◆21.勝負開始だぜっ!!
そうして、いよいよ勝負の時刻がやって来た。
基本的に妃沙の私服はピラピラしたスカートである。全力を出すには向かない服装のなので体育用のジャージをスカートの下に着込んだ。
別に、妃沙はスカートが捲れようが気にしないのだが、知玲も来るとあってはこのような対策をしないときっと後で面倒臭いことになるだろう。
とにかく知玲は妃沙が目立つ事を嫌がるし、そのくせ自分の側からは決して離そうとはしない。
自分のせいで妃沙が目立ってしまっているという事実には、どうやら彼も思い至っていないようである。
そして、妃沙の私服は、彼女の母親やクリーニング店として出入りしている守矢 朱音、そして知玲の趣味が色濃く出ており、やや少女趣味な服装になる事が多かった。
妃沙としては「着られれば何でも良い」という考えなので服装にこだわりはない。その為、放っておくと何故その発想になるんだ、という組み合わせが出来上がったりする。
自分で服を買うことはまずないので、母親あたりが買い揃えた物の中から組み合わせても柄シャツに大判プリントのパンツなんかまだ可愛い方で、下手をすると一番お気に入りだというジャージで登校しようとすらするのだ。
外見なんかただの入れ物、という考え自体は悪いものではないのだが、少しは現在の美少女っぷりを意識して欲しいものだと、知玲は密かに思っている。
だが、前世からお世辞にもお洒落とは言えないセンスの持ち主であった事は知玲が一番知っていたので、服装にまで口を出すことになっているのである。
「んじゃ行こっかぁー! フフ、楽しみだね、妃沙!」
「本当ですわ、葵! 全力の走力なんて試してみた事がありませんもの。己の力を知る意味でも、良い機会ですわね!」
支度を終え、ニコニコと楽しそうな妃沙と葵、その少し後ろには、何だか場違いな勝負に挑んでしまっているのではないかと、若干の後悔を抱えた浮かない表情の雛子、そしてその後ろからは、立候補した男子生徒達が思い思いの言葉や表情でゾロゾロと続く。
その男子生徒の中で、唯一浮かない表情を浮かべていた天然パーマなのか、金茶色のクリクリとした髪に桃色の大きな瞳が印象的な男子が、ハァと溜め息をついてトボトボと最後尾を歩いていた。
黙っていれば天使と見紛うほどに愛らしい少年なのだが、いかんせんその表情は鎮痛な面持ちなのである。
そんな彼の様子を見咎めたのか、一年生にしては身体の大きなヤンチャそうな少年と、その少年の斜め後ろにピタリと付いた『いかにも腰巾着』といった様子の少年がサッと彼の両側に付き、ウリウリと肘で突いている。
「ミツルぅー、お前、脚だけは速いんだから、ちゃんとチームに入ってくれないと困るぜ? でなきゃ、誰が俺の荷物を持ってくれるんだよ?」
「そうだよ、ミツル! リュウに荷物を持たせるなんて、力の無駄遣いだろ? そういうのはお前の仕事なんだからさ、ちゃんと合格して俺達と一緒のチームに入ってくれないと困るぜ」
どうやら彼らの関係は、ガキ大将とその腰巾着、そしてパシリといった所であるようだ。
もしその様子を妃沙がこの場で見ていたのなら咎めたかもしれない。彼らの実力の程は知らないが、威張り散らす男も嫌いなら、黙ってそれに従う男子というのも大嫌いな性分なのだ。
だが今、妃沙は葵と楽しそうに歓談中で、これからの勝負の事で頭がいっぱいな様子である。
「……うん、解ったよ。頑張って全力で走る。けど、チームに入れなかったからって後で殴ったり蹴ったりするのはやめてよね?」
ミツル、と呼ばれた少年がモジモジと小さな声で言った。
「手を抜いて俺達から離れようとしたって無駄だからな。手加減なんかしたら……その時は解ってるんだろうな?」
「そうだぞ、ミツル! リュウも僕も選抜チーム入りは確実なんだ。お世話係のお前がいなかったら僕達が不自由するじゃないか。幸いにして脚の速さだけは僕らと同等なんだから、死ぬ気で走れよ!」
小馬鹿にしたような視線をミツルに向け、「正直、女なんか敵じゃねーよなー!」「リュウならチアキ様とやらだって敵じゃないんじゃない?」などと楽しそうに話しながらグラウンドに向かう少年達。
その後ろで、何処か泣きそうな表情でトボトボと歩くミツル少年は、ギロチン台に向かうマリー・アントワネットもかくやといった悲壮な表情を浮かべているのだった。
───◇──◆──◆──◇───
「よーし、んじゃまずは有志五名の男子のレースからな! 言い出しっぺだから、アタシらはメインレースを張らせてもらうぜ!」
楽しそうな葵の声が放課後のグラウンドに響く。
そこには既に、何がどう広まったかは解らないが大勢の生徒がグラウンドの脇に控えており、彼女らの真剣勝負を見届けようと殺到していた。
そしてその輪の中心には、神妙な面持ちの知玲が腕を組んでグラウンド──主には妃沙を睨みつけるように見つめている。
(──怖っ! 知玲のヤツ、何がそんなに気に入らないのか知らないけど、そんなに不機嫌な顔をしてたら折角のモテ男君が台無しだぜ?)
