◆124.結城 莉仁
結城 莉仁──それが彼に与えられた名前だ。
物心ついた頃から、自分は不遇の出自であるということは理解していた。
彼の産みの親はさっさと自分を捨てて逃亡してしまい、絶対に頼ってはいけない人に自分を預けたばかりか、今でもその消息は知れない。
絶対に頼ってはいけない人──寝取った男の妻が暮らす家の前に、自分は置き去りにされていたのだと言う。
寝取ったと言っても、一方的に熱を上げた女が一服盛って無理矢理に関係を築いただけで、けれども運良くというか悪くというか、自分という子どもを授かるに至り。
……けれど、彼の母親が愛したのは、あくまで父親であって自分ではなかったのだと、莉仁は幼い頃から理解していた。
母親の記憶はなかったけれど、育ての母である翠桜さんは自分の立場や出自を隠す事なく教えてくれたし、その上で貴方を愛しているのだと抱き締めてくれる、稀有な感性の持ち主であった。
子どもに男女のドロドロ遍歴を語る母親など、そうはいないに違いない。
ましてや、翠桜さんには実子であり、莉仁と同じ年の息子も、莉仁より年下の娘もいたのに、そんな中に莉仁を放り込んで生活をしていたのだ。
莉仁の父親であり翠桜さんの夫である男性は、大きな財閥の御曹司ということもあり、忙しく国内を飛び回る生活をしていて家にいることは少なかった。
だから彼が育った結城家は、翠桜さんと実子二人と自分という環境だったのだけれど……それは、とても居心地の良い空間だったのである。
「みおー! 一番おっきいハンバーグはおれのー!」
「それならあたしはちっさいのふたつー!」
「おれは……翠桜さんが作ってくれたのならなんでも……」
「はいはい。莉仁さんのおねだりが翠桜さん的にナンバーワンだったから今日は莉仁さんが大きいのと小さいの二つ、貴方達にも満足出来る量をあげますからちょっと待っていてね?」
そんな風に莉仁を優先する日ばかりではなかったけれど、莉仁が落ち込んでいたり、何か遠慮してしまう日には必ず莉仁を真っ先に褒め、優先し、抱き締めてくれた。
そして彼女の子どもたちも莉仁には一目置いてくれていて、嫉妬も色眼鏡もなかったし、逆に家族に溶け込めるようにと心を砕いてくれたのは彼らだったように思う。
そんな環境で育ってきたから、今では全く別の仕事をしている翠桜さんの長男とは仕事上でも付き合いがあるし、時々二人で飲みに行く仲だ。
そして妹のことは二人ととも溺愛していて、若くして結婚して子供を産んだ彼女には何かと気を配っているし、彼女の子どもは目に入れても痛くない程に可愛がっている。
時々、過剰なプレゼントを怒られるほどには、自分も未だ独身の長男も愛情を注いでいて、それを感じる度にむず痒い幸せを感じているのだ。
温かい家庭というものを実感する事が許される立場ではないと心の何処かで後ろめたさを感じていた自分を、家族として温かく包んでくれる存在には感謝しか抱けない。
「翠桜さんが俺にくれた幸せはさぁ……当たり前にそれを享受している人たちにとってみたら大した事がないものなんだろうけど、俺にとっては奇跡だった。
俺の出自を隠すことなく、俺にも子ども達にも伝えてくれたことも大きかったかな。下手に隠されて大人になってから知ったらダメージは大きかっただろうし、子どもだったからそんなモンかと思えたしな」
穏やかな表情でそう語る莉仁の言葉を、妃沙は黙って聞いている。
元より莉仁には妙な親近感を抱いてしまっていたし、その気持ちがとても真剣なものであることにも……本当は気付いてはいたのだ。
だが今、自分の気持ちに気付いてしまっていて……特に莉仁に対しては、どう接して良いものかと少しだけ考えていたのである。
愛とか恋とかを抜きにすれば、莉仁のことは好きだ。知玲ですら聞くことの出来ない、自分の素の言葉を聞いてくれる唯一の人物だし、その性格も考え方も、とても好感を抱く人物である。
