◆32.だいすき。
組別対応リレーでは知玲、充、葵と言った選手が大活躍を見せ、応援団でもリレーでも大量課点を得た『空組』の圧勝で終わった運動会。
それから妃沙の様子が少し可笑しいのは、一番側にいた知玲はもちろんのこと、葵、充といった彼女の友人たちも気付いていた。
見た感じは何も変わっていないのだ。いつも通り楽しそうに学園生活を送っているように見えるし、放課後は葵や男子達と楽しそうに校庭を駆けずり回っている。
けれど、時にやり過ぎて服を破いてしまったり、擦り傷を作って知玲に叱られれば寂しそうな表情で「申し訳ありません」と俯くし、授業中でも時折ボーっとして手に顎を乗せ、外を見つめている事もあった。
その表情はとても大人びていて、けれども他を寄せ付けないような雰囲気で、何故だか周囲に一線を引いているような雰囲気を纏うようになってしまったのである。
妃沙としては、上手く隠しているつもりであるのだろう。
けれど、あの運動会から自分に対して見えない壁を作るようになってしまった妃沙に対して、知玲も暗中模索と言った状態で決定打を出せずにいるようである。
もっとも、自分は知玲の側に居るのは相応しくないのではないか、周囲を騙しているのではないか。そんな疑問を抱いてしまった妃沙だから、今では大切な存在だと自覚してしまった友達や知玲に心配をかけまいと、表向きは元気に振る舞っているし、当人に無理などしていないと言われてしまえば何も出来はしない。
そして、そんな日々が続くこと、約一カ月。
木の葉が落ち、街の木々がそろそろ冬支度を始めようかという季節のある日、いつものように弁当を食べながら葵が言った。
「妃沙、今度ウチに泊まりに来ない? あの運動会からこっち、親が妃沙に会わせろってうるさくてさぁ……。アタシを助けると思って!」
頼む! と懇願されては、妃沙に否などと言える筈もない。
彼女にとって葵は、前世からずっと憧れ続けた友達で……だからこそ『騙しているのではないか』という引け目を感じてしまっているのだ。
けれど、いつまでもこんな状況でいたいとも思っていない。
決して戻られないのなら、今を進むしかない、とも自覚していて……けれど不安や疑念を拭い去るきっかけもまた、掴めずにいたのだ。
生まれ変わりとか、前世の自分の事とか、そんな突拍子もない事を葵に話すつもりはないけれど、何かが掴めれば良いなと、妃沙はその申し出を快諾する。
「ご迷惑でなければ是非お邪魔したいですわ。両親にも尋いてみますけれど、多分問題ないと思いますわ」
「そっか。んじゃー当日はパジャマパーティーだな! ちょっと夜更かししてさ……色々話そ、妃沙。楽しみにしてるから」
ええ、わたくしも楽しみにしておりますわ、と、ニコリと微笑む妃沙。
そんな会話を聞いていた充が「良いなー」とぷく、と頬を膨らませる。
「ウチだって妃沙ちゃんに会わせろって毎日煩いんだよ? あの応援合戦ですっかり妃沙ちゃんのファンになったとかでさー」
「充のかーちゃんって、栗花落 那奈なんだってな! ウチの母親が大ファンでさぁー」
楽しそうに話す葵と充を、クスリと微笑みながら……けれどやはり何処か一線を引いた表情で見つめる妃沙。
あの日から細くなってしまった食は今も全く改善されておらず、その弁当箱は以前でも小さかったのに更に一回りも小さくなっているし、その中身も残りが目立つ。
けれども、食材を決して無駄にはしないという妃沙の姿勢は徹底されていて、最後には水で流し込むように弁当を平らげるのがここ一カ月の彼女の光景であった。
何かを感じながらも、それ自体には何も言わずにいる葵と充。
相談して来ない以上、無理に悩みを聞き出そうなんて事は決してしないけれども、心から彼女の事を心配しているのである。
「……妃沙。アタシ、本当に楽しみにしてるから」
何とも言えない複雑な表情で微笑みながら自分を見つめる葵に、妃沙は「わたくしも」と、こちらも少し困ったように微笑みを返すのが精一杯であった。
───◇──◆──◆──◇───
そうしてやって来た、葵の約束の日。
悩みは抱えつつも、初めて経験する『友達の家へのお泊り』に妃沙は久し振りにワクワクしている自分を感じていた。
土曜日の半ドンの授業が終わった後、そのまま葵の家にお邪魔する予定なので、妃沙は学校にお泊りグッズを持ち込んで来ている。
手土産は不要、とは言われたけれど、それはあまりに……と気にする妃沙の為に、家族が用意してくれた小さめなお菓子の詰め合わせも、朝、確かに荷物の中にあると確認済だ。
聞けば、葵の家はここから徒歩で十五分程の距離にあるらしい。