余計なお世話である。知玲はモテたいなどと思った事は一度もないのだ。そして、周囲の女子達が何故だか騒いでいる理由も、深く考えずにいるのである。
彼もまた妃沙と同様に自分に向けられた感情には非常に鈍感であると言えた。
けれど、妃沙と唯一違う所があるとすれば、彼の中には妃沙への想いが確固として存在しており、妃沙以外の存在に目を向けている余裕などない、という所だろうか。
全力でぶつかっても妃沙には一ミリも響かないのだ、知玲に余裕がないのも無理のないことである。
知玲の熱い視線を一身に受けて、妃沙がブルリと身体を震わせる。
そんな様子を隣で見ていた葵が、心配そうに妃沙に声を掛けた。
「何だ、妃沙? 寒いの?」
「武者震いですわ。今は外野の事よりも、勝負に集中しなければなりませんわね!」
外野、と聞いて葵がギャラリーのいる方に目を向けると、その中心には鬼のような形相で妃沙だけを見つめ続ける知玲の姿があった。
「……あー、ありゃ確かにこえーな。けどまぁ気にすんなよ。今アタシ達が気にする事は、この勝負に全力を尽くす事だけ、だろ?」
ニヤリと男前な微笑みを向ける葵に対し、妃沙もニコリと天使のような微笑みを返す。
「そうですわね、葵。知玲様のアレは通常営業ですし、今更気にする事はありませんわ。それより、全力を出し尽くしましょうね!」
おうよ、と差し出された妃沙の手を満開の笑顔で葵が握る。
「……お前達さ、ライバルなのか友達なのか、今イチわかんねぇよなぁ……」
そんな様子を呆れたような瞳で眺めていた大輔だけれど、途端に美少女二人からギロリと睨まれては一溜まりもない。
冗談、冗談、と言いながら握り合った彼女達の手の上に自分の手を乗せた。
「俺だって全力を出すと誓うぜ!」
ところが、その大輔の行動を見、知玲の全身からブワッと怒気が溢れ出す。
今、大輔のその手は妃沙の手に直接触れていたのだ。
その距離、推定十五メートル。そんな先の、小さな小学生の手の動きまで見て取れる知玲の超人っぷりには驚く他ない。
(──平常心、平常心……! あの男の子は大丈夫だ、今後も妃沙に色目を使う心配はないはずだ!)
