◆4.婚約なんて冗談だろ!?
「妃沙、君はね、三日前から突然の高熱で寝込んでいたんだ。お医者さんも原因は不明だっていうし、僕も幼馴染として心配していたんだけど……。
どうやら原因は龍之介の覚醒にありそうだね……もう熱はひいたみたいだ」
そっと手を妃沙の白い額に当て、顔を覗きこんで安心したように微笑む知玲。
妃沙は再び近付いた知玲の顔にギョッとしたように目を見開き「だ、だいじょうぶですわっ!」と叫ぶ様に言いながら距離を置き、右手でパタパタと手で顔に風を送っている。
どうやら先ほどのキスの衝撃が未だ消え切っていないらしい。
まったく初心な事だと、知玲そんな様子を楽しげに眺めていたが、ふと、思い出したように言った。
「良い? 妃沙、君は昨日まで高熱を出して寝込んでいた、か弱い三歳の女の子だからね? あんまり変な言動で周囲を驚かせるんじゃないよ?」
「……何を仰いますの。わたくし、健康優良児で風邪すらひいた事がありませんのよ?」
「だからっ! 今の君は水無瀬 妃沙なのっ! 前世みたいな体力馬鹿じゃないんだからその身体にも気を遣ってあげてよねっ!
……まぁ、君に三歳児のフリなんか出来る訳ないし一応言い訳は考えておくよ。
魔法、なんてファンタジーなものがあるくらいだから、この世界の人達は以前いた世界とは違った感覚を持ってはいるみたいなんだよね。
テレビや雑誌を見る限り、子どもの成長速度がすごく速くて、小学生のうちから世界的な発見をしてしまったり、中学や高校から起業して学業と仕事を両立させたりする子もいるくらいだから、君が少しくらい優秀でもそんなに違和感はないと思うけど……」
真面目な表情でそう語る知玲をよそに、妃沙は「体力馬鹿」と言われたことに酷く憤慨しているようだ。
馬鹿とはなんですの!? と食って掛る妃沙の顔を両手で受け止め、その柔らかい頬をキュッと押し潰してやると、その唇がタコのように尖る。
そんな様子がお気に召したのか、知玲はひとしきり両手に強弱をつけて妃沙のその表情の変化を楽しんでいる。
「知玲君? 妃沙の様子はどうかしら? 落ち着いたようなら、そろそろ休ませたいのだけれど……」
コンコン、と扉を叩く音が響き、間を置かずして優しげな女性の声が聞こえて来る。
声に導かれるように知玲が扉を開けると、先ほどの美人さんが心配そうに扉の前で立っていた。
「……ああ、おばさん。無理を言って申し訳ありませんでした。もう熱は引いたようなんですが……」
そう言いながら彼女を室内に招き入れる知玲。
そして自分に向けられる心配と……そして慈愛に満ちた瞳に、妃沙はなんだか居心地の悪さを感じ、思わず目を反らしてしまう。
……優しさを、信じていない訳じゃない。ただ、自分に向けられることに慣れていないのだ。
前世での彼はひたすらに悪意に晒され、自分と、夕季を始めとしたごく一部の人間しか信じられなくなってしまっていたから。
だから、恐らくは自分の──と、言うよりはこの身体『妃沙』の母親であろうその女性の視線に、何だかムズムズしてしまうのだ。
この優しい視線を受けて良いのは自分じゃない、そんな気がして。
「……そうなの……。そうね、三日間も寝込んでいたんだものね、その間、夢を見ていたと言うなら、現実と混同してしまう事もあるのかもしれないわね……」
だが、彼がそんな事を考えている間にも知玲と女性の間で話は進んでいるようだ。
「……けれど、不思議な事もあるのねぇ、大人になった自分と夢の中で邂逅して、急に大人びてしまうなんて。
……フフ、妃沙が無事に回復したのはとても嬉しいのだけれど、何だか娘が急に他人になってしまったようで……少し寂しいような気もするわね」
口元に手を添えて、少し寂しげに微笑む女性。
そんな表情にも……何故だか少し申し訳ない気持ちになり、妃沙はそっと、側にいた知玲の身体の影に隠れてしまった。
「……妃沙?」
そんな愛らしい事をする妃沙を驚いたように見やる知玲。
そして女性は、まぁ、と、とても楽しそうに微笑みながら、再び慈愛に満ちた瞳を妃沙に向けた。
「知玲君に懐いているのは相変わらずのようね。ねぇ、知玲君、お宅にはこちらからお願いしますから、今日は妃沙と一緒にいてやってくれないかしら?
