◆3.突然何してくれてんだ!?
ひとしきり、お互いの存在を確かめ合った後、ふと、知玲が身体を離して真剣な表情で妃沙を見つめる。
「……妃沙。この世界はね、僕達が生きていた世界とは似て非なる世界なんだ。今の僕と君の立場を含めて説明するから良く聞いて」
そうして、この世界で五年間を生きていたという知玲が語り出した、この世界のこと。
それは妃沙にとり、衝撃の事実の連続だった。
「この国は『日本』じゃない。東珱、と呼ばれているんだ。地理や気候なんかは日本に酷似しているし、言葉もほぼ同じなんだけど、辿って来た歴史や文化は微妙に違うようだ。
……何よりまず、人々の容姿が日本とはまるで違うね……妃沙、今の自分の姿を見てごらん?」
そう言って知玲が妃沙をベッドから立たせ、側に置いてあった姿見の側に立たせる。
妃沙がおずおずとその鏡を見つめると……そこには金色の髪を肩の下辺りまで伸ばした、大きな蒼い瞳が印象的な美少女が自分を見返していた。
「……誰ですの? このお人形ちゃんは?」
「……だから君だって。君の名前は水無瀬 妃沙、いい加減覚えてね。美の基準は以前の僕達と全く一緒。今の君は、絶世の美少女と言っても決して誰からも文句は来ない。
ついでに言うと、水無瀬家はこの国でも有数の大富豪で、僕の家──東條家とも古くから親交があるよ。屋敷も隣合っていて、今の僕と君は、前世と同じく幼馴染ってワケ」
──性別は変わってしまったけどね、と楽しげに笑いながら知玲が説明してくれる。
「そしてね、以前の世界とは一番違うのが──この世界には『魔法』という概念がある。
もっとも、ライトノベルの世界みたいに魔物が出現する訳でも、戦争が頻発している訳でもないから、生活を便利にする為の力、くらいの効力しかないけどね。
けど『魔法』は才能のある者しか使えない特別な物で、生まれつきのもの。
そして僕も妃沙も、かなり大きな『魔力』を持っているみたいだよ」
その言葉を聞いた妃沙が目を見開き、その愛らしい顔に喜色を浮かべて「キャーー!」と叫んだ。
龍之介的言語に変換するのであれば「うぉぉーー!」と。
「魔法ですって!? 何ですの、その心ときめく単語は! そんなのに憧れない青少年はいませんわっ!」
「……ああ、うん。そうだね……」
ドン引きしている態の知玲。
だが、今は美少女の姿であろうと、中の人は男子高校生、そんな摩訶不思議な世界に対する憧れだってある。
不良の格好はしていても、中身は普通の男子だったのだ、君は魔法が使えるよ、なんて言われてはしゃがない筈がない。
どうやって使うんですの? やってみせて! とはしゃぎまくる妃沙の前で、知玲はフゥ、と溜息を吐いた。
そして真剣な表情で彼女を見やり、両肩に手を置いて真面目な口調で諭すように話し出す。
「……良く聞いて、妃沙。大富豪の一人娘で生まれつきの魔力持ち、その上絶世の美少女という立場の君は、ハッキリ言って相当に目立つし、色んな悪意を向けられたりする事もあるだろう。
君を便利に利用しようとする輩なんか、それこそたくさん居るんだ。
かく言う僕だって、誘拐されそうになった事がある位なんだよ。
僕の家、東條家は華族の流れを汲む旧家で、政財界にもかなりの影響力を持っているからね。
その時は間一髪の所で未遂で済んだけど……君の身にだって同じ事が、充分に起こり得るんだ。
だから妃沙、充分に注意するんだよ。僕も手は打つけど……もう二度と、君が傷付くのを見たくないんだ。だから、それだけは……頼む」
顔を覗き込まれ、今にも泣き出しそうな程の真剣な表情で言われ、妃沙は、コクリと頷かざるを得なかった。
そうしなければ、知玲は決して自分を離してくれなさそうな気がしたのだ。
だが、未だに自分が美少女に転生した、という実感は薄く、いざとなれば自分の身くらい自分で守れるだろう、ずっとそうだったのだから、と、軽く考えているようなフシもあった。
そんな考えが表情に出ていたのだろう、知玲はフッと溜息を吐き、よいしょ、と声を上げて妃沙のその小さな身体を横抱きに抱き上げた──所謂、お姫様抱っこの状態だ。
「ちょっ!? いきなり何ですの!? 降ろして下さいなっ!」
前世では勿論、こんな風に誰かに抱き上げられた事などない妃沙にとり、その心許なさに泡を食って思わず知玲の首筋に抱き付いてしまう。
より近くで見る知玲の顔は、本当に見たことがない位に造詣が整っており、そのあまりの近さにギョッと身体を離そうとするも、知玲が彼女を抱く腕にギュッと力を込めた為にその距離は固定されてしまった。
「良いかい、妃沙。今は僕もまだ五歳児だし、膂力を増強する魔法を使っているけど、鍛錬は続けているし、直に僕だって魔法なんかに頼らなくても君をこんな風に抱き上げるくらい造作もない事になるんだ。
ましてや、周囲から比べれば今の君は非力な女の子なんだ、どんなに注意をしていたって君を拐かすなんて簡単なことなんだよ? それだけじゃない、君を害する事だって容易だろう。
勿論、君の両親も考えてくれているし、僕も対策は打つけど……君自身に隙があったらどうにもならない事だってあるんだからね」
そう言いながら知玲は部屋の中を移動し、先ほどまで腰掛けていたベッドの上に座ると、その膝の上に妃沙をおろし、コツン、と額を当てて来る。
相変わらずパニック状態のままである妃沙はもう、彼のされるがままだ。
「……さっきも言ったよね。僕はもう二度と、君が傷付くのを見たくない。
ねえ……龍之介、君が目の前で血を流して倒れて、その身体から力が抜けて、どんどん冷たくなって行く様を目の前で見ている事しか出来なかった僕の気持ちが解る……?
