◇18.戦士達の夕暮れ。
いつもより遅くなってしまいました……社畜はつらいよ(涙)
「……負けただなんて思っていませんからね、知玲様。わたくしは葵との真剣勝負の後で体力を消耗していましたし、野球は初めてだったのですから!」
ぷぅ、と、知玲の隣で妃沙が頬を膨らませて、帰宅の途にある車窓の外に視線を向けて悪態を付いている。
そんな様子をフフッと楽しげに見やりながら、知玲は満足気に微笑んで言った。
「性別差、二年のハンデ、そんなものがあったのに僕は真剣に相対する事しか出来なかったんだから充分でしょ、妃沙。君は凄いよ」
アハハ、と笑いながら、知玲はぶーたれる婚約者の肩を抱いた。
小学校のグラウンドには魔力を阻害する結界は施されていないから、魔力で時空を操作して彼女の放つボールをスローモーション化する事は、出来た。
けれど彼はそれをしなかった。彼女と真剣勝負をしたいというのは、それこそ前世からの願いであったから。
魔力はこの世界ではごく一部の人間しか持たない特殊技能だ。
初等部・中等部は魔力を持たない生徒が多く通う学園である為、魔力の規制はなされていない。初等部のうちから魔力を自在に扱う存在など稀で、長い学園の歴史の中でも一人か二人いた程度だ。
もっとも、妃沙がそれを知っていたからと言って、魔力を使ってあの真剣勝負に臨むことは決してなかっただろう。こと勝負ごとに関してはひたむきなまでにストイックで生真面目なのは、前世から全く変わっていないのだ。
だから、妃沙の放ったあの魔球は、紛れもなく妃沙の身体能力と想像力だけで放たれたもの……全く、末恐ろしいと考えざるを得ないと思いながらも、知玲は二年のハンデと男女差、そして今までの自分の努力は妃沙に対して未だ有効なのだと実感出来たので、至極上機嫌であった。
「……本当に君は変わってないね。どんな勝負にも全力で臨むし、負けたら口惜しがるし、きっと次こそは、なんて考えているんだろう?」
肩を抱く腕にギュッと力を込める。
何処か思いつめたその言葉と力加減に危険を感じたのか、妃沙のその細い身体にビクッと力が込もった。
「正直、男女の差がこれ程までとは想定外でしたわ。けれど、お陰で課題が見えましたし、女子の身体がどんなに不利だとしても、鍛えて強くなって……貴方を守る事が出来る存在になると言う誓いだけは決して翻しませんからね!」
口惜し涙すら浮かべながら、それでもそんな男前の台詞を言い放つ妃沙を、ああ、本当に可愛いなと知玲は思う。
『龍之介』であった前世は、こんなに直接的な言葉を言ってくれることはあまりなかった。無口ではなかったけれど、何処か冷めた瞳で世界を見ていた彼は、斜に構えた態度で皮肉や文句を口にする事が多かったように思う。
決してそれは龍之介の本心なのではなく、憎まれ口を叩くことで深入りさせまいとする彼の優しさなのだということは夕季も良く理解していた。
だが、この世界に転生し、彼女も少しだけ自分の気持ちを暴力や強い言葉以外で表現することが上手くなってきたようだ。
『龍之介』は、強い人だった。前世では自分は女で相手は男。力の強さも才能も、決して敵わなかった。
彼は身体能力にも恵まれていたし、真剣に何かに打ち込んでいれば、それこそ世界レベルの成績を残す事が出来たかもしれない。
……けれど『彼』はグレてしまって、表の世界からは身を引いた。
それはとても残念だし、勿体ないと思ってはいたのだけれど、何処か安心している自分もいて。
龍之介が実績を残してしまえば、その強面に怯えることなく、何事にもひたむきな姿勢やその奥に流れる優しさに気付き、憧れる人間が男女共に増えてしまうに違いがなかったから。
「……僕は、ずるいよねぇ。いつだって君の一番の理解者は自分でありたいだなんて……そんなの無理な事だって解ってるのに。
前世はさ、意外と簡単だったんだよ、君が悪ぶってくれていたお陰でね。