何故だか今日は、貴方達は一緒にいた方が良いような気がするの」
「ええ、おばさん。僕からもお願いしようと思っていた所です。妃沙は未だ混乱しているようですし……今日は僕が、しっかりと彼女を見守りますから」
──有り難う、お願いね、知玲君。
そう言って女性は再び部屋から出て行った。
後に残されたのは、何処かむくれた表情で知玲にしがみ付く超絶に愛らしい妃沙と、そんな彼女を前にして、何かに耐えているような表情の知玲。
「……ちょっ、妃沙、何なのその可愛い態度……。まだ自分の事を解っていないみたいだから仕方ないけどさ……駄目だよ、妃沙。僕以外の人間にそんな事をしたら」
少し焦ったように妃沙の身体を引き剥がし、知玲は彼女の目線に合わせて腰を屈める。
だが、相変わらずむくれたようにぷぅっと頬を膨らまし、ぷいっと顔を背けた妃沙は……呟くように、言った。
「わたくしは今まで寝ていたのでしょう? 貴方だって一日くらい眠らなくてもどうってことありませんわ。
……決定的に情報が足りていませんのよ。良いからこの世界とわたくしの事と……貴方について、徹底的に教えて下さいましっ!」
微かに涙が浮かんだ上目遣いで少年を見上げる美少女。
……その時の少年の心情は……察してあげて頂きたい。
中身は元・女性とは言え、夕季は龍之介と違い、自分が知玲であるという自覚を強く持っており──同時に、その思考回路も現在の身体に引き摺られるかのように男児に近い物になっている。
ましてや相手は前世から恋焦がれた相手が入った超絶美少女。
そんな対象から「今日は寝ないでお話しましょう」と言われ、断れる人間などいるものか。
「……良いよ、お姫様。仰せのままに」
妃沙の前にしゃがみ込み、手を取ってその甲にチュッとキスを落とす知玲。
「……なっ、なんですの!? 夕季様貴方、キャラが変わっていますわ!?」
「き・さ。『夕季』は封印してってお願いしたよね? 戻れないなら、今の自分を受け入れて楽しく生きる方がずっと建設的でしょう?
妃沙、君にもだんだん解ると思うけど、魔法なんてものがあるこの世界でだって、僕達みたいな『転生』なんてものをまるっと信じて貰えるものじゃないんだし、むやみにその名を呼び合って不審がられるのは得策じゃないよ。
でも……まぁ、良いや。君は、そのままでいて。僕が……その心も護るから」
優しく微笑んでそんな事を言い放った知玲が、こっちにおいで、お話をしよう? と妃沙の手を引いてベッドに向かう。
そして当然のように自分の膝の上に彼女を乗せ、不敵に微笑んだ。
「……確かに僕も、今の世界やお互いの状況について、君に知っていて欲しいと思っていたし……良い機会だ、ちゃんと話すから覚えてね」
「……それならこの体勢でなくても出来るのではなくて!?」
「僕には何の得もないんだから、これくらいの役得はあってもバチは当たらないでしょ?」
くつくつと笑う知玲。
顔を真っ赤にしながらポカポカとその胸を叩いていた妃沙だったが……勿論、そんなものは無駄な抵抗である、と言って良かった。
───◇──◆──◆──◇───
「何度でも言うよ、妃沙。今の君はか弱い三歳の美少女。そして、その体内には大きな魔力を秘めている。
魔法の使い方については、これから一緒に勉強して行こうね。僕もまだ、未熟な五歳児だし、さすがに元・日本人としてはたかが五年で魔法のエキスパートって訳にはいかなかったから」
知玲の膝の上にいる今の状況については既に諦めた様子の妃沙が真面目な表情でコクン、と頷く。
「……お互いの性別が変わってしまったという事は、何となくですけれど理解しましたわ。誠に不本意ではありますけれど……。貴方が今、幸せであるのならそれで良いですし」
