◆119.悲しき抜け忍
ハッハッ、と息を切らせて、金髪の美少女が夕暮れ時の校舎内を駆けて行く。
無人の廊下を走る様は、紅く優しい光を受けて神々しい程だけれど、あいにくとその姿を見る事が出来る人物は何処にもいない。
しかも彼女はものすごい勢いで走りながらも視線は前後左右に常に動かしており、酷く集中している最中であったので、例えその姿を見る事が出来たとしても声は掛けない方が賢明だ。
こんな時の彼女──水無瀬 妃沙は前世の『綾瀬 龍之介』の意識が強く働いており、邪魔するものは蹴り飛ばす勢いであったから。
(──知玲が校内から連れ去られたのは間違いねェ! 長江先輩が相手じゃ証拠も残ってねぇだろうが……せめて場所だけでも特定して……)
考えながらも動かす脚は前へ、前へ。
何処に向かうという目的地はないのだけれど、画面で見た知玲と長江が向かっていた方向へと、ただ走る。
行きつく先にはきっと、何か痕跡があるはずだという確信と……何故だか、長江の深い後悔も感じることが出来るのだ。
この世界で関わった人々の中で、長江は最も前世の自分に近い考えを持った人物だと思っている。
最も、あの多くを語らず愛に生きる様に、憧れめいたものを感じていないと言えば嘘になるけれど。
自惚れる訳ではないが、知玲はあれで自分以外の人間には心を許し切っていない所がある。
そんな彼が思わず油断してしまったのも……おそらくは考え事をしていたか、自分に似た所のある長江を信頼していたからに違いない。
確かに、妃沙としてもこんな事件がなければ、長江とは心を分かち合う友人になれたかもしれないのに、と、少し残念に思っている。
そしてその原因が……あの残念な自称・ヒロインである、ということも。
長江ほどの人間を狂わせてしまうほどに恋というものが厄介な呪いなのなら、自分はそんなものは一生知りたくないと思ってしまう程だ……だが。
(──抗えないのもまた恋ってかよ。知らねェよ、そんなこと! 今はそれどころじゃねぇだろ、なぁ、妃沙!)
自らを呼ぶ名前の変化すら、その時の妃沙にはどうでも良いものだ。
そう、今世も前世も、自分の事などどうでも良いのだ……ただ、ずっと近くにいてくれた人が幸せに微笑んでくれるのならば、それで良い。
ただ、前世では信じられなかった『自分と共にあること』がその人の幸せであるということが……今では当たり前のように信じられてしまうのだ。
そして……きっと、自分も。
(──待ってろよ、知玲、俺が、必ず……!)
頭を振り払い、痕跡を探す事に注力しようと周囲に目を向ける。
すると、ほとんど使われていない教室が立ち並ぶ廊下の脇に、キラッと何か、光る物があるのが目に入った。
反射的に駆け寄り、落ちていたそれを手に取る。
「知玲様の……生徒手帳……?」
夕陽の最後の光を反射して、妃沙に存在を教えてくれたそれ。
氏名欄には確かに『東條 知玲』と書かれており、貼ってある写真もすました表情の知玲だ。年初に撮ったと思われる写真は、今の知玲より少しだけ幼いように見えるけれど。
手に取ったそれを、妃沙が何気なくパラパラとめくる。
真面目な知玲らしく、スケジュールは事細かく記されており、メモ欄にも生徒会の覚書やメモ書きなどが記されている。
その中には『妃沙』という文字も見受けられ、なんだかバツが悪くなった妃沙がそっと手帳を閉じようとした瞬間、最後のページに記された落書きのようなそれがふと……目に止まった。
(──プッ、ガキかよ、知玲のヤツ……。まったく……しょうがねぇなぁ……)
クスリと微笑んだ妃沙。
焦っていた気持ちが少しだけ和らいだような気がする。
大丈夫、知玲は知恵もあるし自分よりずっと力もある。それに、この世界には前世ではなかった『魔法』という力があり、知玲はそれに恵まれた存在だ。
きっと大丈夫。そう、自分に言い聞かせる彼女のポケットの中に忍ばせた携帯電話が、ブルブルと振動したのはそんな時だ。
画面を見れば、見慣れない番号だけが表示されている。
「……どなたですの?」
「……水無瀬か? 俺だ」
──長江先輩、と、何処かやっぱり、という気持ちが言葉に出たのだろうか、ポツリと妃沙が呟いた。
「知玲先輩は何処ですの?」
