◇26.ワンコ爆誕!
「ハァァ……。わたくしとしたことが一生の不覚ですわ……」
翌日の昼休み。
妃沙は持参した弁当の中から銀ダラの西京焼きを摘み、少しだけ口に入れて咀嚼しながら、重い重い溜め息を吐いていた。
この学園にも給食はあるのだが、週に一度、金曜日だけは弁当の日とされていた。
食育の一環で、給食よりも身近な人が弁当を用意してくれるという事に感謝をしたり、週に一度のメニューについて家族と話合ったり、高学年にもなれば手伝いをしたりという狙いがあった。
だがもちろん、各家庭の負担にならぬように朝に申請をすれば通常通りの給食も用意してくれるので、寝坊したり家庭の事情で用意が出来なくても安心の制度なのである。
「妃沙ちゃん、どうしたの?」
妃沙の隣で同じく弁当を広げ、花型に切られた人参の煮物をパクリと頬張りながら、栗花落 充がコテン、と首を傾げている。
あの遠足以来、舎弟にしてくれと妃沙に頼みこんでいた充だったが、当然の事ながらその願いは叶わなかった。
『弟子は取らない主義なんでな』という、堅物の職人めいた妃沙によってことごとく断られてしまったのである。
けれど、充があんまりにも落ち込むので「お友達ならよろしくてよ」と宣言して以来、充は度々こうして妃沙や葵と一緒に弁当を食べている。
最初こそ『水無瀬さん』呼びだったのだが、それではお友達らしくないと妃沙が呼び方を改めさせ、さすがに呼び捨ては出来なかったと見え、今に至る。
「これですわ……」
再び溜め息を吐いた妃沙が、ポケットからスマホを取りだした。その液晶画面を覆うカバーには一筋のヒビが入っている。
縦ロール先輩に手を打ち据えられ、取り落としてしまったあの時に出来たものだ。
「うわ……。ヒビが入ってるじゃない。どうしたの?」
心配そうな充の問いに答えたのは、充と同じく妃沙の隣で弁当をパクついていた葵だ。
彼女は、妃沙や充より大きな弁当箱の中から唐揚げを摘み出してパク、と頬張り、リスのようにモゴモゴと咀嚼しながら言った。
「まーそれも被害の一部だと思うけどよ。妃沙、溜め息の理由はそこにはないんだろ?」
既に理由を知っている葵が、呆れたような、それでいて面白くてたまらない、といった表情で妃沙を見つめている。
事情を飲み込めない充が不思議そうな表情で妃沙を見つめると、ハァァ~~と、一際大きく溜め息を吐いた後、妃沙がこの世の全ての悲しみを集めたような残念な表情で言った。
「縦ロールに触れませんでしたわぁーー!! お話したら触らせて下さるというお約束でしたのにィィーー!!」
ブッ、と思わず葵が吹き出す。唐揚げは飲み込んだ後だったので被害は最小限だ。
「は? 縦ロール?」
イマイチ状況が解っていない充に、妃沙はドン、ドン、と口惜しそうに机を叩いて力説する。
「そうですわっ! 初めて現実世界で出会う理想的な縦ロールでしたのに……! その強度や手触りをこの手で確かめたかったのですのに……!!」
瞳に涙すら浮かべて力説する妃沙に、充は心配そうな表情で尋ねた。
「この学園で縦ロールと言えば、知玲様ファンクラブ会長の詠河先輩だけど……まさか妃沙ちゃんに接触して来たの?」
キュッと表情を引き締める充。その表情は何かを酷く警戒している様子だ。
ちなみに、縦ロール先輩が妃沙を尋ねて来たあの時、充は教室にはいなかったので妃沙が彼女らに呼び出された事を知らなかったのである。
今では充は、その脚の速さから男子生徒からの誘いは引っ切り無しのスターであり、妃沙と共にいることでその愛らしい容姿が有名になってしまい、隠れファンの女子生徒も多かった。
そんな彼なので、スポーツの助っ人に駆り出されたり、女子生徒から絵のモデルを頼まれたりする事も多く、教室にいない事も多かったのである。
未だ気の弱い彼は、人からの誘いを断る事など出来なかったし、それがまた親しみ易い存在として生徒達に良い印象を与えていた。
男子にも女子にも平等に人気があるという点においては、妃沙も葵も凌駕する人気者への道を歩み始めていたのだけれど、彼もまた、そんな自分の状況は何とも思っておらず、ただ『強くなって妃沙を守る』という覚悟に満ち溢れた、熱狂的妃沙信者の一人であった。
だが、そんな彼であるから、男子とも女子とも接する機会が多く、学園内の噂や有名人達の事は自然と耳に入って来る環境だったのである。
「へぇー、あの縦ロール先輩、有名なんだな」
関心したように、デザートの蜜柑の皮を剥きながら葵が呟く。
「詠河商事と言えば、日本でも有数の大企業だよ!? そこのご令嬢を知らないなんて、葵ちゃんこそもっと周囲に興味を持ちなよ!