でも今生は、キミを束縛出来るとも思わないし、したいとも思わない。だからきっとキミは多くの人を魅了しちゃうんだろうね……今日みたいにさ」
珍しく、弱音めいたものと溜め息を吐き、ギュッと、妃沙の肩を抱く手に力を籠める。
自分が男に生まれて良かっただとか、妃沙が未だか弱い少女で良かっただとか、そんな狡い考えを抱いてしまう自分に嫌悪感を抱きながら。
「君が僕に挑み続ける限り側にいてくれると言うのなら、一生君に負ける事がないように僕だって自分を鍛え続ける。
……強くなりたいよ、妃沙。君を護る為じゃない、君の側に……一番側に、ただ居たいだなのに、それすら努力が必要なのかな……」
いよいよ弱音を吐き、自分を抱き締める知玲の腕を、妃沙はポン、ポン、と優しく叩いてやる。
そうそう、コイツはこういう所があるんだよな、と、何処か懐かしく思う。強くて真っ直ぐで……けれど自分の前でだけは弱音も吐くし落ち込むし、八つ当たりだってしてきたものだ。
だから、光の元で闘い続ける彼女を支え、その陰から生まれた闇を祓うのは自分の役目だと思っていた。
今世では自分も闇落ちすることなく、お天道様の下で真っ当に生きて行こうと思っている妃沙ではあるけれど、今世の知玲は少し悩み過ぎだな、と思う。まるで前世の自分のようだ。
このままでは以前の自分のように闇に落ちてしまう可能性だって、無くはない。
だから妃沙は言った。前世でも今世でも、彼女にはきっと光が似合うと思うから。
「知玲様、そんなに悩む事はないですわ。わたくしは貴方に勝つ為にここに居るのではないのですもの。
貴方の事は……思い上がりでなければきっと、貴方のご両親や美陽様より良く知っていますし、たぶんわたくしの事も……」
後に続く言葉は、何となく言葉にする事が出来ない。相手を一番良く知っているのは自分だという自負はあれど、俺の事を一番理解してくれているのはお前だ、なんて照れ臭くて言えたものではない。
たとえそれが真実であったとしても、龍之介的には相手の掌握を許すにはまだ覚悟が足りなかった……たとえそれがもう長い付き合いの幼馴染だとしても。
と、そんな妃沙の様子を見ていた知玲が、フフ、と幸せそうな微笑みをその秀麗な顔に浮かべて微笑んだ。
「……最高の好敵手だよね、妃沙。まだ小学生だしさ、焦るつもりはないよ。婚約者っていう立場も賜っている事だし?
僕はさ……前世は出来なかった両親への恩返しとか、唯一の人を見つけてその人と幸せな家庭を築く事とか……テーマに『愛』を置いてこの世界を生きようと思ってる。
でも、一番大切な事はね、君が……思うままに能力を発揮して、友達やライバルを見つけて……その輝く魂を発揮させてあげることにあると思ってるんだよ」
抱きしめた腕の中でコテン、と首を傾げる妃沙を見つめながら、好きだ、好きだと心が叫ぶ。
けれどまだ早い。妃沙が自分のことが一番好きだと……そう、恋愛の意味で自分をそう意識する一歩手前まで、我慢しようと誓っているのだ。
孤独でいなければならなかった前世。その彼女がこの世界で色々な経験を経て数々の人と出会い、それでも自分が一番好きだと言わせる事が出来るようにならなければと、改めて心に誓う。
焦って判断を誤らせる事は簡単だ。前世では『恋愛』というステージには自分は向いていないと信じ込み、特定の誰かにだけ心を砕く事はなかった──有り難いことに自分以外の存在には。
怖がられていると本人は思っていたし、それは事実であったのだけれど、その優しさに触れた人々が恐怖とは真逆の感情を彼に対して抱いていた事は知っている。
けれど、何の覚悟もなく近付くには龍之介の顔は凶悪過ぎたし、その評判は悪すぎた。だから黙って……それこそ木の陰から見つめる事しか出来なかった女子がいた事も知っているのだ。
そんな彼がこの世界に転生し、以前とは違った容姿を得て、ようやくその優しさを外に出す事が出来るようになった。