自分がどうかは未だに解っていないけれど、知玲、莉仁、悠夜、聖あたりは芸能人みてーだな、と認識する程のビジュアルであったし、充はまぎれもない芸能人だ。
親友の葵もその恋人の大輔もいつもキラキラしていて眩しいくらい。そして、そんな彼らから放たれる自分を想ってくれる口説き文句めいた言葉の破壊力は何度も経験しているのだ。
もっとも、妃沙にとって見てくれなどただの入れ物で、彼らが眩しいのはその真っ直ぐな心根のなせる技だということを、ハッキリと認識している。
だが今、自分は『水無瀬 妃沙』という人格こそが自分だという認識に支配されており……そしてまた、莉仁が恋する存在も『妃沙』なのだと、正しく理解している。
恋というものが何なのか、どんな衝動を人類に与えるものなのか、正確に語ることはまだ出来ないかもしれない。
けれど、相手に何かがあれば脇目も振らずに突っ走ってしまうのが想うことなのだと、実体験をもって理解してしまった妃沙にとり、真剣な想いを告げてくれる人物に対してどう返事して良いものかということには未だ結論が出せそうにない。
本心を伝える事は簡単だけれど、果たしてそれが正しいことなのかどうか、それはどれだけ生きていても判断が難しいものだ。
特に妃沙は、前世から、怒りに彩られない他人の気持ちに応えるのは苦手なのだ。
だが、莉仁はそんな妃沙の葛藤を知った上で無視するかのように、楽しそうな表情のまま言葉を続けている。
「自分を磨くことは楽しかった。知識も経験も俺の糧だと思えたし、実績を上げれば翠桜さんも兄妹たちも褒めてくれたから、俺は自己研鑽に没頭していったんだ。
大人になるにつれて外野からの面倒くさい嫉妬や恋慕は感じるようになったけど……興味なかったし。俺は、結城の当主に立候補するつもりもなかったから、好きなように欲しい知識を吸収していったんだ」
俺、格好良いし、頭の出来も他とは違ったからな。
そんな事をサラッと言える存在に憎たらしさを感じない人間など少ないに違いない。
特に『龍之介』はそういう輩についツッコミを入れてしまう性格であったので、ピン、と、ソフトタッチのデコピンを莉仁に送るだけで抵抗を示し、黙って見つめる事で続きを待つという態度を示している。
だが、莉仁にしてみれば、心を寄せる人物がそんな可愛い態度で自分を見つめてくれている仕草には、切なさしか感じない。
「……ねぇ妃沙、もっと押したら俺にもワンチャンある?」
「何のだよ!? 莉仁、お前はとっくに『特別』だよ!」
「……残酷かよ……」
ハァ、と溜め息を吐いて頭をガシガシと掻き毟る莉仁。
過去の小難しい人生を語る女なんて妃沙が初めてだったのに……彼女ときたらあっさりと自分が求めるのとは違う意味はいえ『特別』だと言ってくれてしまう。
そんな所にきっと惚れたのだと、改めて気付いた所で想いは決して叶いはしない。
「……叶わないなぁ……」
思わず口から出た言葉。
困ったように微笑いながらそう告げる莉仁の表情は……けれど何処か、ふっきれたように爽やかなものだったのである。
───◇──◆──◆──◇───
「結城家の当主は完全実力主義で決められていてね。だから、俺の父親は相当に優秀な人なんだ。
母親はちょっとだらしない人物だったかもしれないけど、それを補って余りあるほどに父の血は色濃く俺に残ってくれたよ。
そして翠桜さん……彼女の考え方や教育方針も、彼にとっては大切な意思として息衝いた。自分の知識は確実に他人から齎されたもので、それを次代に伝えることでしか恩返しは出来ないんだって、翠桜さんが良く言ってたからな。
だから俺は、この学園が欲しかった。理事長になって、俺の理想を受け止めてくれる生徒と出会いたかったし……何より、俺の理想を誰かに聞いて欲しかった。
もっと格好良い言い方をすれば、俺が生きていた証を残したかったって所かな。学園で後進を育てることは俺にとっても必要なことのように思えてね」
その為にお金もたくさん使ったし、ちょっとだけズルいこともしたけどね、と、悪戯っぽく笑う莉仁。
