか止めてね!? 妃沙ちゃんに成長して欲しいって気持ちも嘘じゃないけど、やっぱり部長としては勝てるメンバーを選抜するのは当たり前の事だし……」
そうして妃沙が顔を上げたのを確認すると、凛は両手をテーブルに付いてその上に顎を乗せるという、デートでは定番のポーズを見せつける。
その愛らしさに、今度は妃沙がウッと息を呑んで凛に見惚れていると、凛はそのまま可愛らしく首を傾げて言った。
「部活は楽しいんだって、知って欲しかったんだ。今の妃沙ちゃんは何だか悲壮感に満ちているからさ……テニスは楽しいだって思って貰いたかった。
妃沙ちゃんは多分、試合の場の緊張感が一番燃えるんじゃないかなって思ったし、私は見る事は叶わないけど、妃沙ちゃんはきっと将来部長になる器だと思うしね。
だから、ここで試合の厳しさや楽しさを知って貰って、テニスを満喫して欲しかったの。
二年生が子どもだとしたら、一年生は私達にとっては孫みたいなものだからさ……ちょっだけ、甘くなるのは許してよね」
そう語る凛の手を、感動のあまり妃沙はキュッと握ってしまう。
勝つよりまず、部活を楽しめと言ってくれる先輩の存在が単純に嬉しかったのだ。
スポーツを楽しむ事なんか出来なかった前世。一対一のテニスなんてもってのほかだ。対決する前に相手が逃げ出してしまうだろうから、挑戦しよう思った事すらない。
だから前世では、スポーツはテレビや漫画で楽しむものでしかなく、メジャーなスポーツはテレビでそのルールを知り、代表選手を全力で応援した。
テレビではなかなか放送のないスポーツに関しては漫画で補完しており、彼のお気に入りの漫画はバスケ、バレーボール、テニスのそれであった。
その中で部活動を選ぶとしたら、団体競技のバスケとバレーは論外である。
かつて葵に語ったように、いかに外見が変わったとしても、周囲の人々と良好な人間関係を築く事には自信がないのだ。
今の妃沙なら好意的に受け入れてもらえるかもしれないけれど、前世からの刷り込みは根深いらしかった。
「……嬉しいですわ、紫之宮先輩。わたくし……全力を出しても引かれないですわよね……?」
全力の形相の『龍之介』など、恐怖の対象以外の何物でもない。
それを良く理解しているから、全力を出してしまえば相手が委縮し勝負にならないスポーツからは遠ざかっていたのだ。
けれど本当は、スポーツこそ龍之介の理想とする真剣勝負の場なのだ、ずっと……ずっと憧れていたのだ。
「出るからには勝ちますわ! 気迫だけだなんて言わせません! 凛先輩、ご配慮、本当に嬉しいです。必ず勝って恩返ししますわね……!」
「頼むね、妃沙ちゃん……!」
何時の間にか『紫之宮先輩』が『凛先輩』になってしまっているのはご愛敬だ、妃沙はこの会合で深く……それこそ深く、凛に心を寄せてしまったのだから。
だが、ガシッと手を握る二人のスポーツ選手をよそに、店の入り口では残念なやり取りが繰り広げられている。
「お客様ァァーー!!??」
「連れです、連れ!」
「凛ーー!!」
「あ、椅子三つお願いします」
遂に我慢仕切れなくなったのだろう、ストーカー達が店に乱入して来たようで、可愛いメイドの店員さんも困惑して「てんちょー!」と叫んでいる。
「……凛先輩、もっと色々お話をお伺いしたかったのですけれど、それは今度部活でお願いしますわ……心配性なわたくしのストーカーが……」
「うん、選手になってくれるなら、代表だけの合宿を予定してるからその時に……私の知り合いも多いようだから……ゴメン、妃沙ちゃん、頼める?」
コク、と頷いて入口に向かう妃沙。
「わたくしの知り合いですわ……って銀平様はともかく、藤咲先輩まで何をしてるんですの!?
……そこの愛らしいメイドさん、窮屈なのは我慢しますからわたくし達の席に椅子を三つ追加して頂けますか? ……あ、運ぶのはヤツらがしますからその手を汚さないで下さいまし」
慈愛に満ちた表情と言葉で椅子を用意させ、乱入者達にそれを運ばせながら妃沙が溜め息を吐く。
一方の男子三名……知玲、銀平、海はバツの悪そうな表情を見せながらも、ようやく彼女らと合流出来る事に嬉しさを隠せないようであった。
「妃沙、よく僕が来た事が解ったね」
「貴方の声など、イヤでも耳に届きますわよ!」
せっかく凛先輩と楽しくお話をしておりましたのに、と膨れる妃沙の頬に、知玲は誰にも見えないような高速でチュ、とキスを落とした。
「ここのパンケーキが食べたかったんだ」
思わず立ち止まり、頬に手を当てて硬直する妃沙。
「知玲様!? そろそろ自重というものを学んで頂けません!?」
妃沙のその声は、知玲の楽しそうな表情の前では全く無効力であった。
そして、イチ早く椅子を運んで凛の隣に座りこんだのは海である。
「凛、おまえ、百合な趣味あったっけ!? あのSHIZUですらそんな作風はなかったと思うけど!?」
「……ハァ。何で来ちゃうかな、海……。あのさ、今日、私は妃沙ちゃんと色々話したいって言ったよね!? 付いて来てたのは知ってたけど、店の中にまで乱入するとか、まじデリカシー!!」
女子部長に言い込められる男子部長。
一方で、剣道部の期待の星もまた己の婚約者に詰問されていた。
「それは今度二人で来れば良い話でしょう!? 今日はテニス部の未来について凛先輩と話し合うつもりでしたのに、部外者が邪魔するとはどういう事なんですの!?」
「……二人で来てくれるつもりだったんだ……妃沙、嬉しい……」
「馬鹿、知玲様の馬鹿!! 今気にするのはそこではないでしょう!? あんまり度が過ぎると警察を呼びますわよ!?」
「……うん、まぁ……警察は大概、東條の子飼いだから……」
「貴方がその権力を行使するのは早過ぎますわ!」
安定の馬鹿ップル。だが、一方にその自覚はまるでない。
凛と藤咲の二人もまた、喧嘩ップルの様相を見せ始めており、彼らの一団はまるで見世物のようになってしまっていた。
「だからお前たち! 俺を無視するの、やめてくれる!?」
銀平の叫びが店内に木霊し……
「大声を出して迷惑かけるな」
「大声を出すのは迷惑ですわ」
婚約馬鹿ップルに両側からチョップを決められている。
「こんな時まで意気投合かよ、お前たちィィーー!?」
銀平のその叫びは、店内の数少ない男性陣から深い同情の視線を捥ぎ取った。
……良かったね、銀平。
◆今日の龍之介さん◆
龍「惚れてまうやろー!」
知「……え?」
龍「お前じゃ……ねぇよ……」(ボソボソ)