そして入学初日で親友となり得るような素敵な女児と出会い、そんな彼女に心を寄せていそうな男児と出会い、きっとこれから妃沙は周囲から学ぶだろう、『恋』というものを。
彼女がその対象になる事も多いだろうし、直接その好意を受ける取ることもあるだろう。
(──まぁ、僕がいる限り、表立って手を出そうとするヤツはいないだろうけどね。おおっぴらに婚約発表してやったし)
クク、と、抱き締めた妃沙に見えない所で人の悪い笑みを漏らす知玲。
家柄に恵まれた自分。そして、妃沙の側にいる為に能力も磨き続けている。そんな自分と真っ向勝負をする気概のある男子生徒がいるのなら、叩き潰してやるまでだ。
「……一番側に居る。それだけは譲れない。君は僕が守る。その友達も、更にその友達の大切な人も、ね」
決意を込めて妃沙を抱き締める知玲。
その腕の中で、妃沙はハァ、と溜め息を吐いた。
「……欲張り過ぎですわ、知玲様。ご自分の幸せを一番に考えて下さいまし」
「……君の幸せが僕の幸せだよ、妃沙。だから……護らせて?」
……そうですか、と、少しの呆れとたくさんの幸せの籠る溜め息を吐いてその抱擁を受け入れた妃沙。
全く変わらねェな、コイツはと、クスリと笑みさえ浮かぶ程だ。
悪い気はしない。思い込んだら絶対引かない、前世のままの知玲が以前と変わらずに自分の側にいてくれる。今はそれだけで充分だと、妃沙は優しい気持ちになったのだった。
……けれど。
「本日は東條家、水無瀬家、どちらにお車を着けましょう!?」
一度、妃沙の誘拐を許してしまった前科のある水無瀬家のお抱え運転手はそんな彼らのやり取りが理解出来ず、けれど入り込めない二人の甘ったるい雰囲気を前に声を掛けるタイミングをずっと逸しており。
もう二周ほど、屋敷の周りをグルグルと周り続けていたのである。
───◇──◆──◆──◇───
一方、夕焼けに染まる通学路を、葵と何処か浮かない表情の大輔が並んで歩いていた。
俯き、トボトボと力なく歩く大輔の背中を、葵がバシンッと良い音をさせて叩く。
「……痛ェな、葵! 何だよ、突然!?」
目を白黒させて自分を見つめる大輔を面白そうに見やりながら、アハハ、と葵が快活な笑いを周囲に響かせた。
「ガラにもなく落ち込んでんじゃねーよ、大輔! お前では力不足だなんて本当の事だろ? 言っとくけど、アタシだってあの場にいたら同じ事言われてたと思うぞ。
あんなプロ野球選手みたいな球を投げる妃沙にもビックリだけどさ、打ち返したあの先輩もすげーよな! いやぁ、興奮したなぁ……」
まるで白熱したプロ野球の試合を観戦した後の子どもの様に、大きなエメラルドの瞳をキラキラさせてそう語る葵。
だが大輔は、何故だかそんな彼女に同調する事が出来ず、ピタリ、とその歩みを止めてしまった。
「……そう言う事じゃねぇんだよ、そういう事じゃ……。俺では敵わない事くらい、解ってるよ。だから、そう言われたからって気にしてねぇ。
……でも、俺はさ。またズルしてお前に勝とうと……したんだよな。情けねぇ……」
ギュッと瞑った大輔の瞳に涙が浮かぶ。
どうやら彼は自分の力不足を実感したことよりも、簡単に捥ぎ取れそうな勝利に手を伸ばしてしまった事を後悔しているようだと解り、葵はフッと微笑んだ。
そんな真っ直ぐな彼の気持ちが、とても好ましいと思ったから。
「ズルじゃねぇじゃん? アタシがそうしろって言ったんだし……実際、あの勝負は無効になっただろうが。気にすんなよ、アタシは何とも……」
「違うんだよ! ちゃんと真っ向から闘ってお前を倒さなきゃ、お前は俺を認めてはくれねぇだろ!?」
涙の浮かんだ瞳で自分を射抜くように見つめる大輔に、葵は一瞬、言葉を失う。
この幼馴染の真っ直ぐな性格は良く理解していたけれど、何だか今回は酷く落ち込んでいるようだ。
その理由が自分との勝負をクリーンなものにしたいという気持ちは良く解る。