前世でも今世でも高校生までしか経験したことのない妃沙には、その壮絶な経験はまるで解らないけれど、大きな学園の理事長という席にまつわる利権やそれに群がる大人たちのことは想像が出来る。
特に前世では、力でそういったものを手にしようとする連中に良いように使われそうになることに激しく抵抗していたのだ。
その強面だけでも大いなる威力になったし、人を良く観察して弱点をつくことや、喧嘩の強い所なんかは、そういう負の世界には大歓迎だったのである。
だから……本当は少しだけ、大人という人種が苦手で、自分がそう呼ばれる年齢に近付いていくことに、少しだけ恐怖を感じることもあったりするのだ。
だが、目の前の男は、そんな現実と闘って来た男だ。そして立派に勝利して結果を残している。
それだけでも、尊敬すべきことのように思えた。
「おまえはすげぇよ、莉仁。自分の過去も現在も受け止めて未来に活かそうとしてるし、周囲に対しても感謝や思いやりを忘れない。
俺は……もし前世のまま大人になっていたとしたら、きっとクズみたいな人間にしかなれなかったと思う。だから……この世界では絶対に誰かを幸せに出来る人間になろうと思って……」
そう言いかけて、その『幸せにしたい相手』の顔を思い出す。
考えてみれば、もうずっと……それこそ前世から自分が欲していたのはアイツの幸せだけだったと、莉仁にとっては切ない結論に至る。
自分の気持ちは理解したけれど……そうか、前世からなのかと、この時、妃沙は気が付いたのだ。
そしてとっくに、目の前の男には見抜かれているに違いないという、これまた莉仁にとっては気付いて欲しくはなかっただろう事にも気付く。
……そうなれば、彼に告げる言葉は一つだけだと、妃沙はフゥ、と軽く息を吐いて真っ直ぐに莉仁を見て、言った。
「約束を果たすぜ、莉仁。俺は……前世の記憶を持っている。そして、気付いてると思うが前世では男で……ヤンキーだと言われていた。
毎日喧嘩をしていたし、ヤクザから仲間になれと迫られていたし、同級生たちからは怖がられたし、教師たちからは迷惑がられた。
そんな俺を……唯一、側で見守ってくれて、怖がらずに接してくれて……それどころか守ってくれようとしていた幼馴染がいたんだ。
だから俺も、そいつのことだけは絶対に守りたくて……ずっと笑っていて欲しくて……でも、守り切れずに、俺もそいつも死んで、この世界にやって来た」
この世界でこの名前を告げるのは最初で最後だと、再び大きく息を飲む。
そしてまた、自分もこの名前と決別してただの『水無瀬 妃沙』になろうと決意し、妃沙は言った。
この世界で生きているのは『妃沙』で、求められているのもその存在で……けれどそれは『龍之介』を捨てることではなく、正真正銘の融合なのだと、決意を新たにする。
「前世の名前は……『綾瀬 龍之介』。この名前は俺とアイツしか知らないから、莉仁、お前はすっげー『特別』な存在だ。
けど俺は……アイツを……この世界で言う所の『東條 知玲』を……今度こそ絶対に、一生、側で……守りたい」
真剣な表情でそう告げる妃沙。
正面からその言葉を聞いた莉仁は、フッと、片眉をピクリと動かしながら苦笑する。
「……まったく。告白する前にフられるなんて冗談じゃないな。
確かに君の『もう一つの名前』を知りたいとは言ったけど、君と幼馴染くんの関係まで、こんなロマンチックな場所で暴露されるなんて……まったく、大人は損だよなぁ……」
そう言うと、莉仁は東屋から出て、海に面した部分にセットされた手摺りを乗り越えるようにして海に向かい、大きな声で叫んだ。
「水無瀬 妃沙さァァーーーん!! 俺、結城 莉仁は貴女のことが大好きでェェーーす!!!!」
大絶叫する莉仁に、東屋にいた妃沙もさすがに慌てた様子である。
なにしろ、元々が良く通る声で、地声もやや大きめで滑舌も良い男なのだ、朝の人気のない庭園で叫んだものだから、側で聴いていた妃沙は慌ててしまう。