それに、詠河先輩と言えばそれなりの魔力を持っているって話だよ。大企業の息女で魔力持ちだなんて、権力の塊みたいな存在じゃないか!」
「けどよぉ、充。お前の隣にもそんな女子生徒がいるじゃんか。その上とびっきりの美少女だぜ? そんなアホみたいな存在が側にいるのに、それより劣った存在に注目しろだなんて無理な話だろ?」
皮を剥き終わった蜜柑を二つに割り、あっと言う間に食べ終わった葵が丁寧にごちそうさま、と両手を合わせて感謝を捧げ、呆れたような口調でそんな事を言いながらチラリと妃沙に目をやる。
アホみたいな存在。それはもちろん、妃沙を指していたのだけれど。
「まぁ! この学園にはそんな素晴らしい方がたくさんいらっしゃいますのねぇ。わたくしも是非お知り合いになり、縦ロールに触れさせて頂きたいものですわ……」
当の本人はぷぅ、と頬を膨らまし、それでも食べ終わった弁当を綺麗に片づけて、妃沙もまたごちそうさま、と手を合わせて感謝を捧げた。
食事の後には食材や作ってくれた人への感謝を心から捧げましょうというこの学園の教えもあったし、元からその志は忘れないようにしようと思っており、それは前世からの習慣とも言えた。
「詠河先輩が妃沙ちゃんに接触して来たなら、そのヒビの理由は解る気がするよ。妃沙ちゃんがどうしてそんなに縦ロールを気にしているのかは解らないけど……」
フゥ、と溜め息を吐き、充も最後の煮物を咀嚼し終わり、両手を合わせて人差し指と親指の間に箸を挟み、これまた感謝を捧げる。
学園の教えはしっかりと生徒達に浸透しているようだ。
「何を仰いますの、充様!? あの立派な縦ロールを維持するのにどれだけの人類の英知が使われていることか……!」
あくまで妃沙にとっては、彼女の価値は縦ロールにあるようである。
まぁ、あの縦ロールには誰もが目を奪われてしまうよな、と、充は心の何処かで納得する。
だが、愛らしい容姿はしていても充はあくまで男子だ。あの髪型を創り上げる工程など知る由もない上に、彼にとってはかの先輩が妃沙の手を打ち、その持ち物に傷をつけたという事実の方が大問題だった。
「でも……妃沙ちゃんの持ち物を壊した罪は重いよねぇ……」
フフ、と微笑んだ充の様子は腹に一物ありげな表情であった。
そんな充の横では、相変わらず縦ロールがぁぁーーと残念がる妃沙と、あの中にはチョコが入ってて腹が減ったら食うに違いないぜ、なんていう不届きな事を言いながら大笑いしている葵がいる。
と、そこにクラスの男子から声がかかった。
「おーい、そこの三人、飯食い終わったなら校庭に行かねぇ? クラス対抗のデスマッチ・ドッヂボールだってさ!」
途端にギラリ、とその瞳に闘志を宿す三人。
「負ける訳には行きませんわね、葵、充様!」
「おう! 蹴散らしてやるのみだな!」
「ボクはサポートに回るよ。コートに残って球を避ける。誰よりも最後まで残ってみせるよ! 勝利は確実だね!」
勝負事が目の前にあれば、縦ロールなど些細なことだ。
妃沙と葵はこの時すでにあの縦ロール先輩の事など忘れており、充はこの事案は放課後に回そうと人知れず決意をし、作戦を話し合いながら、三人はグラウンドに向かったのであった。
───◇──◆──◆──◇───
その日の放課後、充は六年生のとあるクラスの前に居た。
以前の彼であれば、一人で上級生に立ち向かおうとするなんてあり得ない事だっただろう。実際、同級生にすら抵抗出来ずにいたのだから。