「妃沙、そういう殺し文句をサラッと口にするの止めて。……全く君は、無自覚で人を誑かしにかかるんだから……。前世でだって、君の優しさに気付いていた人はたくさんいたんだよ?」
何を言ってるんですの、不良と優しさなんて相反するものではないですか、という妃沙の反論はデコピンで返す。
……そう、前世での綾瀬 龍之介、彼は極悪な人相、というだけで誤解されがちだったけれど、その心根はどこまでも優しい男であった。
小学校の時、ある生徒の財布がなくなり、犯人は龍之介であるとクラス全員が疑いの目を向けた事がある。
確かに彼の家は裕福とは言えなかったし、当時から彼の人相は視線で人を殺せる程に鋭いものではあった。
お前が盗ったんだろう、と糾弾されても、龍之介は反論を口にしなかった。
けれど、駅で落とされたと思しきその財布は職員室に届けられており、一円の損すらなく、持ち主に還って来たのだ。
龍之介を疑ってしまった、その気まずさにクラスが言い様のない居心地の悪さに包まれた時、当の龍之介が満面の笑顔で当人に言ったのだ「良かったな!」と。
そしてそのまま、ブツが戻ったなら今までの事は無かった事にして、今まで通りで頼むぜ、ガキども! と、悪ぶった態度で微笑んだ龍之介。
そんな彼を、密かに『アニキ』と呼ぶようになった男子生徒が増えたのは当たり前の事だと思う。
そして中学生の時。
台風警報により、当時から勤しんでいた剣道部の活動が中止となり、傘を片手に残念に思いながら夕季が昇降口を出ようとした時、突然だった為に傘を持って来ていなかったのだろう女子学生が昇降口で困ったように空を見上げていた。
そして、少しも視界に入らない程の距離にありながら、手にした傘を……それこそプロの野球選手もビックリなコントロールで傘を投げ出した龍之介。
女生徒が周りを見渡しながら、それでも深い感謝を込めてその傘を手に学校を出たのを見届けた後、彼も凄い勢いで走り出す。
自分は傘を持っているし、どうせなら一緒に帰ろうと慌てて夕季が走り出すも……その時既に、男子と女子の差を深く感じてしまう程の勢いで走り出す龍之介に追い付いたのは、家まであと少し、という場所で。
彼はその時、ダンボールの中で雨に濡れていた黒猫をジッと見つめ──そして優しく抱き上げてその額に優しくキスを落としていた。
「……俺ん家はマンションだし、飼えねぇけど……ひでェよな、こんなに可愛いのに捨てちまうなんてな……」
そしてその黒猫を抱き上げ、その時既に彼の優しさに気付いて人知れずフォローしていた近所のペットショップ勤務の女性に「コイツを頼む」と差し出し、そのまま駆け去った彼。
雨に濡れながら走り去る彼の背中を呆然と見送り、そのペットショップに飛び込んで、思わず飼い主探しに協力すると請け負ってしまったのだ。
自分が飼えれば良かったのだけれど、彼女の住むマンションは龍之介の家の隣であったし、ペットは禁止であったから。
結局、剣道部の伝手で飼い主は見つかり、その黒猫は貰われて行ったのだけれど……あれが龍之介に恋をするきっかけであったと、今でも自覚している。
──非常にベタな展開であると思いながらも。
「……妃沙。今の君がその優しさを発揮したら、それこそ取り返しが付かないことになるんだからね?」
呟くようにそう言って、知玲は妃沙を抱き締めた。
──前世にはなかった美貌と、前世のままの優しさが伴った今の姿は、自分にとってとても都合の悪いものだと、理解してしまったから。
「何を仰いますの。怖いなら兎も角、優しいだなんて言われた事、一度だってありませんのよ?」
