◆17.邪魔すんじゃねェッ!!
「か、空振りィィーー!! もはやあの豪速球に、誰が対峙出来ると言うのでしょうかっ!? まさに神業、魔境からの使者とでもいうべき美少女ーー!!
彼女の前に立つには一般人では難しいと言わざるを得ないィィーー!!」
放送している実況担当の生徒のボルテージも最高潮となりつつある。
しかし、今や妃沙の耳にはその声は届いていなかった。
これでツーストライク。自分の投げる球が大輔には通用するということ、自分のコントロールも信じて良いことが実証され、この身体なら、憧れた『野球』というスポーツをするにも害を及ぼさないのだと、妃沙はマウンドでそっと零れそうな涙を拭う。
別に野球でもサッカーでもバスケットボールでも良かった。まともに競技に参加する事が出来るのならば。
何しろ前世では持て余す程のエネルギーをスポーツで発散する事が出来ず、夜周りで見つけた半・犯罪者や放置されたゴミにぶつける事しか出来なかったのだ。
こんな勝負が出来るのならば『自動変換』の能力すら受け入れてやっても良いかもしれないと思った程である。
……ところが。
「キミには荷が重すぎるね。これ以上妃沙を目立たせるのもどうかと思うし……この勝負、僕が引き受けるよ。
勝って妃沙を回収するから、バッターを交代してくれるかい?」
大輔の背後から、落ち着いた声を放ち瞳に怒りを乗せた黒髪の涼やかな美貌を持つ少年がしゃしゃり出て来たのである。
「キャーーー!! ちあきさまァァーー!!」
途端に場内を黄色い歓声が包んだ。
……そう、その場に出て来たのは東條 知玲──妃沙が最も良く知る人物であり、今、彼は周囲を圧倒するかのようなオーラを纏ってその場に登場して来たのだ。
「知玲様、真剣勝負に水を差すなど、お天道様が許してもこのわたくしが許しませんわよ!?」
今や武士の志を宿した水無瀬 妃沙、六歳。彼女の瞳に獰猛な怒りの炎が灯る。
だが、突然の選手交代に納得出来ずにいるのは彼女だけではなく、既に放心状態の大輔よりずっと真剣にこの試合の行く末を見守っていた遥 葵、その人であった。
「はァァーー!? アンタが誰だか知らないけど、突然しゃしゃり出て来て真剣勝負に水差さないでくんない!? この勝負には大輔の魂が籠ってるんだから!」
ネット裏から飛び出し、勝手に選手交代を告げた知玲の肩を、葵が存外に強い力で揺さぶる。
その表情は真剣そのもので、怒りを色濃く映し出しており、普通の小学生はおろか成人を迎えた少し全うな道を外れた男達さえ怯んでしまいそうな迫力があった。
ましてや今、マウンドからは妃沙──絶世の美少女が葵と同等の怒りの色を乗せた表情で知玲に駆け寄って来ている。
彼女たちにとり、真剣勝負の場を他人に蹂躙される事ほど面白くない事はないのだ。
「……言ったよね、彼では力不足だ。そして僕は、これ以上妃沙を有名人にしたくない。一刻も早く妃沙を回収したいんだよ、僕は。
君達の勝負の結果なんか、僕には興味がない。だからここに立つのは彼の為じゃない」
だが知玲はそんな彼女に全く怯むことなくそう言って、冷めた表情で葵を一瞥すると、キッ妃沙を見据える。
彼もまた、散々「目立つな」と言い聞かせていた幼馴染にして婚約者が、入学初日にこんな騒動の中心に立っている事に少々苛立っていたのだ。
「いい加減にして、妃沙。前世まで出来なかった真剣勝負に興奮するのは解るよ。けど、それはこれから僕がいくらだって受けて立つ。
目立つな、活躍するな、大人しくしていろ! それでなくても目立つのに、これ以上目立つ行動は慎んでよ、お願いだから。目立てば目立つだけ危険が伴うのを君はもう知っているでしょう?