「……話がしたい。今、屋上だ。待っている」
そうとだけ告げると、電話はプツッと切れてしまう。
自分の言う事だけ言って人の話は聞く気なしかよと、少しだけ呆れた気持ちを抱きつつも、知玲の捜索に大きな手掛かりを得たことに、妃沙は手応えを感じており、
多少の危険は感じつつも、単身、指定された場所へと再び駆け出したのであった。
───◇──◆──◆──◇───
「長江先輩!」
すっかり陽の落ちた屋上で、その男は独り、手摺りに手を掛けて佇んでいた。
妃沙の呼び掛けに、ゆっくりと振り向くその様は哀愁に満ちていて、怒りを感じる事など出来ない。
知玲を連れ去ったのは彼だという確信はあるものの……その動機は彼の純愛と葛藤に満ちたものであることを、妃沙は今や深く理解しているのである。
「水無瀬か。独りで来るとは……さすがに剛毅だな」
フッとニヒルに微笑む表情がひどく様になっている高校生など、そうはいないに違いない。
実際、妃沙の周囲の人物は美形ではあるけれど、少なからず残念な部分が散見される人物ばかりなのだ……彼女自身も含めて。
そんな中にあり、渋くて抜け忍で己の純情に真っ直ぐでニヒルな人物など、前世から時代劇を愛していた妃沙の胸腺に触れないはずもなく、勝手に心を寄せている相手なのである。
想う彼女の為とはいえ、人ひとりを拐かすのは決して褒められた行為ではないけれど、何故だか妃沙には怒る気持ちはまるで生まれて来なかった。
ましてや彼は、自分が知玲を連れ去ったことを妃沙が知っているだろうことを知りながら、こうして彼女と対面する場に誘導して来たのだ、罪の意識も贖罪の気持ちもあるに違いがないのである。
「……知玲様の居場所をお教え下さる為にいらしたのでしょう? 長江先輩が知玲様を連れ去った所で何の意味もございませんもの、想う彼女の為にしたこと……けれど後悔もおありなのですわよね?」
その問いを受ける長江の表情を探るには距離も離れていたし、陽の光も落ち切っていた。
けれど、纏う雰囲気から肯定を察知し、妃沙は更に言葉を続ける。
「知玲様が危険に晒されているのなら、どんな手を使っても探し出して一刻も早く助け出さねばなりませんけれど……貴方に知玲様を害する意思はない。
そしてまた、今、知玲様と一緒におられるだろう彼女もまた、少し素っ頓狂な着想をされる方とはいえ、危険思想を持つ人物という訳でもない。
連れ去られた知玲様もまた、冷静な判断力と豊富な魔力、そして相手に対する観察眼と……優しさをお持ちの方です。今直ぐどうこうという事にはならないと、何処か安心している節はあるのですわ」
……莉仁あたりが聞いていたら、焦って脅迫して暴走しそうだったのは何処の誰だというツッコミが入りそうなものだが、この場にその莉仁はいない。
長江 誠十郎──彼はまた、不思議と対峙する相手に絶対の信頼を抱かせる達人であるらしい。
それは長江の意図する所ではないのだけれど、なるほど、確かに彼は幼い頃から家族からも友人からも絶大な信頼を得て来たものだ。
今、こうして、敵対してもおかしくない程の相手と対峙してすら、相手の瞳に宿るのは『信頼』なのかと、少しだけ面白く思う長江である。
「幼馴染を攫った犯人に大層な物言いだな、水無瀬。何故、俺が彼を傷付けないと確信出来る? 言っただろう、萌菜が望むなら俺は……」
「彼女もまた、知玲様が傷付くことなど望んでおりませんもの。傷付けるとすれば、対象はおそらくわたくし……恋敵のはずですわ。
けれど彼女は、わたくしではなく知玲様をお連れになるよう長江様に依頼した。それはきっと……切ない乙女心の成せる技、なのでしょうね」
心を寄せた相手だからこそ、長江の後悔も自己否定の言葉も聞きたくはない。
彼の後悔はこうして自分をここに呼んでくれたことからも解るし、贖罪はそれだけで充分だと、妃沙は食い気味に言いながら長江の方へと歩みを進めて行く。
誰かを深く想うということは、決して綺麗なだけの気持ちではないことは彼女だって知っているのだ。
想う人の幸せを優先させれば、何処かで別の誰かが傷付くこともある。
この世の中は様々なものが細い糸で繋がっている。誰かの幸せの影で誰かが傷付くことは避けられないことなのだ。