だが、妃沙との出会いは彼に少しだけ自信を与え、妃沙に対して深い感謝の念を抱くと共に彼女を護る事の出来る存在になりたいという目標を抱かせたのである。
その愛らしい容姿と相まって名付けられたあだ名・忠犬の爆誕であった。
「……あの、詠河先輩はいらっしゃいますか? ボク、一年の栗花落 充って言います!」
既に有名人となりつつあった充の来訪に、六年生の女子達からキャッ、みっきゅん! などという嬉しそうな歓声が上がる。
当の本人は頬をピンク色に染め、落ち着かない様子で立っているだけなのであるが、その頭には垂れた耳が見えそうな程、その姿はとても庇護欲をそそる物であった。可愛い年下の男子が嫌いな女子など、何処の世界にもいないのである。
「……何か御用かしら?」
今日も今日とて見事な縦ロールを揺らしながら、詠河 美子が腰巾着を引き連れて充の前にやって来た。
偉そうに腕を組むのは彼女の癖のようであり、決して可愛らしい仕草とは言えないから止めた方が良いのになと充は思う。
だが今は、そんな事はどうでも良いのだ。敬愛する妃沙に被害を及ぼしたというその事実は、充にはどうしても許せないものなのである。
「あの……ボクを知玲様のファンクラブに入れて頂けませんか!? 入学した頃からずっと知玲先輩に憧れてて……やっぱり男子の入会はダメですか……?」
瞳をウルウルさせて上目遣いで縦ロール先輩に懇願する様は、そこらの女子顔負けの愛らしさである。妃沙にも見習って欲しいくらいだ。
もちろん、それは計算されたあざとさであり、充よりも早く生まれ、名家の息女として社交界にも顔を出し、学園内ヒエラルキーのトップに君臨している詠河 美子──縦ロール先輩にはお見通しであった。
「水無瀬さんの忠犬が知玲様のファンですって? 俄かには信じられない話ね。それに、何故今頃になってそんな事を言い出したのかしら?」
そう言って怪訝な表情で充を見返している。
妃沙と一悶着あった直後の申し出だ、怪しまれない筈がないと充も考えていた。
瞳ウルウル作戦で落ちてくれれば良いな、と思ってはいたけれど、やはりそう簡単にはいかないか、と充は少し、緊張感のあるやり取りに気持ちが昂ぶるのを感じていた。
「水無瀬さんに近付いたのだって、ひいては知玲先輩のお近づきになりたいからなんです! 知玲先輩はとても水無瀬さんを大切になさっているから……」
しゅん、と悲しい表情で俯き、使い走りにされていた時代、どうしても嫌な事を断る時に使っていた嘘泣き用の涙すら浮かべてみせる。
大抵の女性ならこれで騙されてくれるのだけれど、さて、この先輩はどうだろうと表情を崩さないまま縦ロール先輩を観察する充。
だが、さすがは縦ロール先輩、彼女自身は未だに充に疑いの瞳を向けていた。けれども、その背後に立つ小判鮫達に変化が見て取れたので、落とし所はここかな、と、最後の仕上げにかかる。
「水無瀬さんがボクに夢中になれば、知玲先輩だって諦めてくれるかもしれないじゃないですか!
聞いた所によると、あの二人の婚約はお互いに心から好きな人が現れたら解消するという前提で成り立っているものらしいんです。
ボクは……家柄なんていう理由じゃなくて、知玲先輩が本当に心から好きになった人と幸せになって頂きたいんです! 大人になってから深く傷を負うより、早いうちから気付いて頂いた方が良いでしょう?