ただ我慢しろだなんて言わないよ。その鬱憤は僕にいくらでもぶつけてくれて良い。僕の前ではどんなに暴れても騒いでも構わない。君は僕の婚約者なんだから」
知玲のその発言に反応したのは、観衆と放送委員だ。
ちなみにグラウンドでの彼らの言動は、いつの間にかセッティングされたマイクで音声を拾われ、その姿はバックネットにいつの間にか張られていたスクリーンに大写しにされている。
あっという間にその設営を行ったのは、優秀すぎるこの学園の放送委員の生徒と、極一部のお祭り騒ぎが好きな有志であった。
「な、なんと……!? 学園のアイドル・東條 知玲様の突然の登場、そして婚約宣言ーー!!??
……あ、今、金髪の美少女の情報が入って来ました。彼女の正体は水無瀬 妃沙──おお、なんと水無瀬家の一人娘で、今日入学を果たしたばかりの一年生ということです!」
優秀過ぎる情報収集能力を持つ新聞部と、それを拡散する影響力を持つ放送委員の実力はもはや初等部の生徒の域を超えており、妃沙にも知玲にも成す術がないまま、あっさりと正体を知られてしまうことになってしまった。
それは知玲が最も危惧していた事態なのだけれど、今更どうなるものでもなかったし、知玲もまた、一刻も早く妃沙を回収しなくては、と少々普段の落ち着きをなくしていたのである。
「こ・ん・や・く・しゃァァーー!!??」
元々多かった知玲のファンと、妃沙にハートを打ち抜かれた男子生徒の絶叫がグラウンドに響き渡る。
だが、葵を含め、当の本人達にはそんなものは何処吹く風の様相であった。彼女達にとり、対戦相手の境遇よりも大事なのは──闘うこと、であったのだから。
「知玲様、貴方……こんな所にまでしゃしゃり出て来て、何処までわたくしの邪魔をすれば気が済むんですの? わたくしには勝負する自由すら与えないおつもり?」
「フフ、妃沙、それは敗北宣言? 残りはワンストライクだよ? 得意のその魔球で僕を討ち取れば良いじゃない……まぁ、君が僕の婚約者である事実は変わらないけどね?」
クスッと、何処か悪者めいた微笑みを浮かべる知玲。
そんな様子を見て、妃沙はフゥ、と諦めたように溜息を吐いた。彼は昔から一度言い出したら絶対に引かないし、特にこの世界に転生してからというもの、自分に対する過剰なまでの心配と執着は充分に感じている。
折角出来た初めての友達との真剣勝負に水を差されたことは本当に残念に思う。
けれど、こうなった知玲は、きっと誰にも止める事など出来ないだろう。
前世での時間を含めれば、もう四半世紀近い付き合いだ、彼の扱い方を一番良く知っているのは自分だと、妃沙は諦め、それならば知玲との真剣勝負を楽しんでやろうと気持ちを切り替えた。
「……ハァ。仕方がありませんわ。昔から全く変わっていませんわね、知玲様。どうしてこう、わたくしに対することにだけ意固地になってしまわれるのか……。
葵、大輔様、本当に申し訳ございません。こうなった知玲様は絶対に引きませんの。それこそテコでも動きませんわ。
この埋め合わせは必ず致しますから……この場は知玲様に譲って下さいませんか?」
ペコリ、と妃沙が頭を下げる。昔から、幼馴染のフォローは自分の仕事なのだ。
……と、言っても、蘇芳 夕季という人はとても外面が良くて、自分が表立ってフォローに回る必要など殆どなかった。
龍之介がしていた事と言えば、未だ夜も明け切らない暗いうちからバスで登校する彼女に付き合いその安全を護ることや、自分の分のついでに弁当を用意すること、昼は必ず二人で食べるという約束を守ること。
そして時々、部活や人間関係で何かあった時に愚痴を言う夕季の、半ば支離滅裂な言葉を黙って聞いてやり、「お前は間違ってねーよ」と言ってやることくらいだ。
そんな時に見せる夕季の、安心し切ったかのようなフニャリと笑う様に、自分も一時の平穏を貰い、人知れず優しい気持ちになっていたものだ。