彼女の家族の事はあまり訊いた事がなかったのだが、どうやら彼女は一人っ子で、両親は仕事が忙しくて世話をしてくれるのは家政婦さんである事が多いらしい。
だが、決して家族の情が薄いワケではなく、先日の運動会には両親が応援に来てくれたと言うし、その時に見染めた妃沙が葵の友達だと聞いて、是非にとなったそうだ。
「……お友達のお宅にお呼ばれするなんて初めてですから、粗相をしないか心配ですわ……」
葵の家に向かう途中、緊張の面持ちで荷物を抱える妃沙に、アハハ、と快活に笑いながら葵がその肩をバシッと叩く。
「心配すんなよー。全然怖い人達じゃないしさ。ちょっと仕事は忙しいけど、今日は何があっても妃沙とご飯を食べるんだって気合い入れてたし。
まぁちょっとハグハグされるのは覚悟してくれよな。アタシも毎日被害に遭ってるけど、妃沙に会えるのは本当に楽しみにしてたから、喜びは爆発しちゃうかも!」
相変わらずアハハ、と笑いながら言う葵の隣を、少し緊張した面持ちで歩く妃沙。
そうして暫く歩くと、葵が大きな、それこそ屋敷、と言っても過言ではない邸宅の前で立ち止まり「ここだよ」と言った。
妃沙や知玲の家もそれは立派な家屋なのだけれど、葵が指示したその家の隣には大きな病院が聳え立っている。
「……遥総合病院……って、葵、ここの一人娘さんだったんですの!?」
遥総合病院と言えば、旧くから続くこの辺りでは有名な病院だ。
大学病院並みの設備を持ちながら、「研究は他の病院に任せ、自分達は治療の為だけにその設備を使う」と言い切る院長を筆頭に、職員全員が高い志を持って勤務しているという評判だ。
妃沙の父が営む水無瀬の会社の一つも、独自に研究開発した薬を納品している主要取引先の一つであったと記憶している。
「そうだよ。けど、立派なのはとーちゃんとかーちゃんだからさ、アタシは今はまだオマケ。いずれは立派な医者になろうと思ってるけど、今はまだ自由にやりたい事をして良いって言われてる。
だから、隠してたワケじゃないよ、妃沙。アンタの家も相当だろうけど、アタシはアタシだし、妃沙は妃沙だ。
アタシはさ……家とか関係なく、妃沙と友達になりたかったし、これからもそうでありたいと思ってるから家の事は気にしないでくれると嬉しい」
少し不安げな表情で、妃沙の手をギュッと握る葵。
眉を顰めたその表情に、妃沙はフフ、と微笑んで答えた。
「家の事など関係ありませんわ、葵。わたくしが友達になりたいと思ったのは『遥 葵』その人なのですもの。わたくしだって、家の事をどうこう言われて近付いてくる方は好きではありませんわ」
その言葉を聞いた葵の顔に、向日葵のような満開の笑顔の花が咲く。
キラリと光った白い歯に、妃沙は久し振りにおおう、とよろめきそうになるのを感じていた。
「……その通りだよ、妃沙。アタシはアタシで、妃沙は妃沙。家のことなんか関係ないよな」
行こうぜ、と、葵に手を引かれ、その立派な家に招かれる妃沙。
自分は自分、という言葉に、何故だか救われるような気がして……少し、心が軽くなったのを感じながら。
───◇──◆──◆──◇───
そして今、妃沙は葵と並んで布団に入りながら、ポヤポヤとした心地良さの只中にいる。
あの後、美味しい昼ご飯を頂き、近所に住んでいるいう大輔を交えて遥家の広い庭で三つ巴でバスケの1on1に興じ、最後には大輔と二人掛りで葵を止めようとしたけれど上手く行かず、彼女に完敗したり。
やがて帰って来た優しそうな葵の両親──父親は院長でありながら外科医、母親は天才と称される麻酔医だという二人に強烈なハグを以って歓迎され、しばらく離しては貰えなかったのだけれど、「とーちゃん、かーちゃん、そろそろ妃沙が死にそうだ」という葵の言葉にハッとして開放され、その後、四人で素晴らしく美味しい夕食を頂き、楽しく過ごしたのだ。
その後は葵と一緒に風呂に入り、パジャマを着て色々話していたのだけれど、ついに眠くなり、用意して貰った布団に入った所である。
「……ね、妃沙。ちょっとだけ、アタシの話をしても良い?」
そう問い掛けられ、妃沙が隣の葵に目を向けると、彼女は何処か真剣な瞳で自分をジッと見つめている。
電気が落とされ、その綺麗なエメラルドのような瞳をハッキリ見る事は出来なかったけれど、真剣な雰囲気はしっかりと感じ、妃沙は言葉を発することなく、コク、と頷いた。
それ以外の言動は、葵が許してくれないような……そんな気がして。
「アタシはね、ずっと女子の友達なんていらないと思ってた。アタシはこんな見た目と口調だし、『葵ちゃん格好良い』って言ってくれる子はいたけどさ、それは『友達』じゃないだろ?