突然深呼吸を繰り返している知玲の様子を、抽選によってその側に立つ事を勝ち取った少女達が心配そうに見つめている。
彼女達もまた、妃沙達とは違った意味でアツい闘いを繰り広げていたのであった。
ところが、そんな彼女達の心配をよそに、次の瞬間には再び知玲から溢れんばかりの怒気が放たれ、見開いたその瞳は飛び出さんばかりだ。
有志の小学生達が、次々と妃沙達の側に歩み寄り、宣誓のフリをしてここぞとばかりに妃沙に触れようと手を重ねて来たのである。
小柄な妃沙は、今や男子生徒の渦中に取り込まれてその姿が見えなくなってしまっていた。
「……キミ達。礼節、というものを学ばないと立派な大人にはなれないよ?」
その間、約五秒。
ギャラリーの中心に居た筈の知玲は今、男子生徒達を蹴散らして妃沙の隣に立ち、男子生徒や大輔のみならず葵の手すら妃沙のそれから蹴散らして、片手に妃沙を抱き込んでいる。
「知玲様! 今日はしゃしゃり出て来ないで下さいませんか!? 選抜チーム入りを賭けた真剣勝負ですのよ!?」
「レースには出ないよ。だけど、僕の観戦場所があんな離れた場所だって事には納得がいかないな。
……まったく君は、自分がどれだけ人を惹き付ける存在なのか全然解っていないよね」
そう言って、知玲が片腕に抱いた妃沙の頭にチュッとキスを落とした。
途端にギャラリーから上がる「キャーーーー!!!!」という歓声。
少しの驚きと多くの嫉妬が混じったその歓声に「うるせぇな」と顔を顰め、指を耳に突っ込んだ葵がハァ、と溜め息を漏らす。
「知玲先輩。そういうスキンシップは公衆の面前では止めてくんない? アタシ達は今、真剣勝負の直前なんだからさ」
そう言って、妃沙をサッと知玲の側から引き剥がした。
当の本人である妃沙は、こんな知玲の行動には慣れているとは言え、突然に、そして公衆の面前でそんな事をされたことに固まってしまっており、間近でそんな甘い雰囲気を見せつけられた大輔を含めた男子小学生達も愕然としている。
「葵さん、と言ったかな。こうでもしないと、妃沙が誰のものか知らずに余計な期待を抱いてしまう輩が生まれてしまうかもしれないだろう?」
少しだけでも妃沙の温もりを感じる事に成功した知玲は上機嫌だ。
そんな彼に対して、妃沙は怒気を露わにし「何してるんですの、知玲様ったら!」とポカポカと全く力の籠っていない拳で知玲の胸を叩いているけれど、そんな様子すら知玲の独占欲を満たさせてやるだけなので全くもって無駄である。
「大丈夫だよ。アンタが妃沙に執着してることは全校生徒が知ってっから。とにかく今は、妃沙に余計な事を考えさせないでやってくれよ、まったく……」
呆れたように溜息を吐き、アンタはそこに居て良いから、と、スタート地点脇を指し示す。知玲が納得した表情でその場に向かうのを見届け、真っ赤な顔で動揺を隠し切れていない妃沙の耳元で「勝負だよ、勝負! 妃沙、思い出せ!」と呪文のように唱えてやると、ハッと息を飲んで妃沙がその身を固くした。
どうやら葵は、付き合い一カ月にして妃沙の扱いをマスターしつつあるようだ。
相手が女子ならば知玲も嫉妬を爆発させる事はないと見え、そんな少女二人のやり取りを優しい瞳で見守っている。
(──まったく、女子にしか妃沙に触らせたくないなんてホント面倒臭いわ、この先輩!)
確かに、女の自分の目から見ても妃沙は可愛い思うし、その心根は真っ直ぐ過ぎて心配になる事は多々ある。
だがしかし、この先輩の執着ぶりは異常と言ってしまっても過言ではないよな、と思いながらも、この人が側にいてくれるなら妃沙はきっと大丈夫だな、と安心も出来るものでもあった。
そして、こんな風に他人に執着されまくるのはきっと、妃沙という人間がとても魅力的だからで、そんな子と友達になれて良かったと改めて思うのであった。
「知玲先輩。妃沙の事なら心配いらないよ。アタシが目を光らせている限り、誰にも手出しはさせない」
「頼もしいな、葵さん。これからも妃沙を頼むよ」
何故だか突然解り合い、ガシッと握手をした知玲と葵に、妃沙はキャー麗しい友情、と喜色満面な笑顔で拍手を送っており、対する大輔は、何だかモヤッとしたものを感じて、顔を顰めているのであった。
その反応が逆であったのなら、知玲とてこんなふうに嫉妬を剥き出しにする必要はないのだけれど……相手は天下の鈍チン、水無瀬 妃沙だ。
知玲にもドンマイ、としか掛ける言葉はないのが現実なのであった。
───◇──◆──◆──◇───
「第一レース始めるぞー! 参加者は適当に並んでくれ」
葵の良く通る声がかかると、未だに呆然としていた者もハッと本来の目的を思い出し、居住まいを正す。
そして、思い思いに準備運動を済ますと、スタート位置と定められた場所に並び立った。
「50メートル一発勝負な。第二レースにも候補はいるから、ここでの着順ってよりタイムの早いヤツから上位五名が選抜チーム入り、オーケー?
