◆22.己の敵は己のみ……!
パーン、というピストル音が鳴り響き、元気な少年たちが一斉にスタートラインから飛び出して行く。
勝負が決まるまでは十秒弱、辺りは得も言われぬ緊張感に包まれていた。
だが、妃沙の見た通り、第一レーンと第二レーンの少年たちが実力的には突出しているようで、予想通りの結末を迎えた事を確認すると、妃沙は天使のような可愛らしい微笑みを浮かべ、相変わらず浮かない表情で準備運動をしている金茶色の髪の少年に話し掛けた。
「レース、頑張りましょうね。えーと……ごめんなさい、お名前を教えて頂けますか? わたくし、あまり記憶力が良くなくて……。
折角同じレースで走るのですもの、良いレースにする為にも貴方様のお名前を知りたい思うのですが……ダメですか?」
眉を顰め、その瞳に星でも宿しているのではないかという程のキラキラした上目使いで少年を見つめる妃沙。その手はお約束のように、ギュッと祈りにも似た形で組まれている。
クラスのみならず既に学園のアイドルとなりつつある絶世の美少女からそんな表情で見つめられ、言葉に詰まらない小学生男子など知玲くらいのものだろう。
ましてや彼はとても気が弱くて、男子にさえ自分の気持ちを伝える事が下手くそであるのに、女子……特に妃沙のような目立つ人物から突然話しかけられ、動揺しない筈がなかった。
「……え、と……、ボク? なんで水無瀬さんがボクなんかに……」
「お名前! お名前を教えて下さいまし、俊足のランナー様! 貴方が誰よりも速く走るだろうことは、この水無瀬 妃沙にはお見通しですわっ!
嗚呼、貴方様のような方と共に走る機会を得られるなんて、わたくしはなんて幸せな人間でしょう!!」
その瞳に涙すら浮かべ、ギュッと少年の手を握る妃沙。
もちろんそれは演技などではない。その筋肉の付き具合から、自分や葵をも凌駕するだろう実力を秘めた彼と走る事に、とても感動しているのである。
気の弱そうなこの少年が、なんだか大事になってしまったこんな場で実力を出し切る事は難しいだろう。
だから、自分が少しでもその実力を引き出す助けになればと、妃沙は相手を褒めにかかることにしたのである。褒められて嬉しいのは、大人も子どもも男女の区別すらなく嬉しいに違いがないのだ。
だがしかし、彼女が少年の手を握った時点で、スタート地点にいる知玲からは黒い感情が噴き出しており、周囲を怯えきらせている。
特に、なんで自分がこんな場所にいるんだろうと後悔しつつある雛子は、その圧倒的な怒気に当てられてもはや泣きそうだ。
なので、その場は葵がフォローに入った。
彼女もまた、同じレースに出る選手たちには全力を出し切ってもらい、悔いのない時間を過ごして欲しい、自分も過ごしたいと思っているのは妃沙と同じ想いだったのである。
「……雛子。気にすることはない。知玲先輩のアレはお前に向けられたものじゃないし、これからもアンタに向く事は決してないから安心して?