その他の女子はさ、男とばっか遊ぶアタシを敬遠してるっていうか……何か、好きな男子がアタシと仲良くしてるのを面白く思ってないみたいなんだよなぁ。
だったら一緒に遊ぼうって言っても、そんなのムリって怒るしさ。正直、面倒臭くて、男子と遊ぶか一人か。その方がよっぽど気楽だって、ずっとそう思ってたんだ」
女の身に落とされて初めて知る、女子という生き物の面倒臭さは、妃沙も少々感じていたので「わかりますわ」と呟く。
一人で何かをするより集団でいることを好む人物が多く、また、集団の中にいないと不安を感じるようですらある。そして、反感を抱いても直接的には何も言わず、嫉妬心を剥き出しにして遠回しな嫌がらせをしたりする。そして時には、この年齢から表と裏の顔を使い分ける器用な人物は男子より多い、というのが『女子』という生き物に対する妃沙の印象だった。
そんな女子の強がりも、キャッキャと群れて楽しそうにしている姿も小動物のようで可愛いな、と思うのだ。ただ、自分にはそのノリは合わないなと思うだけである。
元々の嗜好が三歩下がって影踏まず、なんていう古風な女性を理想とする妃沙だ、そんな女性になれと強要するつもりはないし、自分だって三歩下がって従うなんて冗談ではない。ましてや相手が男だからって負けるなんて以ての他だ。
だから自分は何に対しても真摯に向き合うし、完璧にこなせるようにと努力をするし、相手が誰であろうと負けるつもりもない。中身が男なのだから、そんな自分の価値観はいわゆる普通の女子とは違うんだろうな、ということは、少しずつ妃沙にも理解が出来ていた。
「けどさ、男子は男子で面倒臭ェんだよ。女のクセにとかすぐ言うし。気に入らなければ手も出るし、女子より悪質なウワサも流すしさ。ある意味、女子より扱いが難しいのも、中にはいてなぁ……。
大輔のアホみたく、勝てば正義な価値観を持ってるヤツなんて、小学生ですら少ないんだよ。
この国はさ、魔法なんていう、ごく一部の人間しか持てない力があって、持ってない大多数には少なからず劣等感があってさ。アタシにも魔力はないけど、それで自分が劣っているなんて考えたことはないぜ?
けど……まぁ、確かにないよりあった方が便利だろうな、くらいには思うかな。
……でもさ。妃沙、お前は違うよな。最初こそ魔力を持ってるなんて知らなかったけど、知った今でもそんなの関係ないって普通にアタシ達に接してくれてるし、魔力も家柄も全く気にしてないよな」
アタシはさ、と、既に電気の消えた天井を見つめながら、葵は言葉を続ける。
そんな彼女の言葉を、妃沙は黙って聞いていた。
「本当はずっと、友達が欲しかったんだと思う。一緒に遊んでたって、野郎共はやっぱり友達、というにはちょっと違う気もしてたし、大輔……アレは幼馴染だからさ、友達っていうより腐れ縁っていうか、居て当たり前って言うか。だからアタシの求める『友達』とはちょっと違うけど、アイツの側は心地良かったから、深く気にしてなかったんだ。
でも、妃沙。お前とだけは『友達』になりたいと思った、絶対に。自分でも……何でなのかは解らないけど」
妃沙、と呟いて、葵がゴソゴソと妃沙の布団の中に潜り込んで来る。
そして、そのままギュッと妃沙の小さな身体を抱き締めて言った。
「アタシは妃沙が好き。これからも、ずっと友達でいたい。
最近、妃沙が何かに悩んでる事は知ってるし、アタシに相談して来ない以上、妃沙が自分で解決しなきゃいけない事なんだろうなってのは、解ってる。
けどさ……忘れないで、妃沙。
アンタはね、知玲先輩だけじゃなく、アタシにとっても、たぶん充にとっても唯一無二で絶対に譲れない存在なんだよ。
……好かれる事を恐れないで、妃沙。アタシ達は……今の妃沙が大事なんだ。アンタが……今の妃沙が、本当に大切で……好き、大好き!」
そう言いながら自分の肩口に顔を埋める葵の顔から、熱い物が滴り落ちるのを妃沙は感じていた。
そして、自分の瞳からも、同じものが流れ出るのを感じている。
……自分は泣いているのだ。それも、口惜しいとかムカつくとかいうマイナスな感情ではなく、嬉しくて。
自分の為に涙を流してくれている『親友』の温もりを感じながら、妃沙はその背を抱き返し、ポン、ポンと優しく叩きながら、言った。
「……葵。わたくしの悩みを察して下さっていたのですわね……。確かに最近、ちょっと悩んでいましたのよ、わたくしはここにいるべきではないのではないか、とね」
その言葉に、葵がハッと身体を強張らせて妃沙を見つめている。
至近距離にいる彼女の瞳は、光の中で見るそれよりも少し暗かったけれど、それでも確かにそのエメラルドのような瞳は綺麗な光を放っていた。
「わたくしの事情は……墓場まで持って行く覚悟ですから勘弁して下さいましね。
けれど、ねぇ、葵。『今世』のわたくしが好きだと……言って下さいましたわね」
そして葵の胸に顔を埋め、その嬉し涙をポタリ、と彼女のパジャマに落とす。
「葵……葵! わたくしも貴女が好き……大好きですわ!