雛子と大輔は候補じゃないから候補は八人だな。あと、アタシと妃沙は同じチームになる約束をしてるから、どちらかが選抜落ちした場合はどちらもチームには加わらないよ」
ま、そんな事はないと思うけどね、とカラッと葵が笑う。自分の速さは勿論のこと、妃沙の事も信用し切っているようだ。
こんなに全面的に信頼されちゃ、落ちる訳にはいかねーな、と、妃沙は決意を新たにする。
「計測は担任の浅野先生がしてくれてるよ。正式な大会でも使うような計測器だってさ。すっげーよな、さすが鳳上学園! スタートの姿勢は自由。以上、何か質問は?」
葵の問い掛けに、妃沙を含めた参加者はフルフルと首を振り、それぞれ臨戦体制に移行して行く。
特に第一レースの参加者の男子達はキュッとその表情を引き締めてスタート位置でクラウチングスタートの体勢を取り、キッとゴールを見据えていた。
ただの遠足の班分けの為とは思えない緊張感が周囲を包む。
「……よし、んじゃスタートは特別ゲストの知玲先輩に頼もうか。学園のアイドルにスタートして貰えるなんて光栄だよな!」
ニヤリと笑った葵が、合図用のピストルを知玲に差し出すと、突然の事に少し驚いた表情を残しながらも、黙ってそれを受け取る。
そして葵は、キュッと表情を引き締めて妃沙の隣にやって来ると、コソっと耳打ちをして来た。
「……なかなか良いのが揃ってるじゃないか。どう思う? 妃沙」
「一番、二番の男子の圧勝でしょうね。筋肉の付き具合が違いますわ」
一番と二番のコースに立つのは、ミツルと呼ばれていた少年を小突いていたガキ大将とその腰巾着の少年だ。
確かに二人共、一年生にしては身体は大きかったし、褐色の肌は健康的で他の生徒とは一線を画している。
このレースはあの二人が圧勝するだろうという意見には葵も同意だったのでうん、と頷いた。まったく、この可憐な少女は身体を動かす事だけじゃなく観察眼も鋭いのかと少し驚きながら。
「……けれど、このクラスで一番早いのはわたくしたちと一緒のレースに入る事になった彼、でしょうね」
厳しい表情で、妃沙が次のレースの為に準備運動をしている金茶色のクリクリした髪の少年をチラリと見やる。
これから走る二人の少年と比べ、その肌はとても白かったし、気弱そうな表情はとても運動が出来るようには見えなかったので、アイツ? と妃沙に尋ねると、
妃沙は獲物を見つけた肉食獣のような獰猛な光をその瞳に浮かべ、自信たっぷりに言った。
「どのスポーツにも特化していない、けれど『走る』という一点に於いては……おそらく貴女をも凌ぐと思いますわよ、葵。あの脚……只者ではありませんわ。
けれど、あの気弱そうな表情は少々気になる所ですわね。折角素敵なレースが出来そうなのですもの、少し煽らせて頂くとしましょうか」
フフ、と意地悪く微笑んだ妃沙の顔を知玲が見ていなくて良かったなーと葵は思う。
その表情は一昔前のヤンキーのような凶悪さを醸し出しており、こんな表情を見てしまったら百年の恋も冷めてしまうのではかと心配になったのだ。
だがそれは妃沙にとっては素の表情であり、知玲もまたそんな事は誰よりも理解していて……惚れ直すことはあれど冷める事など、決してないと言えるものであった。
◆今日の龍之介さん◆
「フフ……少し煽ってやるとすっか」(ニヤリ)