二度と……御免だよ……。だからお願い。人の悪意を軽く見ないで。自分の力を過信しないで……二度と、僕の側を離れないで」
再び涙を落としながらその小さな身体を抱き締める知玲。
優しい涙と身体の温もりを感じながらも、妃沙の中で、龍之介は思う。
(──何言ってんだ。不良なんて悪意の只中にあるような存在じゃねぇか。ンなもん、慣れてるっつーの。
そりゃまぁ、俺が夕季の立場だったら、目の前で幼馴染が死んでいくのを見るだけしか出来ねぇなんて冗談じゃねぇと思うだろうけど……)
だから、龍之介は、言った。精一杯の力で、知玲の身体を引き剥がして──それはかなりの苦労を要する事ではあったけれど。
以前の自分であったなら、難なく出来た筈のことなのに……ああ、自分は本当に非力な女に転生してしまったのだと、改めて実感しながら。
──だけど、これだけは言っておかなきゃならねぇ。
「……夕季様。貴方の心に傷を残してしまったのは申し訳ないとは思いますわ。
けれどわたくしは、再び同じ状況にあったならば何度でも同じ事をすると思いますわ。何度でも、何百回でも……そして、何度生まれ変わっても。
理由なんてありませんのよ? きっとわたくしがわたくしである限り、この身体は勝手に動いてしまうと思うのです……理屈じゃないんですのよ」
……男前である。どこまでも男前である。
この時、妃沙が放った言葉は、龍之介的言語で言えば『何度だってお前を助けてやる、理屈じゃねぇんだ!』という物なのであるが……。
……いかんせん、今の彼はかよわい絶世の美少女であった。
だがしかし、その姿から放たれた言葉であるからこその威力というものが伴うのもまた事実で、可憐な微笑みと共にそんな言葉を間近で聞いてしまった知玲は、ポッと頬を染める。
そして……次の瞬間にはしょうがないなー、さすが龍之介、と爆笑の渦に飲み込まれた。
「もう……頼むよ、龍之介。その顔でそんな事言われたら、神様だって陥落しちゃうって! 今の姿があんまり可愛いから、つい龍之介だってこと忘れてしまいそうだったけど……。
綾瀬 龍之介、確かに君は、僕の側に還って来てくれたんだねぇ……フフ、オーケーオーケー!
君にはそのままで居て欲しい。それは僕の願いでもあるからね。
けど、良い? 前世みたいに簡単に挑発に乗らないこと。僕以外の人間は、例え友人や家族であろうとも簡単に信頼しないこと。知らない人には着いて行かないこと」
妃沙の目の前で指を折り、そんな約束事を教え込む知玲。
そして彼は突然瞳を閉じ、ブツブツと何事かを呟き、その全身の熱を、その薄い唇に集めると──
「──水無瀬 妃沙、君に起こる災厄を、僕、東條 知玲は共有すると誓う──」
そう呟いて、妃沙の小さなさくらんぼのような唇に、自分のそれをそっと押し当てたのだ。
(──!!!!!!!!!!──)
キス、である。
自慢じゃないが、前世でもしたことがない、接吻だ。
綾瀬 龍之介、彼はとても古風な男であり、本気で惚れた女以外とは不埒な行為はしないと決めていた。
そして本気で惚れた女とやらも、前世では現れなかった……と、思っている。
夕季の事は大切だ。それこそ、命を投げ出しても惜しくはない程に大切だったし、あの事故の瞬間に思わず飛び出した事も、さっき言った言葉も嘘ではない。
けれどそれは、ガキの頃からの腐れ縁だし、両親が離婚して以来、忙しくて自分を顧みる事がなくなった母に変わり、何かと心を砕いてくれた隣人の同い年の幼馴染だったからで……
剣道を始めてからというもの、とんでもなく朝早く家を出る夕季に付き合わされ、昼食はコンビニか学食になってしまった夕季の分まで、家事全般を自分でせざるを得なかった自分が弁当を作ることになり……
……それだけだ、ただの幼馴染だ、友達ですらねぇんだぞ!?