「長江先輩、本来なら、彼女の幸せを願う貴方と知玲様の安全を最優先させるわたくしとは相容れない存在のはずですわ。
けれど……貴方は逃げも隠れもせず、わたくしを呼び出した。それは……知玲先輩のことも救いたいと願って下さっているから。違いますか?」
言いながら、妃沙は長江の隣に立つ。
遠くからでは良く見えなかった彼の表情は、意外にもとても清々しいものであった。
「……本当に、お前には敵わんな。何故、俺の気持ちをこうも理解してくれるのが萌菜ではなくお前なのか……神は残酷だな」
フッと寂しげに微笑んだ長江。
……そうして彼の口から、今までの彼の話が語られ始めたのである。
───◇──◆──◆──◇───
「物心ついた時から俺は長江の人間としての技や作法や……心得を学んで生きて来た。
以前にも言ったと思うが、俺の一族はたった一人の主の為に生き、命を賭してその安全と幸せを護る為に存在するのだと言い聞かされ……そうだな、子どもの頃はその主がどんな相手だか、心を踊らせたりしたものだ」
一番星の浮かんだ空を見上げながら語る長江の表情は暗くてハッキリとは見えなかったけれど、とても優しい雰囲気を纏っているのは感じる事が出来る。
慈愛に満ちたその雰囲気は、妃沙が憧れた時代劇の主人公のようで、ひどくシリアスな雰囲気の中で、相変わらずかっけぇな、なんて場違いな事を考えながらも、黙ってその言葉を聞いていた。
彼の過去など、容易に聞いてしまって良いものなのかと疑問は抱いたけれど、きっと今、彼は語る事で胸中を整理し、懺悔をしたいのだと気が付いていたから。
「対象の主が異性であることは……実は極めて少ないのだ。多くは政府の要人や企業の代表といった、世間に多大な影響を与える人物がほとんどで、それが誇りとされていたのだがな。
俺の父は、何でもない娘であった母に運命を感じ、その身を捧げた。それで長江の本家からは疎まれる存在となってしまったのだが……ハハ、皮肉なことに、お陰で家庭は円満、俺は幸せな幼少期を過ごせた、という訳だ」
夜空に、本当に珍しい長江の笑い声が響く。
語られている言葉は酷く重いものであるのだけれど、彼の家族に対する深い愛情や、穏やかで幸せであったろう時代に想いを馳せている様を見ていたいとすら思えるものだ。
本当に幸せであったのだろう、ふ、と長江の肩から力が抜けるのが解るほどだ。
「だが、俺には類い稀なる闇の力が宿っていて、その力を嘱望され、将来はきっと、要人の警護や歴史に名を残す人物の影として大成するものと期待を寄せられていた。
俺自身は、父のように愛する者の為に生きる道を選びたいと思っていたのだが……この力は大き過ぎたらしくてな。初等部に上がる前に両親の元から引き離され、本家で教育を施されることになったのだ。
そしてその間、ありあらゆる権力者やその子どもと引き合わされ、この中から主を選べと、一族の誇りを汚すようなことすら言われてな。
だが俺は……俺には、どんな人物も同じにしか見えなかったし、心も動かなかったし、選ぶことなど到底出来なかった。そうするうちに期待は失望に変わり、出来損ないのレッテルを貼られるようになったのだ」
そして語られる、家族から引き離された長江家での生活のこと。
力の使い方などは楽しく学べたし、実際、彼の力は一族でも稀に見るほど強いものだったらしく、否定され続けた自分が唯一褒められる『技の取得』に、彼は没頭して行った。
一方、出会うべき主との出会いは全く訪れず、かといって他の誰かに無理矢理に忠誠を誓うことも出来ず、力と掟の狭間で、長江はだんだん壊れて行ったのだと言う。
「あまりにも誰にも忠誠を誓わぬ俺を、一族がいよいよ追放しようした時、助けてくれたのは母だった。
その頃の母は大きな病を抱えていて、自分の子を奪われたことで寝込む日々が多かったらしいのだが、いよいよ俺が追放されると聞いて、母は……」
言い淀む長江の表情と今までの流れから、良くない事が起きたのだろうと、キュッと眉を顰める妃沙。
だが、そんな彼女の方を悪戯が成功した子どものような表情で見やりながら、長江は言った。
