◆115.その涙は何だ?
家庭の事情により、次回の更新は12/10(月)となりますのでご了承くださいませ(土下座)
ツ、と大きな碧い瞳から零れ落ちる涙に、一番動揺したのは目の前の美青年ではなく、涙を流した本人であっただろう。
「……妃沙?」
仕組んだこととは言え、想い人の涙を見て喜ぶ人間などいようはずもない。
ましてやその情景は莉仁にとっても想定外のものだったのだ、少なからず彼も動揺はしているのだけれど。
「……ん? なんだこれ……?」
そう呟いて、自分の頬を伝う液体を親指で拭おうとして、意外なほどの熱量を持つそれに驚いてビクッと手を引っ込める妃沙。
その姿は、まるっきり自分が泣いているのだということを理解していないようで、もしかしたらこの子は泣いたことがないんじゃないか、なんて思ってしまいそうだ。
だが、もちろん泣いた事がないなんてことはない。
龍之介であった時代には独りでこっそりと、妃沙となってからは割と泣き虫になっちまった、というのが自己評価であり、概ね相違はない。
だがそれは気持ちが昂ぶった時に勝手に零れ落ちるものだという認識であった妃沙にとり、今、何故自分の頬に涙が伝っているのか、その理由がまるで解らないのだ。
「乾燥してんのかな……。そりゃまぁ、確かに驚きゃしたけど……なぁ莉仁、ここ、空気もあまり良くないんじゃねぇか? なんだか呼吸も荒くなってくるような……」
「妃沙!」
無理に言葉を捻り出そうとするかのような妃沙を見ていられなくて、莉仁がキュッと腕の中に閉じ込める。
何故泣いているのかは理解していないけれど、自分ではどうしても止められない涙、だがもちろん、他人にそれを見られるのは由としない妃沙は、有り難くその胸を借りることにした。
りひと、と小さく名を呼んで、彼の着ているシャツにその涙を吸わせている。
瞳を閉じて、時々見えた光景を否定しようと頭を振りながら……それでも一瞬で瞳に焼き付いたあの光景が浮かび上がっては胸をチクン、と刺激する。
「……なぁ……莉仁。知玲がモテるなんて今に始まったことじゃねぇんだ。
あの子も知玲の事が好きだって言ってたし、知玲に周りを見ろなんて言って、婚約を解消したのは自分からなんだ、だから……俺が望んだことじゃねぇか。良かったなって……言ってやらなきゃいけなねぇよ、なぁ……?」
「妃沙、無理するな。そんな言葉が聞きたかった訳じゃない。ごめん、ごめんな、妃沙……」
そう言いながら、莉仁の瞳にまで涙が浮かんでいるようだ。
もっとも、腕の中に閉じ込められ、ひたすらに莉仁のシャツに涙を吸わせる作業に集中していた妃沙はその切ない表情を見えてはいなかった。
この時、莉仁は自分の選択を激しく後悔したし、あの自称・ヒロインの策略に乗せられたのだということに気付いて自分の浅はかさを呪ったし、そしてまた、最大の恋敵だと思っていた少年のことも、少しだけ軽蔑しそうになってしまっていて。
まったく、自分の事を棚に上げて相手を非難するなんてらしくもないと、自分自身にツッコミを入れたものである。
けれども、腕の中の大切な少女にはそんな莉仁の心情は関係がなくて。
やがて落ち着いたのか、未だ涙の残る瞳で見上げながら、フフ、と寂しそうに微笑んだ。
「……悪ィ。お前の服、ビッチャビチャになっちまったな。ちょっと……驚いただけだ。もう大丈夫だから」
そう言って離れて行こうとする妃沙を、莉仁が素早く抱きしめる。
いつもなら悪態を吐くだろう彼女も素直に抱き込まれてくれていて……何故だかそれが彼女の衝撃を物語っているようで、そしてまた彼女をそんなにも動揺させているのは自分ではないのだということに、少しだけ口惜しさを覚える莉仁。
「……君はもっと素直に甘えることを覚えた方が良いな。少なくとも俺には……もっと甘えろよ、妃沙」
「……後で何を要求されるか解らねぇから遠慮しとくわ。甘いのは苦手なんだよ」
スッと莉仁から離れ、その顔を見上げる妃沙の瞳には、もう涙は残っていない。
白い頬にはまだその跡が残っていたけれど、陶器のようなその肌が、あっという間に乾かしてくれるだろう。
そしてその表情は清々しさすら醸し出していて、一瞬だけ、莉仁は彼女が泣いていたのだいう事実を忘れそうになってしまうほどだ。