「それは、君の人相が怖かっただけだし、君だって不良っぽく見せようと頑張って振る舞ってたけど、僕には無理してるの丸解りだったよ?」
「……なっ!?」
知玲の発言に、妃沙は思わず声を失ってしまう。
それはそうだろう、自分がイキがっていたのが、よりにもよって一番知られたくなかった幼馴染に筒抜けだったのだ。
それは龍之介にとり、自慰を目撃されるより恥ずかしい事だった──もっとも、そんな場面に遭遇された事は一度もなかったので、その例えが正しいかどうかは定かではないけれど。
「僕じゃなくても解るよ。君は人相が悪いってだけで誤解されがちだったし、考えるより先に手が出ちゃうから怖がられていたけどさ。
でも、それだって言い掛かりを付けられたり、あからさまに相手が悪い場合だけだったじゃない。不良だなんて、君が自分で言ってただけだよ。
だいたいさ、不良って何? 時代錯誤も良いトコでしょ。僕達がいたあの時代に、そんな種族は死滅してたよ」
はい論破、この話はお終い、と知玲は妃沙のぷくぷくとした頬を突く。
様々な現実を突き付けられ、未だ呆然としている妃沙に「いつまでも無防備のままだと、またキスするよ?」と言ってやると、彼女はハッと息を飲んで頬を染めた──全く初心な事である。
「この世界と今の僕達の事、知りたいんでしょう? 僕にも未だ不明な部分はたくさんあるけど……教えてあげるよ、妃沙。
君に気を付けて欲しい事もたくさんあるし……何でも聞いてね。そして僕との約束は絶対に守って」
にこやかに告げる知玲。
何となくではあるが、自分はコイツには敵わないと唐突に理解し、妃沙は大人しく話を聞く事にした。
確かに目覚めたばかりの自分には解らない事だらけだったし、以前とは何もかも変わってしまったらしい自分がどうすれば良いのか、妃沙には良く解らなかったから。
そうして、妃沙は知玲からこの世界の事、自分達の事、魔法の事等を教え込まれる。
その中には『約束事』として、以前にも言われた挑発に乗らないことや無暗に人に絡まない事の他に、何故だか知玲以外の──特に男性には極力近付かない、という物も盛り込まれており、不思議に思った妃沙が尋ねると、知玲はとてもても幸せそうな表情で言ったのだ。
「……だって僕達、婚約するし。婚約者が自分以外の異性に近付く事を由とする男なんて、いる訳ないでしょ?」
涼やかな顔でそんな爆弾発言をする知玲に対し。
(──はぁぁ!? 婚約だなんて冗談じゃねーぞ! そういうのは当人同士の意思で決める大事なモンだろうが!)
「はぁぁ!? 婚約だなんて冗談じゃありませんわ! そういうのは当人同士の意思で決めるべき大事なモノではありませんの!」
龍之介的言語が妃沙言語にそんな風に盛大に変換され、部屋の中に響き渡った。
そんな言葉をさも予想していたかのように受け止め、知玲が再会してから一番黒い笑顔を放つ。
「だってその方が都合が良いじゃない。いつでも君の側に居られるし。……でも、君や僕に本当に好きな人が出来たら、いつでも解消して良いものだから……形式的なものだよ」
言外にそんな機会は与えないけどね? と含まれた知玲のその言葉に。
「夕季様、貴方はもっと自分を大事になさいましっ!」
夕季てめェ、自分をもっと大事にしろと叫ぶ龍之介。
(──全く、僕の勝手でこんな事を決めたのに、あくまで自分より私を大事にしてくれちゃうんだから……。流石は龍之介だよねっ!)
フフっと微笑んで、知玲は妃沙をまた抱き締めた。
──腕に籠る温かさが、姿は変わっても心根の変わらない、心から大切な人だと、改めて実感しながら。
◆今日の龍之介さん◆
「……なっ、なんなんだ!? 夕季てめェ、キャラ変わってんだろ!?」