アタシを望んでくれたね、雛子。なら……実力でアタシを勝ち取ったら良い。アンタの実力が解れば、今回は無理でも、こんな機会はきっとまたあるよ」
耳元で甘く囁く葵。
その様は小学生の女子とはとても言えないような、一流のホストもかくやと言った色気すら纏っており、雛子はおろか側でその様子を見ていた大輔すら赤面させる程であった。
その一方で、妃沙の説得という名の誑しこみ作戦はクライマックスを迎えていた。
「……栗花落 充……です」
「充様……! 素敵なお名前ですわね! ご存知でいらっしゃるようですが、わたくしは水無瀬 妃沙と申します。充様……是非貴方とこの学年のトップを目指したいのです。
葵と貴方がご一緒下さるなら確実に学年トップを狙えますわ! わたくし、やるからには誰にも負けたくないんですの。ですから……お手伝い、しては頂けませんか?」
葵が雛子を、妃沙が充を、全力でタラしにかかった。
もともと、葵と妃沙に対して憧れめいた感情を抱いていた二人だ、こんなに間近で甘い言葉を囁かれて、抵抗出来よう筈もない。
高鳴る心臓はそのままに、戸惑い切っていた二人の瞳に『闘志』という光が宿る。
「「わかったよ。全力で走ろう!!」」
期せずして同じ言葉を、同じタイミングで、葵と妃沙の瞳をきちんと見返して言い切った二人の戦士に、葵と妃沙は満足気な微笑みを返して「ありがとう」と礼を言った。
そうしてお互いに視線を交わし、ニヤリと微笑んだのである。
……お主も悪よのぅ、と、お互いに言いたげな悪戯めいた視線であった。
───◇──◆──◆──◇───
「第一レース、一レーン・相良 隆平君9.2秒、二レーン・三刀屋 朋規君9.5秒、第三レーン……」
一つのレースが終り、担任の浅野 匠から結果が伝えられる。
小学校一年生男子の平均を一秒以上も上回っている時点で彼らの実力は相当なものだと言えるのだけれど……妃沙も葵も、一般的な常識、というものが通用しないバケモノであった。
「その程度か。楽勝だな、妃沙」
「そうですわね。わたくし達の最大の敵は己であるかもしれませんわ」
サラリ、と葵がその紅い髪を掻き上げながら、キュッ、と、妃沙がその長い金髪をポニーテールに結い上げながら闘志の籠った瞳でそんな話をしている。
その内容は、言われた人間からしてみれば決して面白い内容ではなかったけれど、事実であるのだから仕方がない。
自分のベストタイムなら彼らに負ける事は決してなく、ならば同じレースを走る対戦相手の力を引き出し、楽しいレースにしようとニヤリと微笑み合う二人に、呆れたような表情でこのレースのもう一人の参加者、大輔が声を掛けた。
「……お前らさぁ……。あんまりそういう事大っぴらに言わない方が良いと思うぜ。妃沙ちゃんはともかく、葵、お前は黙ってたって男子の敵を造るのがピカイチで上手いんだから……」
葵のホストめいた色気から復活した大輔が、ハァ、と溜め息を吐きながら二人の側に寄って来る。
その表情は本気で二人を──主に葵を心配したものであったのだけれど、葵と妃沙にとっては余計なお世話、とでも言うべきものだ。
「大輔様、わたくし達の心配をしている余裕などあるんですの? 申し上げておきますけれど、あの女子生徒ですら、貴方より速いかもしれなくてよ?」
「……いや『かもしれない』じゃなくて、確実にお前より速いぜ、大輔。このままだとお前ビリだな。ドベ! アッハッハ、格好わるっ!」
策士二人は、大輔を煽る事も忘れない。単純な大輔がこんな言葉に発奮して実力以上の力を発揮してくれるだろうことは、プッチンプリンに穴を開ければ皿に落ちる事より当たり前の事実であった。
「言うじゃねぇか! 誰がドベだって!? お前らこそ、ビリにならないように気をつけな!」
大輔の瞳にギラギラとした闘志の光が宿るのを確認した妃沙と葵は、満足気に視線を合わせて頷いた。
……役者は揃った。後は自分が実力を出し切るだけだ。
「それでは、第二レースの選手のみんな、コースに入って」
知玲の落ち着いた声が告げる。だがしかし、今の妃沙にとってそれは、聞きなれた知玲の声ではなく、勝負を告げる審判のそれ以外の何物でもない。
それぞれに決意を込めた選手たちが、思い思いのコースに立ち……ここでもやはり、クラウチングスタートの姿勢を取った。
短距離、それも50メートルという短い距離を走るのであれば、スタート直後の爆発力はどうしても無視出来ないものである。
真剣勝負の場に立った今、妃沙は自分の心臓がドクン、ドクンと高鳴っているのを実感する。
相手のある勝負だ、打ち負かす事も、それは確かに大切な事ではあるのだけれど。
(──大丈夫だ、『龍之介』。今は前世みたいな強面じゃねェ、真剣に走ったからって記録員が逃げ出す事はねェんだ。ここまで周りを煽ったんだ、自己ベストくらい更新出来なきゃ格好悪いぜ!)
フゥ、と深く息を吐き、最大限に集中力を高めた妃沙の耳から、周囲の音が消えて行く。
聞こえるのは只、自分の心臓の音だけ。
己の敵は己のみ、いざ、行かん!!