だがその涙は確かに流されたのだということは、濡れた彼のシャツが物語っていたし、妃沙がどう取り繕おうと消せない事実なのである。
「ねぇ、妃沙。君の涙は見たくないけど……でも、ついてしまったのならその傷、俺に癒させてくれないか?」
そう告げる莉仁の言葉に嘘も下心もない。
ただ単純に、大切に想う人の涙を癒したい、そう思ってかけた言葉であったのだけれど。
「……ハッ。自分自身にも解ってねぇモンを他人様にどうこう出来るとは思えねぇな。
おかげで思い出したよ。自分って人間がどんな生き方をして来たのか。この世界は……俺には少し優し過ぎて、たぶんきっと……少しだけ甘えてた」
自嘲気味に、そして吐き捨てるようにしてそう言う妃沙の表情は、直前まで莉仁が見ていた愛くるしい少女のものではなくなっていた。
酷く排他的で、孤高で──そう、まるで前世の『綾瀬 龍之介』のような雰囲気を纏っていたのである。
知玲あたりがその姿を見たら、懐かしさと同時にとても後悔しただろう。
何故なら彼は、龍之介とは違った、幸せに満ちた人生を『妃沙』には送って欲しいと心を砕いていたのだ。
そして真実、『妃沙』としての人生は優しくて、暖かくて……『龍之介』にとっては夢のような毎日であった。
だが今、知玲が大事に育んでいた『妃沙』の心は萎み、心の奥底へと隠れてしまおうとしている。
その原因については『龍之介』自身も深く理解してはいなかったけれど……傷ついた心ごと隠してしまうのはもはや、彼にとっては自己防衛の手段なのである。
「生誕祭、エスコートしてくれるんだろ、莉仁? こんな狭い部屋で燻ってたらもったいねぇだろ! 次に行くぞ、次に!」
昔、纏っていたような剣呑な色を瞳に乗せ、そう言ってさっさと部屋を後にする妃沙。
その後を慌てた様子で莉仁が追随する。
「待ってよ、妃沙! エスコートの意味、解ってる!?」
「自分の行きたい所に連れて言ってもらうことー!」
「違うだろ!? それじゃ俺が妃沙にエスコートされる立場じゃないか!」
「ハハ、それ良いな! 理事長サマ、わたくしがご案内しますですわー!」
いつもと同じような会話。
彼女の口調にも表情にも、何も含む所はないように……見えてはいたのだけれど。
それでもこの場にはいたくないのだと言わんばかりに急いで部屋を離れて行くその姿が、莉仁の瞳にはとても痛々しく映っていたのである。
───◇──◆──◆──◇───
一方、妃沙に変化をもたらす原因となった知玲は激しく動揺していた。
「……ちょっ!? 河相さん!? こういうのは本当に好きな人とすべきだと思うよ!?」
慌てたせいで力任せに引き剥がした華奢な少女の身体。
だが知玲には全く余裕もなく、いつもなら気を遣ってしないだろう行為……思いっ切り拒絶の表情を表わすことだとか、グイッと手の甲で唇を拭う行為だとかを萌菜の前でしてしまっていた。
だって知玲にとっては突然のことで、その上、少しも気持ちを寄せていないどころか警戒すらしていた相手に唇を奪われた所で気持ちが動くはずもない。
だから本当は妃沙が傷付く必要なんてどこにもなかったのだけれど……どうやら今、二人の気持ちは思いっ切りすれ違ってしまっているようだ。
そしてまた、知玲の相手となっている少女にとっては決死の覚悟を以ての行為であったので、今は押せ押せムードである。
「本当に大好きだから知玲先輩に萌菜の初めてをあげたんだもん! 知玲先輩……女の子に恥をかかせるなんて、男の風上にも置けないよ?」
「イヤイヤ。僕が奪ったならその言い分は通じるけど、勝手に押し付けられても迷惑なだけだから」
あんまりな言い分である。
だが、確かにこの時、知玲は萌菜に対して明確な怒りを抱いていたのだ。
だって知玲はこの場所から一番近くにいた妃沙に気付いていたし、唇を奪われたあの瞬間、確かに妃沙と目が合ったのだ。
大きな碧眼を見開いて自分を見つめ……そして次の瞬間にはその綺麗な瞳から大粒の涙を落としていた妃沙。
恋する男子に思い上がるなという方が無理な話だ。自分のキスに動揺して、あの妃沙が涙を流すなど、知玲にだって想像出来ない事態である。