わたくしこそ、男子にも女子にも特別な色眼鏡で見られてしまう存在なのですもの、何故だかは存じませんが、何処か一歩引いた付き合い方をされてしまうのは理解しておりますわ。
それにね、おそらく恋人や友達と言った『特別』を作る事は、わたくしには難しい事なんだと思うのです。おそらくわたくしは、他人より少しだけ、好意を信じる事に慣れていないから。
けれどそんなわたくしを『普通』の世界に繋ぎ止めてくれているのは葵、貴女達、大切な友達なのですわ」
悪意に晒されることに慣れるしかなかった前世。
どんなに他人を助けようとしても、素直にそれを受け取って貰う事は出来なかった。
人相という短所、それだけで疑われ、敵意を向けられ、それが周囲にも影響を及ぼしてしまっていた前世。
だから必死で善行を重ねても、裏があると思われ、大切な存在の母親や──夕季にも迷惑を掛けてしまっていて。
ならばと、アイツらと俺は関係ねェと虚勢を張るだけだった毎日。本当は心から大切に思っていたのに、言葉や態度にすれば、また迷惑を掛けてしまうだろうから。
けれど今世は違うのだ。
好きなら好きだと胸を張って言って良い。迷惑を掛けたらそれを償う道もちゃんとある。そして、側にいたいならいて良いよ、と、この親友は言ってくれたのだ。
「葵。覚悟して下さいましね、わたくし、一生貴女の『友達』でいたいようですわ。ですから、自分のその気持ちにずっと素直でいたいと思うのです。
わたくしは『わたくし』なのですものね。前世までの事情など関係ないのですわ。
……水無瀬 妃沙、として生きて行くしかないのですから」
葵を抱き締めながら、妃沙は決意を新たにする。
前世の記憶を呼び起されたからといって何だと言うのだ、今の自分は水無瀬 妃沙、その人じゃないかと。
その心根がヤンキーのままだろうが、こうして友達でいたいと、大好きだと言ってくれる人がいる。
自分も同じ気持ちだと言うのに、何を無理する事があるというのだろうか。
帰ったら知玲にもちゃんと謝ろう、そして自分以上に厄介な感情を抱えていそうなアイツの心も少し軽くしてやって、『一緒』にこの世界を生きて行こう、と決意し、葵の温もりを感じながら、優しい気持ちで妃沙が眠りの世界に足を踏み入れようと意識を持って行き掛けた所で、葵が言った。
「……ところで妃沙、こないだの運動会で『借り物』したニーチャンみたいなのが好みなの? 知玲先輩が人を殺しそうな視線をアイツに送ってたの、知ってる?」
既に眠りの体勢に入っている妃沙は、その問いにヘラッと微笑み、一言だけ、言った。
「今のとこ……いちばんすきなのは、あおい、ですわね……」
そうとだけ告げて、スゥ、と寝息を漏らして眠る、天使にも似た『親友』の姿に、葵はクスリと笑みを漏らす。
「色恋は妃沙にはまだ早いかぁ……。けどなんだろ、すんげぇ優越感……。知玲先輩よりもアタシ、かぁ……」
フフ、と微笑み、妃沙を抱き締め、幸せそうな笑みを顔に浮かべたまま、葵もまた、眠りの世界へと旅立って行く。
初めて絶対に欲しいと思った『親友』が一番好きだと言ってくれた幸せと一緒に、その温かい身体を抱き締めながら。
◆今日の龍之介さん◆
「……だから! 百合じゃねェからな!?」