そう、自分に言い聞かせた妃沙の耳に、知玲の耳触りの良い声が聞こえて来た。
限界を超えて集中力を高め切った耳には、その声とピストルの鳴る音しかもはや聞こえていない。
妃沙の意識していない周囲は相変わらず歓声に包まれていたのだけれど、彼女にとって真剣勝負のこの場は、荘厳で静謐な神事めいた雰囲気すら伴う最高の舞台であった。
……ああ、こんな勝負が出来るなら、女などという今までとは逆の性別に生まれ変わった事も、面倒くせぇこの『特別変換』とやらも受け入れてやらぁと、妃沙はニヤリと微笑んだ。
「位置について……ヨーイ!」
パァァーーン!!
高らかに、ピストルの音が鳴り響き。
歴戦の戦士めいた光を宿す瞳を以て、五人のスプリンターが一斉にスタートを切ったのである。
───◇──◆──◆──◇───
「第二レースの結果を発表しまーす。第一レーン・小鳥遊 雛子さん9.1秒!
第二レーン・遥 葵さん8.0秒!
第三レーン・水無瀬 妃沙さん8.3秒!
第四レーン・颯野 大輔君8.8秒!
第五レーン・栗花落 充君……7.8秒!!」
貴方達、本当に人間ですか、とでも言いたげな表情で、そのレースの結果を告げる担任教師・浅野 匠。
当たり前である。ここに来るにあたり、頭に叩き込んで来た小学校一年生の平均タイムなどはるかに凌駕するタイムを目の前の生徒達が叩き出したのだから。
この鳳上学園は優秀な生徒が多い、という事は聞いていた。
だがどうだ、第一レースの彼らは小学一年生の平均を大きく上回り、第二レースときたら、最下位の少女ですら小学校六年生の平均を上回っている。
それは、平凡な小学校の教員人生を歩んで来た彼にとっては驚愕の事実ではあったが、今、息を切らせてタイムを聞いた彼らにとっては不本意なものですらあるようだ。
自分はこの先、この子達の指導をして行けるのだろうかと不安すら抱いてしまう程だ。
「負けましたわぁー葵! 充様には敵うことはないだろうと思っていましたけれど、すばしっこさですら貴女に敵わないなんて屈辱ですわ……!」
小学五年生男子の平均すら凌駕して何を言う、と、担任の浅野 匠と同様にあらゆる数値を熟知している知玲が胡乱気な瞳を妃沙に向けている。
ちなみに、妃沙にも内緒で計測した知玲の50メートル走のベストタイムは7.6。既に高校生レベルなのだけれど、この時に叩き出された充の数字には驚かざるを得なかった。
彼は、妃沙のピンクトラップを食らい本気を出してしまったのである。今後、妃沙に執着しない訳がないから注意しようと、心のメモに彼の名を書き込んだ。
ちなみに彼の『心のメモ』に記載されているのは、今のところ孤高の仕事人のGや時代劇スター、漫画の主人公といった残念な登場人物ばかりである。
何しろ妃沙は、前世でも今世でも実在する人物よりも漫画や映画、時代劇の登場人物に憧れ、目指してしまうという面倒臭い性癖があった。
漫画やドラマは現実とは違うよ、といくら言っても、目指せば到達できる筈、と言って聞かない阿呆……もとい、純粋な少女であった。
「鍛え続けたアタシをナメんな、妃沙! それにしても……お前はえーなぁ、ミツル!」
満足気な表情でレースの第一位・充を見やる妃沙と葵。
自分達を凌駕する実力を持ち、その才能をこうして公の場で発揮した天才と対面した事に彼女らは至極満足していた。
ところが、当の本人は、自分の親分筋……曰く、第一レースの一位と二位の隆平と朋規のタイムを、妃沙に乗せられて軽く凌駕してしまった事に今や恐怖すら感じているようだ。
「別にボクは……すばしっこいのはレースの為に蓄積したものじゃないし……」
そう言い淀む充。彼は親分である第一レースの勝者・隆平とその腰巾着の朋規の要求を全うする為だけに走って来たと言っても過言ではなかったのだ。
隆平の要求を果たせなければ殴られる。隆平の言い付けだよ、と言われた朋規の要求を満たせなければ二人から折檻される。