だから本当は、その瞬間に駆け寄って、どんな手を使ってでも自分と妃沙を隔てる壁を取っ払って彼女を抱き締めて……心の底から想いを伝えたかったのに。
現実ときたらどうだ、自分は今、迷惑にも襲撃してきた少女に拘束されており、直ぐにでも弁解に駆け寄りたい想い人はあっと言う間に理事長を連れて部屋から去って行ってしまった。
その間、知玲はつぶさに観察していたけれど、妃沙の纏う雰囲気が何処か変化していたように思う……それも、前世で恋焦がれた『龍之介』のものに。
駆け寄って、抱きしめて、夕季であった時代から心から好きだったと伝えたいのに、現実は上手くいかない。
「……知玲先輩、迷惑なんて言わないで……! 萌菜にはもう、知玲先輩ルートしかないんだよ? 一番好きで、だから最後に取っておいたら突然この世界に飛ばされて……現実で堪能しろってことなんだもん!」
その物言いに知玲がイラッとするのも無理はない。
自分の考えを他人に押し付けることがどれほど嫌悪感を抱かせるものなのか、経験の少ない萌菜はまるで理解していなかったし、ましてや自分の恋路が岐路に立っている知玲には大問題だ。
だって妃沙は泣いていたのだ……自分の行為に、おそらく傷付いて。
彼女のことだ、きっと自分の中で納得できる答えを見つけ、自分の気持ちを順応させているのだろう。
だが、知玲にとってそれは『まっぴら御免だ』としか言えない選択なのだ。
妃沙が何かに気が付いた。
妃沙が気持ちを動かした。
自分に対して……今までとは違う何かを感じ取った、あれはその涙なのだと、本能で察したのだ。
押すなという方が無理な話である。何しろ彼は重篤な妃沙好き病の患者で……更に言えば『龍之介』であった時代からの存在を含めてまるっと抱きしめて甘やかして溺愛している人物なのである。
涙には動揺したけれど……泣いてくれたことが嬉しいと思えるほどに、彼の恋心はとっくに拗れていた。
「迷惑って言っちゃ駄目? なら言葉を変えようか。面倒臭いしイライラする。僕にとっては厄介な押し付けでしかないよ。
ねぇ、河相さん、ゲームの中の『知玲』が君を振るシチュエーションもあるんだろうね。きっと優しい言葉で君を受け入れられないなんて言うんだろう?
でもね、あいにくと僕は『現実』の人間で、ゲームの中みたいに優しくないからハッキリ言うね。君の事を見る余裕なんか一ミリもないよ。僕には妃沙だけだ。それこそ、生まれる前からね」
呆然とした表情でその言葉を聞いていた萌菜にチラリと冷たい視線を送り、知玲はさっさとその場を去って行く。
その姿を黙って見送り……ややあってポロリと涙を流した萌菜。
「……なんでェェー!? なんでよォー!! リヒト×キサは生誕祭のあの部屋がフラグじゃん! ヒロインと攻略対象の生誕祭のキスはルート確定のフラグじゃん! ゲーム通りにしたのになんでェェーー!?」
ワァァ、と顔を覆って蹲り、号泣する萌菜の側にスッと寄り添う影がある。
「……萌菜、お前の言うことは相変わらず荒唐無稽だが……泣くな。俺の心が千々に乱れておかしくなってしまいそうだ」
低い声でそう言いながら、萌菜の肩を優しく抱く大男。
だがピンクブロンドの少女は今、正常の思考というものを何処かに投げ捨ててしまっている状態のようである。
「……誠くん。萌菜、もうゲームのシナリオは気にしない! エンディングまでに絶対に……だから…………ね、お願い、誠くん!」
コソッと大男の耳に何事かを告げる彼女の瞳は今、涙に濡れながらも狂気に支配されていた。
そしてまた、彼女の言葉を受けた彼も、最初こそ躊躇していたのだが……ややあってコクン、と首を縦に振る。
「……理解った。それがお前の幸せなのだな、萌菜」
大きな身体をものともせず、足音もさせず彼女の前から立ち去る彼の表情はとても悲壮感に満ちていたのだけれど。
──これが運命なのだと言い聞かせて動く姿は、まさに忍者そのものであった。
───◇──◆──◆──◇───
「妃沙っ!」
そう叫んで、知玲が追い付いた学園出口の校門で、妃沙は今、莉仁の派手な車にその小さな身体を乗り込ませようとしている所であった。
「……あら、知玲様、ごきげんよう。わたくしの今日のエスコートは理事長にお任せになるから一日逢えないね、なんて仰っていたのにイヤですわ」