一瞬のうちに、龍之介はそんな事を考えるけれど。
世間一般では、その気持ちを『惚れている』と言うし、ましてや、考えるより先に相手を助ける為に体が動くなんて、その想いは相当深いものだと理解するだろう。
けれど──綾瀬 龍之介、彼的にはあくまで夕季は幼馴染で、転生して再会した今でさえ、相手を大切に想う気持ちが恋だの愛だのというものには当てはまらないと思っている。
彼はまた、こと恋愛に関しては極めて奥手であり、鈍感であった。
けれど今、知玲の中の人──蘇芳 夕季がした行為は、この世界ではとんでもない意味を持つものであり、そしてそれを実行出来る人間は限られているものだ。
夕季がこの世界に転生してから、五年。
彼女は神様との約束を信じ、ずっと龍之介の転生を待っていた。
『身体は赤ん坊、頭脳は高校生!』という、何処かの探偵めいた状況にあり、言葉も喋れず、身体も満足に動かせない時代から、彼女はずっと世界を観察していた。
この世界のこと、自分が置かれている状況、言語、季節、政治、経済、最近の流行etc……。
「この子、テレビを見せていると全く泣かないから本当に楽だわ」
……と、今の母親に言わしめるくらい、自由のきかない赤ん坊の時代から情報収集に努めに努め、この世界に在る自分の立場や価値の研鑽を積み、努力を重ねて来たのだ──いつか出会える、幼馴染の為だけに。
そして彼女はまた、龍之介と違い、己の心にある気持ちを、確かに『恋』であると自覚する程には、賢い少女であった。
「……勝手ではあるけど、『契約』をしたよ、妃沙。これ以降、君に害意を持って与えられた肉体的な苦痛は、僕にも現れるからね。
魔力を持つ人間は、一生に一度だけ契約を交わして、対象の危険を共有して軽減する事が出来るようになるんだ。
妃沙、君が傷付けば僕にもダメージが及ぶ。それを由とするなら……どうぞご自由に? ああ、でもあんまり傷付けられたら、僕はショックで倒れてしまうかもしれないなぁ……?
でも安心して。これは僕の契約であって君の契約ではないから、僕のダメージが君に現れるなんて事はないし、君がその魔力を使いこなせるようになれば、君が大切に思う人に対してその契約は使えるよ」
──果たして、そんな対象が現れるかどうかは謎だけどね?
唇を離し、不敵に微笑む東條 知玲──の、中の人、蘇芳 夕季。
彼女は今、前世での十八年と今世での五年の二十三年を合わせても尚、一番に意地の悪い顔をしていた。
(──夕季、てめェ、何してくれてんだよぉぉぉぉーーーー!!??──)
「……夕季様、貴方、何をして下さってるんですのぉぉぉぉーーーー!!??」
龍之介の絶叫は、そんな言葉に変換され、周囲に響き渡る。
だが知玲は、そんな妃沙を楽しそうに……そしてしてやったり、という含みのある笑顔で見つめているだけだ。
──この時、契約は果たされた。
『魔力』を持つ人間が一生に一度だけ交わせる『契約』。
通常、その契約が使えるということを知るのは大人になってからであるし、ましてや他人の痛みを受ける覚悟など、通常は子を溺愛する親がする程度で、そんな契約をする人間は殆ど居ない。
けれども、その契約の存在を知った時、夕季は決めていたのだ、龍之介と再会したら、どんな手を使ってでも彼の苦しみを自分が共有しようと。
彼女に周囲にも、そんな契約を交わした者は存在しなかったからその効果の程は解らなかったけれど……もしこの契約が再び出会えた幼馴染を少しでも守る手段となるのならば、絶対に自分は龍之介と契約しようと。
そして、調べたのだ、契約の方法を。そしてそれは心からの宣誓と……接吻。
(──そんなの、あたしにとってはご褒美だしね?)
未だ混乱し、顔を真っ赤にして絶叫する妃沙、そんな彼女を抱き締めながら、黒く微笑む知玲。
傍から見れば齢三歳と五歳の少女と少年。
……中の人の年齢で言うのなら十八歳と二十三歳。地頭の出来も違えば、彼が転生して来るまでに色々と調べ、準備をして来た知玲に対し、妃沙に抵抗する手段など、きっと何処にもなかったに違いない。
けれど、こうしてこの時、知玲──中の人、蘇芳 夕季。彼女は手に入れたのだ、前世からずっと恋焦がれた人と、例え肉体に現れる苦痛に限定したものとは言え、一つになる契約を。
──そして、水無瀬 妃沙、中の人で言う綾瀬 龍之介。
彼がその『契約』の意味に気付く事になるのは、もう少し後の事である。
◆今日の龍之介さん◆
「ちょっ!? いきなり何なんだよ!? 降ろしやがれっ!」