「大喜びしてなぁ! 赤飯を炊いて俺を迎えてくれたよ。ついでに言うと、活力が戻ったとかで病すら弾き返してしまって、今でもピンピンしている。俺が唯一頭の上がらない女だな。
……いや、萌菜にも弱いか。今はな」
クックックッと楽しそうに笑う長江の隣で、妃沙は解り易くズコーッとくずおれた。
「……長江先輩、そういうキャラでしたっけ?」
「ハハ、そうだな。本来はこういう性格だったかもしれん。まぁ、お前があまりに真剣に、百面相をしながら話を聞いてくれるものだから調子に乗ってしまったのかもしれんがな」
くつくつと笑う長江。
まったく、人が緊迫したシーンに突入だと気合いを入れてやって来たと思えばこれだよと、妃沙は内心で悪態を吐いている。
だが、こうして彼の過去や本来の性格を聞くことで、やはりこの人は危険人物ではないなという認識を強めている。
生い立ちや、少し砕けた所を見たことでより一層、信頼を深めたくらいだ。
「……まったく、仕方のない方ですわね、長江先輩。わたくし、知玲様を心配してこの場に参りましたのに、少し忘れてしまっていた程ですわ」
フゥ、と溜め息を吐いて肩を竦める妃沙を、長江は楽しそうな表情で見つめている。
知玲を連れ去ったことについては、確かに罪悪感もあるのだろうし、妃沙にその状況の打破を教えてくれる為にここに呼び出した事は明白なのだけれど。
それはつまり、彼の愛する主……萌菜の意思に背くことでもあり、長江としては勇気のいることなのだろう。
もっとも、萌菜の意思とやらが複雑で悪意に満ちて、この世を震撼させるものであるとは、妃沙も全く考えていない。あの人物にそんな大仰な思想を打ち出すなんて無理だからだ。
「だが忘れてはいないのだろう? 水無瀬、お前も知っていると思うが、萌菜は少し考えの足らない所がある。そして思い付くことは幼稚としか言い様がない。俺にはそれが堪らなく可愛いが……世間一般には受け入れられないものだろう」
「素直におバカちゃんだと仰いませ!」
妃沙の言葉に、クク、と長江が楽しそうに笑った。今夜の長江はとても表情が豊かで、妃沙ですら面喰うほどだ。
「萌菜が深く心を寄せる東條に、俺は少し嫉妬しているのかもしれんな。だが、俺が何を言っても萌菜は聞く耳を持たないし、東條ならきっと、萌菜が何を言っても心が変わることがないだろうという信頼もあったから手を貸した。
だが、萌菜も随分と粘っているようだし、俺の嫉妬も限界だな。萌菜が俺以外の男と一時も離れず側にいる事を応援してやれるほど、俺の忠誠心は出来たものではないらしい」
水無瀬、と、妃沙を呼ぶ長江の声に真剣な色が乗る。
表情を引き締めて彼を見やれば、眉を顰め、何処か懇願するような雰囲気の表情の長江と目が合う。
その様は、餌をねだる熊のようであったとは……妃沙の後日談で、この真面目な雰囲気にはそぐわないものであったので割愛する。
「東條はここにいる。萌菜もおそらく一緒だ。その着想は俺には理解出来ないが……思い込んだら何をするか解らないのが萌菜であること、そして……彼女の懇願で俺が施した術も障害となるだろう。
だが、それを突破できるのはお前だけだろうし、そうすることがきっと……お前達には必要な工程なのだろう。行け、水無瀬」
そう言って、長江から手渡されたメモ用紙には、詳細すぎる地図と住所、あろうことか電話番号にここからのルートまで詳細に記されている。
こんな物を用意する暇があるなら、最初から誘拐なんかすんな、と、思わずツッコミを入れそうになってしまうのだけれど……なるほど、こうした『事件』は必要な工程だったに違いない、と、妃沙は思い直した。
「感謝しますわ、長江先輩! 萌菜さんも……もちろん知玲様もきっと救いだして、皆が納得する未来に向かう為に……わたくし、走りますわ……!」
そう言って屋上を立ち去る妃沙。
その姿を、一仕事やり遂げた充足感に満ちた瞳で、大男が見送っていたのである。
◆今日の龍之介さん◆
龍「長江先輩、渋いなー。格好良いなー!」
長「……褒められて悪い気はせんな」
知「・・・・・・」
莉「・・・・・・」
龍「……お前らには無理だから諦めろ」(ポン、と二人の肩を叩く)
知「(´・ω・`)」
莉「俺は! 渋みを! 諦められないィィーー!!」
龍「そういうとこだぞ、莉仁」