当たり前の事ながら、充は痛い思いをするのはイヤだった。だから素早くその要求を満たす為にすばしっこくなったのだ。
彼らの為に磨かれた走力とはいえ、それが二人を追い越してしまったら「目立つな」と折檻されるのは日の目を見るより明らかだ。
今まで見た事もない……そしてこれからもお目にかかる事のないだろう美少女の全力の説得にノってしまった自分を、充はこの時になって心から後悔する。
何しろ二人、特に隆平は入学当初から妃沙のことを『可愛い』と気に入っており、今回の対戦で結果を残して絶対に妃沙と同じチームになると張り切っていたのだ。
その張り切った結果が自分に遠く及ばないとなれば、かのガキ大将が面白く思うはずもない。充は、これから自分を襲うだろう惨事に背筋が凍る思いであった。
「貴方は素晴らしいですわ。その脚があれば、きっとどんなスポーツを選んだとしても活躍して他を圧する事が出来る帝王の脚……。
このレースがそのきっかけになるかもしれません。自信を持って下さいまし、充様。貴方の才能はスポーツ嗜む者の憧れですわ!」
温かく自分の手を包む、絶世の美少女の手。
彼女といつもつるんでいる活発な、これまた美少女も、金髪の彼女の婚約者だという学園のアイドルと言われている美形な先輩も、優しく自分を見つめている。
その容姿というよりは、何にでも一生懸命でキラキラしている彼女達に憧れている充。
そんな彼らに認めて貰い、彼は今、今まで生きて来た中で一番感動していた。そしてそれは後に襲うだろう暴力のことなんか気にならない程に甘美なものだったのである。
「……ボクのこの脚は……少しは自信を持って良いのかな? 痛い事から逃げ出す事で鍛えられたものだとしても……」
小さな声で呟く彼の言葉は、その時一番側にいた妃沙にしか拾う事が出来ない程の音量であったけれど、妃沙はこの時、一人の優秀な短距離選の誕生を、ただ喜ぶ事しか出来なかったので近くに知玲がいる事は承知しながらも、言った。
後で知玲の面倒臭い説教を長々と受ける事になる事は解っていても、彼の才能は今ここで解放しなければ、全世界に申し訳ないと思ったのである。
「貴方のその脚は世界を目指せるものですわ。速さが通用しないスポーツはないのです。触れられないスピードにはどんなパワーもテクニックも通用しないのですから……!」
その言葉は、言われた本人である充のみならず、側で聞いていた知玲、葵、大輔といった既に充分に実力があり、鍛錬を欠かさない人物にとっても至言となった。
だが、妃沙にとってそれは漫画の受け売りで、一位を取ったにも関わらず浮かない表情をしていた充を励ますべく言っただけである。
「水無瀬さん、この遠足で学年一位を取れたら、ボクを舎弟にしてくれますか!?」
決意に満ちた瞳で充が妃沙に問う。
そこにはもう、使い走りをさせられていただけの気弱な少年の姿はなかった。
「何をおっしゃいますの!? わたくしが師匠とお呼びすべきですわ! 充様、必ず学年一位を勝ち取りましょうね!!」
妃沙の楽しそうな声が周囲に響き渡る。
(──またしても面倒臭い取り巻きを増やしてくれちゃってェェーー!! 僕の苦労を知れェェーー!!)
知玲のそんな絶叫が……何故だか葵には理解出来た。
「知玲先輩、アレは大丈夫っす。恋愛ってよりは舎弟の方向に気持ちを持って行くように……アタシが誘導します」
「……頼んだよ、葵くん」
もはや知玲と葵という二人の関係は、売れない探偵事務所の所長とたった一人の事務員という、切っても切れないソレであった。
もちろんそこに恋愛感情などある筈もないのだが……解り合う美形の先輩と幼馴染、という構図に、相も変わらず大輔ただ一人がモヤモヤとした感情を抱いていたのである。
◆今日の龍之介さん◆
「てめぇが誰よりも速く走るだろうなんて俺様にはお見通しだぜぇ!」(ドヤァ!)