口元に手を当ててくつくつと笑うその様は、一見、いつもの妃沙と変わりがないように見える。
だが、その傷付いた彼女を間近で見ていた莉仁には手負いの獣のように見えたし、
その姿を目の前にして、弁明なんてすっかり忘れて想いを伝えることしか考えられなくなっていた知玲には、自分が酷く拒絶されたような雰囲気を突き付けられた。
実際、その時の妃沙は知玲に対してどんな表情をすれば良いか解らず、昔のクセで皮肉めいた言葉と表情を彼に向けてしまったのだけれど……。
前世での妃沙を知る知玲にとってそれは、せっかく開いていた心を閉じ、世間なんか信じねェと自らに言い聞かせるように殻に閉じこもっていた龍之介の姿そのままだったのだから、伸ばした手を引っ込めてしまうのは仕方がない。
『蘇芳 夕季』であった時代には、龍之介のこんな拒絶の態度も気にせず纏わりついていたものだけれど……この世界に来てから、随分と素直になってくれた妃沙は、自分を拒絶するなんてことがまるでなかったから。
しかし今、自分の目の前で嫣然と微笑む妃沙から放たれるオーラは如実に自分を拒否していて、実際、妃沙としての意思もその通りだったのである。
「決めた事を違えるなんてらしくありませんわ、知玲様。ここでお目にかかったことはなかったことにして差し上げますから、今日はここでお別れしましょう」
それではごきげんよう、と言い捨てて、妃沙はさっさと莉仁の真っ赤な車に身を滑らせる。
二人の様子を黙って見ていた莉仁だが、今、自分が優先すべきは妃沙だと納得したのか、黙って運転席に座って爆音を発生させながら車を発進させる。
その選択は、別に莉仁が妃沙に心を寄せていなくてもしただろう選択であったし、妃沙としては安心して座り心地の良いシートに背を預けたのだった。
「妃沙……」
切ない表情と声で自分を呼ぶ知玲を、まるっきり無視したワケじゃない。むしろ逆に、妃沙の心はその場に置いて来てしまったのではないだろうかという程に、ここにある自分というのが信じられない気分だ。
……だが、決めたじゃねェかと、自分に言い聞かせる。
知玲の幸せの為に身を引くなんて綺麗ごとを言うつもりは全くない。
自分が本当に知玲が大切で……誰にも渡したくなくて、自分だけがその幸せを守りたいならそれを伝えるだけの気概は持っているつもりだ。
好きだの嫌いだの、恋だの愛だのという言葉の中で、自分の気持ちにより近いものが何であるのかは妃沙にも良く理解っていなかったけれど、そういうプラスな言葉なら知玲を傷つけはしまい、と思っている。
実際の所は傷付けるどころか増長させるだけの効果はあるのだけれども、実際には言わなかったし効果の程は未知数だ。
そしてまた、あの萌菜とかいう女生徒と知玲がどうこうなるという未来も、妃沙にはまるで想像出来ずにいる。
だから、今でも目に焼き付いているあの光景が、何故こうまで自分の心をざわめかせるのか、実際の所、妃沙自身にも解っていないのが現状なのだ。
……だが、物事は常に動いているし、人の心も常に変化する。
自分の心もまた、そんな流れに乗って動いていて……これが生きるということか、なんて、少し哲学的に考えながらフフ、と微笑む妃沙。
「……何? 俺の姿に見惚れてしまってた?」
「……あーそーだな、自信過剰な理事長サマ。俺の視線が外に向いてるのを知ってて言ってるんだから大した奴だよ、お前は」
「俺は多方向視線だからねー。だから妃沙……君が見えてないものも、見えてしまうのかもしれないな」
「カメレオンかよ、テメーは」
そうそう、実は前世はカメレオンだったんだよ、なんて冗談めかして語る莉仁の言葉を聞きながら、妃沙は少しだけ心が落ち着いて行くのが解る。
──知玲を残したあの場に置いて来た心の片割れが、少しずつ自分の中に戻って来るような、それは不思議な経験なのであった。
◆今日の龍之介さん◆
龍(ドン引きの目で知玲を見ている)
知「何?」
莉「……イヤイヤ、さすがに俺も怖いよ、知玲くん……」
知「だから何がですか?」
龍「……俺ならトラウマになるな……」
莉「……俺も三日三晩は涙で枕を濡らすなぁ……」
知(目を背ける)