彼の気持ちは察してはいたけれど、こんな風に言葉にされてしまえば逃げることなど出来ないし、ましてや直前に、自分は莉仁とは違った人物への想いを語ったのである。
……だがこれは、自分の想いをとっくに受け入れてくれているからこその莉仁のパフォーマンスなのだということも理解が出来たので、ノることにした妃沙。
「俺の好きな人は別にいまァァーーす!! 莉仁、お前の相手は俺じゃねぇけど、お前は絶対に幸せになりやがれェェーー!!」
莉仁の隣に立ち、莉仁に負けず劣らずの大声でそう叫ぶ妃沙。
誰かに聞かれたら恥ずかしいと、普段であれば躊躇ってしまうようなその言葉も、この場では相応しいとすら思えた。
莉仁にはきっと……直接的に、こんな風に告げる事が必要だと思ったし……それに。
──自分の気持ちを受け止めるのにも絶対に必要な工程なのだと、妃沙自身が理解していたのだ。
「残酷な天使なんてモテないよ、妃沙」
「モテたいなんて思ったことねーし! でもな、莉仁。お前のことも……すっげー好き。何だったら俺の信頼する女を紹介して……って、俺の周囲の女はほぼ全員、恋人がいて幸せだったわ」
「頼んでないからね!? 妃沙、そーゆーとこ……!」
大好き、と告げて妃沙を抱き締める莉仁。
そして妃沙も、莉仁を抱き締め返し、その瞳に涙を浮かべている。
「……絶対に幸せになれよ、莉仁」
「告白の返事としては最低だよ、妃沙」
莉仁の言い分はもっともだ。
だが、応えられない以上、妃沙としてはそうとしか言えなかったし、莉仁にもそれは正しく伝わったようである。
「ダメだお! 妃沙と龍之介が幸せにならないとボクちん、次のステップに進めないもんっ!」
「久し振りだな、おい! その設定忘れてたわ! ……でもまぁ、俺は幸せだよ。例え一方通行の想いでも、その幸せを護る事が俺の使命なんだって改めて気付けたからな」
「……一方通行、ねぇ……。どの口がそんな事を言うんだか。……塞いじゃおうかな」
「やってみろよ。セクハラで訴えてやるわ」
おーこわ、と、肩を竦める莉仁。
今更だろ、と、同様に肩を竦めて不敵に微笑む妃沙。
莉仁としては人生を掛けた告白が、相手に自分の想いを深める効果しかなかったことに、損な役割を感じざるを得なかった。
そして妃沙にとっては……莉仁の告白は、気付いていながらも背けたかった現実で、そしてそれに対して自分の言葉で返事を出来たことに申し訳なさと同時に少しの満足感がある。
きっとこの時間は、自分が前に進む為に必要な時間だったのだろうという実感は、奇しくも二人共同じ想いであった。
「俺、諦め悪いんだよねー! だからこそ今の立場があるワケだし。心変わりは人の世の常って言うだろ?」
「ねぇわ! マジねぇわ!! それに俺だって、相当ねちっこい気持ちを抱えてるんだぜ?」
楽しそうに笑い合う莉仁と妃沙。
だが、その二人の瞳に涙が浮かんでいたという事実は、二人の為に見なかったことにするのが人情というものだろう。
そしてまた、室内にいた知玲にも翠桜さんもその様子をそれぞれの想いを抱えて見つめていて……けれどもその事実は彼らの心の中に仕舞われていて、妃沙も莉仁も一生知ることがなかったのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「なーなー、知ってっか? 最初、文字登録を面倒臭がった作者は『妃沙』って変換するのに『きさきさ』って入力してたらしいぜー!」
莉「へぇ、そうなんだ。きさきさって可愛い響きだね」
龍「知玲と悠夜先輩の名字は作者のお気に入りの先輩キャラから取ったんだって」
知「へぇー……って龍之介、いきなりどうしたの?」
龍「次回、最終回だからネタバラシするんだってさー」
莉&知「!!??」
龍「寂しくなるなー」
知「なんで平然としてられるの!? まだ書き終わってないんだよ!?」
龍「……やべぇよな。ワハハ!!」