葵もまた、自分に挑んで来てくれる大輔の存在は有り難かったし、だからこそ勝負は常に全力で、真っ向勝負でと思っていた。
だから、大輔もまた自分と同じように思っていてくれた事が嬉しくて……けれど何故だか、素直にそう伝えるのは気恥ずかしくて、黙ってしまったのだ。
「自分の力で……ちゃんとお前に勝たなきゃ意味がねぇんだよ! ズルして勝ち取って約束を果たしても、俺は一生後悔するに決まってるだろ!」
『約束』。
それは、大輔が葵に十勝したら結婚する、というアレだろうか。
正直、葵にとってそれは深い意味を持っておらず、ただ大輔と真剣勝負が出来るのなら……そんな約束があの血沸き肉躍る興奮を齎してくれるならそれで良いとすら思っていたのだ。
だって結婚だなんて今の自分には想像もつかない遠い未来だ。
大輔が何故そんな約束を言って来たのかは良く解らなかったけれど、それが大輔を発奮させるなら構わないと、軽い気持ちで受けたものだったのである。
「……別にアタシはさ、約束なんかなくても、いつでもお前との勝負は受けるつもりだよ。お前との勝負は楽しいしさ。
言っておくけど、アタシと真っ当な勝負が出来る小学生なんて、今ではお前くらいだぞ? ……ああ、でも今日、妃沙とその婚約者様っつースゴいのが現れたけどな」
アハハと笑う葵の笑顔には、含む所はまるでない。
そんな彼女の前で、大輔は認めて貰えているという嬉しさと……それ以上の情けなさを感じていた。
こんなに真っ直ぐな彼女に対し、自分はまた、お膳立てされた有利な勝負に乗っかり、初心者の女の子を打ち負かそうとしたのだ。それは何て……ずるいことなんだろうと、ギュッと拳を握る。
「……約束は、変えない。もっと強くなって、絶対にお前を実力で打ち負かして……認めさせてやるからな、葵! 逃げるんじゃねーぞ!」
夕陽を受けた大輔の茶髪が、葵の髪と同じように赤く染まっている。
決意に満ちたその瞳を受けた葵は、ニヤリと意地悪く笑ってその挑戦を受け止めた。
「……やってみろよ。そう簡単にアタシに勝てる思うなよ? アタシだってお前に勝つ為に、日々努力してんだからな!」
今はまだ、自分より背も高ければ何をしても敵わない、その女ながらも男前な幼馴染の挑戦を受け止め、大輔は明日からトレーニングの量を倍にしようと決意する。
……絶対に、コイツに自分を認めさせてやる。
大輔にとっても、結婚などという約束は予想もつかない遥か先の未来の事だし、子ども心にその約束があればずっと葵の隣に居続ける事が出来るだろうと、軽い気持ちで言ってみただけだ。
けれど今、その約束が果たされれば自分はきっと幸せなんじゃないかと思う。
自分を認めさせる。そしてずっと、葵が自分の側にいる。それはきっと楽しい未来に違いない。
「……次こそ絶対に負けねぇぞ!」
「おーおー、勇ましい事で。あー腹減ったなぁー! 今日の晩御飯、何かなー。カレーが良いな! なんだか今日はそんな気分!」
「俺はトンカツの気分だ!」
「そーかよ。んじゃさぁ、お互いの家のメニューがそうだったら持ち寄ってカツカレーにしねぇ? 絶対美味いじゃん、カツカレー!」
「俺はコロッケカレーが好きだぞ!」
「トンカツは何処に行ったんだよ、バーカ!」
アハハと笑う葵。
その元気な笑い声に釣られて、大輔もそりゃそうだとカラカラ笑う。
葵の赤い髪がより一層赤く染まり、絆創膏だらけの顔で快活に笑う大輔の背を再びバシンと叩いた。
ゴフ、と息を吐く大輔の表情は、もう口惜しさや後悔には染まっておらず、二人の元気な小学生は夕飯のメニューに想いを馳せるという実に子どもらしい気持ちで家路に向かって行く。
太陽は優しい赤い色で二人を照らしその影を長く伸ばしており、じゃれ合う二人を優しく見守っているようだった。
◆今日の龍之介さん◆
「……負けただなんて思ってねェからな!?」