けれど夕季は昔から、自分が怪我をして帰って来れば目に涙を浮かべ、相手が解ると飛び出して行こうとする無鉄砲な所もあった。
だから龍之介は、自分も怪我をしないようにと、強く、強くならねばと思っていた。そうでなければ、やたらと心配性な幼馴染が怪我をしてしまいそうだったから。
「一球で方をつけよう、妃沙。これ以上君を衆目に晒すのは得策とは思えない」
「知玲様、まずは突然の乱入をお詫びするべきではなくて? 未だお二人の了承を得られておりませんのよ?」
至極真っ当な妃沙の言葉に、知玲はああ、と思い出したように自分と妃沙のやり取りに付いて行けていない本来の対戦者──葵と大輔の方に向き直る。
妃沙が勝負を受けた事で、彼も少し落ち着きを取り戻したようであった。
そして、妃沙以外には常に見せている人好きのする笑顔を浮かべ、二人に言った。
「本当に申し訳ない。事情があって、妃沙をこれ以上目立たせる訳にはいかないんだ。
僕の名前は東條 知玲、この学園の三年生で、聞いていたと思うけど妃沙の幼馴染で婚約者だ。
真剣勝負をしたいという君達の気持ちは僕も良く解る。そして、横槍を入れる事がどれだけ失礼なことかも承知しているつもりだ。
いずれ、この勝負の埋め合わせの場は必ず造ると約束する。けどこの場は僕に譲ってくれないか。入学式初日だなんて……目立ち過ぎるからね」
「お願いしますわ、葵、大輔様」
人形の様に整った造詣の二人が合わせて深々と頭を下げた。
妃沙と知玲、前世では剣道と喧嘩道という異なった道ではあったけれど、勝負事において礼節を重んじる思考回路はとても似ていたのだ。
だから、一度始めた勝負に途中で水を差す事は相手にとりとても失礼な事だと認識している。同じ事を自分がやられたらキレていただろう。
けれど、知玲は引く気はなかったし、その知玲の性分を妃沙も充分過ぎる程理解していたので、真摯にお願いをすることにしたのである。
「……解ったよ。アタシに異存はない。妃沙とは真剣勝負が出来て満足してるし、アンタ達の事情も……何となく察したよ。
けど、今の対戦相手である大輔の了承がなければ、アタシも認める訳にはいかない。それと……妃沙、アンタが今後もアタシと友達でいてくれるなら否やはないよ」
「もちろんですわ、葵。貴女が友達でいてくれるなら、わたくしの学園生活は楽しい物になるに決まっていますもの!」
「有り難う。僕としても、君のような素敵なレディが妃沙の側にいてくれると安心出来るな」
他の女性が聞けば悲鳴を上げてしまいそうな台詞──実際、拾われた音声でその言葉を聞いてしまった女性からは煩いくらいの悲鳴が轟いた──に全く反応を示さない葵、そのキラキラ攻撃が全く効かない妃沙、そして女生徒を大騒ぎさせているという自覚が全くない知玲という、三人の美形小学生の美しい瞳で見つめられ、当の本人であるにも関わらず、凡人で、それでいてごく一般的な感性を持つ大輔が動揺しない筈がなかった。
けれど、大輔にだってプライドはある。力不足は認識してしまったけれど、大勢の前でそれを理由に交代させられることは酷くそのプライドを傷付けるものなのだ。
「……俺じゃ力不足だって? ずいぶん失礼なこと言ってくれるな。それを認めちまったら格好悪すぎるだろ」
呟くように言う大輔の言葉に、一同はハッと息を飲む。特に頭に血が上って、そんな事を言ってしまった知玲の苦悶の表情は見守っていた女生徒達のハートを打ち抜くのに充分な威力があった。
けれど、言ってしまった言葉は取り戻せはしない。そして、それを肯定してしまった形の妃沙と葵にもバツの悪い表情が浮かんでいた。
「……でも、自分の力量は俺が一番良く解ってるよ。どんな事情かは知らないけど、オジョーサマを想っての言葉だってのは、解った。これから益々努力して、そんなこと言わせないようにしてやる!