ボクはそんな知玲先輩のお側にずっといて、傷を癒し、慰められる存在になれるように水無瀬さんから情報を得ながら機会を窺っているんです。出来ればファンクラブの皆さまにも協力して頂きたくて……」
ポロリと涙を零してみせた。そんな芸当は充にとって朝飯前である。
彼の家は父親が映画監督、母親が女優という一家であり、彼もまた幼い頃から劇団に所属していた。端役ではあるが、ドラマや映画への出演経験もある。
男子達には大した効力を持たない作戦だし、同じ男として女々しい奴とは思われたくはなかったので今までこの作戦を発動した事はないが、小判鮫先輩達の様子から、思いの外効果が高いようだと心の中でほくそ笑んだ。
そして充は、主に背後の小判鮫先輩達に向けて、落としの一言を放った。
「知玲先輩の為ならば、ボクはどんな汚れ役でも引き受けてみせます! 知玲先輩はボクの永遠の憧れで……最愛の人だから……!」
再び涙を落として語る充。その前で、背後の女生徒達の瞳に微かな炎が灯ったのを確認し、またもや心の中でほくそ笑む。
(──どう? 麗しの知玲先輩と従順な忠犬のボク。完璧なる薔薇色の世界でしょう?)
年の離れた、今年中学二年生になる彼の姉、栗花落 雫。
彼女もまた母の血を受け継いだ美貌を誇るが、どちらかというと姉には父の血が色濃く受け継がれたようで、創作活動に夢中になっていた。
そして彼女の取り扱う作品は、男子と男子の耽美なる薔薇色の世界──そう、世に言う腐った乙女だったのである。
彼女曰く、充の容姿を持ってすれば興味のない女子をも腐らせる事が出来ると言い張り、事実、その気のなかった姉の友達や、今では母親までが自分をネタに妄想を繰り広げているザマだ。
彼自身にはそのつもりは全くないので良い迷惑ではあるのだけれど、気の弱い彼が妄想を滾らせた女子相手に止めてくれとなどと言えるはずもなく、日々そんな妄想を聞かせられているのだ。
そして今、縦ロール先輩の背後の女生徒達の瞳には確かに、姉と同じ腐った色の炎が灯ったのである。
「み、美子ちゃん……! 知玲様の目を覚まさせて差し上げるのも、ファンたる私達の努めなのではない?」
「そうよ! 知玲様が真実の愛を得るには、きっとみっきゅんの力が必要だわ!」
「私達の眼福の……いえ、知玲様の為よ、美子ちゃん! 是非彼にはファンクラブに入って頂きましょう!」
今や背後の女生徒だけではない。彼らのやり取りを目の当たりにした女生徒達が縦ロール先輩を取り囲んでそうだそうだと囃し立てている。
当の縦ロール先輩は充の作戦を見切っているのか、未だに疑り深い視線を充に向けていたのだけれど、こうも圧倒的多数の支持があっては彼女も否とは言えない状況であった。
「……わかったわ。栗花落 充さん、貴方の入会を認めるわ……!」
口惜しそうな表情でそう宣言した縦ロール先輩に、充はワッと喜色を満面に浮かべて抱き付いた。
そして、キャーーという歓声の中で、彼女にだけ聞こえる声で言った。
「ありがとうございます、詠河先輩……! でも、ボクの本当の憧れはね……」
アナタなんだよ、と囁いてやれば、顔を真っ赤にして縦ロール先輩がバッと身体を離して充を見やる。
困惑と羞恥と疑いと少しの喜びを含んだその表情は、少しだけ充の罪悪感を刺激しながらも、可愛いな、と思うものであった。
もちろん、そんな事で作戦を変更する気など更々ない充である。
「皆さま、これから宜しくお願いします!」
ペコリと頭を下げた充の周囲では、温かい拍手が鳴り響いていた。
──女子の最大派閥であった『知玲様ファンクラブ』が解散した、というニュースが学園内を席巻したのは、それから僅か三ヶ月後の事であった。
◇今日の雫さん◇
「……フフ、ワンコ攻めも良いわよねぇ……」
「ってお前誰だよ!?」