今日の所は、俺は葵に勝ちたいだけだ。一度……他人の活躍で勝利を捥ぎ取ったあの時、二度とズルはしないって誓ったんだ。
だから葵、この勝負はノーカウントにしてくれ。どんな結果になろうとも、ここには俺とお前の勝負はなかった、お前がそういう事にしてくれるなら、この場はオジョーサマと先輩の真剣勝負、だろ?」
涙すら浮かべた大輔の真剣な表情に、三者はクシャリと表情を崩す。
その想いはそれぞれに複雑なものではあったけれど、妃沙と知玲にとっては突然の乱入を許された申し訳なさと安堵を得、そして葵は、幼馴染の真っ直ぐな心根を好ましく思ったのだった。
「……ああ。他人の状況を思いやれる優しさが、何よりもお前の長所だよ」
葵のその言葉で、妃沙と大輔の勝負は無効、そして新たに、妃沙と知玲の一発勝負という場所が整地されたのである。
───◇──◆──◆──◇───
「続行するようです! だがしかし条件は変わらず、ツーストライクからの一球勝負。ボール判定なし、挑戦者・東條 知玲が打てなければ全てそれはストライクと判定という事になったと報告がありましたァ!
イレギュラーなルールではありますが、そのおかげで今、グラウンドはかつて見ないまでの緊張感に包まれておりますっ! 果たして勝負の行方は如何にィィーー!」
彼らの行方を見守っていた実況担当の生徒が、やっと役目を果たせると言わんばかりの興奮を以て大声を張り上げた。
だが、グラウンドで対峙する妃沙と知玲、そしてバックネット裏の特等席で勝負の行方を見守る葵と大輔は言葉もなく、ラスト一球の行方に思いを馳せていた。
「……知玲様、一度、貴方とも真剣勝負をしたいと思っていたんですのよ。この一球に魂を込め、貴方に勝ってみせますわ!」
「……妃沙。僕は君に負ける訳にはいかない。君より強くならなければ、護るなんて夢物語でしかない。だから、打ち負かす事が君を傷付ける事であっても……絶対に負けない!」
最後の口上を述べた二人の表情が、相手を射抜き。
妃沙の握る白球が、スッと、グローブの中に収められ。
葵と大輔だけではなく、見守る全ての人々……実況担当の生徒からですら、吐く息以外の音が、消える。
「……技名を叫ぶ余裕はありませんわ」
一球入魂、と、妃沙が脚を高く掲げて投球フォームに入る。
その様子を真剣な表情で見つめた知玲は、前世から良く知る幼馴染──この場合は龍之介のその覇気を肌で感じ、身震いした。
(──キミとこんな風に真剣勝負出来るなんてね。前世の……僕が女で君が男だった状態なら、君は絶対に挑んでくれなかっただろうね。女には手を出さない、それが綾瀬 龍之介だから。
……でもね、『夕季』も、『龍之介』と真剣勝負……してみたかったんだよ。君は強い。だからずっと挑んでみたかった)
この場では一球勝負だ。
けれど、自分と相手の関係はこの後もずっと続いて行く。そして、こんな勝負をする機会もきっとある事だろう。
一度命を散らしたにも関わらず、こんな機会を得る事が出来ている幸福を、この時二人は深く感じていたのだった。
「……負けませんわ、知玲様!」
「……おいで、妃沙!」
互いに呟いたのは、魔術でも拾えぬ独り言にも似た音量のことば。
けれど確かに、妃沙の言葉は知玲に、知玲の言葉に妃沙に届いていた。
それは『音』という空気の振動に頼ったものではなく、真剣勝負の場にあって相対する対戦相手の唇の動きを見、理解し、脳内にインプットしたに過ぎない。
けれど、一言一句違うことなく届いたその言葉が、お互いに相手が一番言いそうな言葉であると理解し、フっと、一瞬肩の力を抜く事が出来たのだ。
……ああ、アイツは変わらずに、前世そのままの心根で自分に対峙してくれているのだと、心から実感することが出来たから。
妃沙の左手から、豪速球と言っても決して過言ではない白球が放たれた。
けれど知玲の瞳には、それはスローモーションのようにすら見えていて……
「僕に勝つのはまだ早いよ、妃沙! 大人しく僕の隣で可愛いままの君でいて……!!」
叫んだ知玲のバットが振り抜かれ。
──カキーン、と、とても良い音を放ち、白球が黄昏近い空に、吸い込まれて行ったのである。
◆今日の龍之介さん◆
「……負けねェぞ、知玲!」